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【書評】『駅へ 新装版』松村正直歌集

2001年にながらみ書房から刊行された著者の第一歌集の新装版。

フリーターですと答えてしばらくの間相手の反応を見る

日が落ちてブランコだけが揺れている追いかければまだ追いつくけれど

定職のない人に部屋は貸せないと言われて鮮やかすぎる新緑

歌集冒頭の連作「フリーター的」から。
作者は長らくの間、定職を持たずに様々な町で暮らしていた。
それは自分が選び取った生き方ではあるのだが、
どこか、社会的な規範からは外れているという思いがあったのだろう。
「フリーター」という言葉が話し相手にどういう印象を与えるのかという不安や
一度外れてしまった「一般的な暮らし」に追いつこうとすれば
まだ追いつける(戻ることができる)という思い、
あからさまに部屋を貸せないと言われて、薄暗い気持ちになり
突如際立ってきた周囲の樹々の緑。
怒りもあるだろうが、自分があえて選んでいる道だという自覚があるので、
湧き出る感情を抱え込むしかない主体が浮かび上がる。

ひたひたと日は暮れてビルの壁面に無口な窓が貼りついている

柿の木に柿の実赤く残されて町は寡黙な冬を迎える

夕映えに胸のあたりを照らされて私ひとりの兎雲跳ぶ

朝焼けのまだ何ごとも始まらぬ空を見ており駅の広場に

風景を描写していると同時に心象をも表している歌も印象的である。
ビルの窓を無口と歌っているが、それは己の無口になってしまう心であろうし
寡黙な冬を迎えるという町も、作者自身の孤独がそう捉えさせているのだろう。
また兎雲の歌は、この名前の雲が気象用語としてあるわけではなさそうなので、作者の造語ととった。
兎雲という言葉だけだと元気で可愛らしい雲に感じるが
「夕映えに胸のあたりを照らされて」という上句に続くと、途端に寂しさが表面に表れてくる。
まだ何ごとも始まらぬのは、空であると共に、自分のモラトリアムな状態の描写に他ならない。

あくまで静かな歌いぶりで、感情は自制されている。
それでも、揺らめくほのかな思いがそっと手渡される感触がある。

もう夫婦ではない父と母がいて結婚式は静かに進む

デッサンのように何度も君の手に撫でられて僕の輪郭になる

閉じ込められるような不安を語りたり僕は理屈でないことばかり

歌集後半に物事はぐっと動く。
「結婚しない・就職しない・定住しない」誓いを立てていた作者が結婚するのだ。
離婚している両親も結婚式にやって来る。
その家族との関係もあってか、作者は結婚しても結婚相手と共に暮らすことに
閉じ込められるような不安を感じてしまう。
すべての物事から自由でいることは、残念ながらできないし、
ある程度達成できたとして(主体は結婚するまである程度達成していた)、それは寂しいことだ。
作者は複雑な思いに囚われながら、恐る恐る一歩を踏み出した。
その一連の心理状態を、読者は短歌というツールを通して辿ることになる。

私事ではあるが、仕事を辞めてなけなしのお金で海外へ行っていた時期がある。
この歌集を読んで、当時の寄る辺ない気持ちを強く思い起こした。
もういわゆる「普通の生活」には戻れないのではないか、という漠然とした不安。
でも自分のしっくりする生き方に正直でいたいという意志。
そんなアンビバレントな思いを、静かな声音で伝えてくれる一冊だと思う。
                   (2021/1 野兎舎)

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