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村弘氏穂の日経下段 #55(2018.4.28)

時間とはをんなのこゑにふりつもり光を消してゆくものと知る
(東京 本多真弓)

 ここには書かれていない『をとこ』を登場させて、まだ明るい寝室の長い枕に一首を置いて全体的に艶っぽく読ませてもらうこともできる作品なんだけど、想像が膨張しすぎて弾けて消えてしまったので、もうひとつ浮かんだもう少し真面目なほうの読みを公開します。ひとことでいえば時間の定義。だけどその独自の解釈による時間の概念の捉え方が至極の詩情に溢れている。昨年も同じ作者の《時間》を見詰めた作品を取り上げさせてもらったんだけど、カタチないものを凝視して詩的に詠い表してしまう豪腕は相変わらず見事だ。本多氏が察知した《時間》の構造は、いわゆる直線的な時間でも線分的な時間でもなくて、超感覚的知覚によるサイエンスフィクションめいた構造に近い。もちろんニュートン力学以降のあらゆる科学者、哲学者とも異なる定義だ。その独自の見解にくらくらするほどの詩情があるだけだなく、作品の構造もかなりユニークだ。上の句で『こゑ』を詠んでいるんだけど、下の句ではそれに対応する聴覚ではなくて視覚に関わってくる。《時間》の耳は女声に反応して光を消してしまうのだ。《消す》ではなくて四、五句で跨った《消してゆく》だから、舞台のヒロインに当てたエンディングのスライダックのように、少しずつ消灯してゆくような趣が感じられる。《ふりつもる》という表記は、読者に時間の形状を想像させる。その実体は液体か、重い気体か、粒状なのだろうかと。そんな読みをしていると、消されてしまう《光》は、限りある星の生命の輝きのことのようにも思えてくる。いつの間にか『一人の女』の世界観が、神話か宇宙論レベルのスケールの大きな一首に成り上がるから不思議だ。また、時間の耳が感知する音声が女の声に限定されているから、はたして男声ならばどうなのかが気になって、男にもスポットライトを当てて欲しくなる。時間とは男の声に振り向きもせずに過ぎゆく光陰なのか。

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