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村弘氏穂の『日経下段』2017.4.1~

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土曜版日本經濟新聞の歌壇の下の段の寸評
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2017年7月の記事一覧

村弘氏穂の日経下段 #18(2017.7.29)

村弘氏穂の日経下段 #18(2017.7.29)

美しき若葉道だけ眼に在らば忘れても良し私の事は

(長野 若尾途志)

 自己へと宛てた教示だろうか、他者へと宛てた訓示だろうか。いずれであっても瑞々しい若葉道は、初々しい頃の人生とコネクトしている。自然界のものとの比較対象が、自身であるあたりには崇高な自意識が芽生えている。朔太郎の詩に「輪廻と樹木」っていう作品があったけど、榛の若葉は鬼のように輪廻して、一方「私」は樹木へと転生するつもりだから、

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村弘氏穂の日経下段 #17(2017.7.22)

村弘氏穂の日経下段 #17(2017.7.22)

お茶漬けがいいと長女が言う時は風邪を引く前幼なき日より

(春日井 斉藤清美)

 おそらくは葱や生姜や梅干しや海苔や祈りを入れた絶品。目一杯の愛情を注いだお茶漬けなのだろう。対象が風邪をひきそうだから、とはあえて言わない、そんな気遣いができる長女であるところもポイントだ。経験と血縁による絶対的な母親の察知能力は、いとも簡単に子を襲う災いの前兆を見抜いてしまうのだ。長女はまだ風邪をひいていない。き

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村弘氏穂の日経下段 #16(2017.7.15)

村弘氏穂の日経下段 #16(2017.7.15)

ただ前に走り続けた地下鉄が海の底から発見される

(東京 榛 瑞穂)

 制御不能の地下鉄。揚力を失った飛行機のように海へ向かって暴走するサブウェイ・パニック。モニターから忽然と消えた地下鉄車両。こうなるともう交渉人の真下正義か、公安9課の荒巻大輔に頼むしかない状況だ。このような近未来フィクションのプロットは、ごくごく平穏な地下鉄の車内で浮かぶものだろうか。きっとこの21世紀最大のミステリーが発見

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村弘氏穂の日経下段 #15 (2017.7.8)

村弘氏穂の日経下段 #15 (2017.7.8)

気になって戻ってみても今日だってやっぱりちゃんと閉めている鍵

(吹田 エース古賀)

 確認しに戻ってみて施錠されていた以上は、きっと何事もなくてよかったんだろう。だけどそれが度重なる行為のようだから玄関の前には、作者が虚しく立ち尽くしている。初句から四句まで連続する「っっっっ」という促音が、舌打ちのように徒労感を演出して、結句の安堵感をも凌いでしまっているのだ。過度の心配が招いた迂遠だったのか

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村弘氏穂の日経下段 #14 (2017.7.1)

村弘氏穂の日経下段 #14 (2017.7.1)

兄からの真珠の指輪を質に入れコミックの『ガロ』五年分買ふ

(坂戸 納谷香代子)

 読者の想像を軽々と超越する現実の面白さ。たとえば逆に、兄のコレクションの『ガロ』を譲り受けて指輪に替えたのでは意外性が生まれない。換金して贅沢な旅行をしたのではシュールな感覚に乏しい。この五年分の『ガロ』には、短歌にまでサブカル感をもたらしてしまう凄みがある。

友だちがいないと書いた連絡帳よくできましたとはなま

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