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【書評】『にず』田宮智美歌集

2020年に刊行された歌集を再読した。
東日本大震災に大きな影響を受けた作者。いくら時間が経とうとも、そのことは生活に、そして作者自身の心に、様々な形で影響を与え続ける。

「たすけて」と言えれば会えたかもしれぬ夜に一人で過ごす避難所

自己紹介の十分後には震災のよもやま話に移る合コン

そのままにしておく白い壁紙のひび割れ 時にそっと触れおり

四年ぶりに職安に来つ被災者か否かを分ける欄できており

「津波にも遭っていないし住む場所も家族もなくしていないんでしょう?」

履歴書を書く 震災時知らぬ人にまぎれて床に寝た図書館で

一首目は震災の翌日、避難所で夜を迎えているところである。
「たすけて」と連絡をすれば、友人知人に会って状況を話して慰め合ったり、
もしかしたら何らかの手助けを受けられたりしたかもしれない。
でも、しなかった。
歌集を通して、作者は控えめで、自分が辛い時でも相手の気持ちを思いやってしまう人なのだ、ということが滲み出ているので
この時も相手の迷惑になるかもしれないと考えたのだろう。

二首目は被災して二年経った頃、合コンに参加しているのだが、そこでもやはり震災の話題は避けて通れない。
「私はこんな目にあった」のようなやり取りを、主体は複雑な心境で聞いているのだろうか。
この主体が大げさに自分の辛かった話をしているようには思えないので、
聞き役に徹しているのではないだろうか。

三首目の壁紙のひび割れ。そのままにしておいても生活に影響はないのだろうが、それを見るたびにあの日のことを思い出す。
「そのままにしておく」とあるから、あえて、なのだろう。
そして「時にそっと触れる」のだ。

四首目は離職して職安に行った時のこと。
被災者か否かの線引きは非常に難しいところだろう。
いろいろと状況を尋ねられて、書類なども見せて、どちらかに振り分けられるのだろうか。
ここにも主体の釈然としない思いが滲む。

五首目は誰かから言われた言葉だけでできている一首。このように尋ねられて主体は何と答えたらいいのだろう。
この発話者は無意識的にかもしれないが、「それぐらいで済んでいたら大したことはないではないか」と言っているようなものだ。
しかし事情はそれぞれだ。簡単に人に話せないこともある。
読んでいて、こちらの胸にも苦い思いが込み上げてくる。

六首目も、読んでいてとても辛い気持ちになった。
震災の時に避難して他人と雑魚寝した図書館で、今は履歴書を書いている。
時は流れ、図書館は図書館としての使われ方に戻っているが、
作者の脳裏にはあの時の映像が否応なく蘇るのだろう。

前職を辞めた理由を聞かれればわたしの中の鼓がしゃべる

専用のIDは付与されずして上司のパスワードを借りるのみ

主任しか使っていない電子レンジが主任の私物なのか聞けない

仕事に関する歌にも、胸を塞がれるような歌が多い。
面接で前職を辞めた理由を聞かれている一首目。
どのような理由にしろ「辞めた理由」は話しにくいし、
できるだけ後ろ向きに聞こえない理由を言わねばならない。
自分が意図していない言葉を喋るとき、他人が喋っているような気持ちになることがある。
それを「わたしの中の鼓」と表現したところが、ユニークだ。

二首目、三首目は臨時職員として働いているオフィスの歌。
臨時なので専用IDはもらえず、電子レンジも遠慮して使えない。
同じように働いているのに、不必要に肩身の狭い思いをさせられている。
「電子レンジが主任の私物なのか聞けない」という表現にウィットが感じられる。
この歌集では、辛い気持ちを読みながらも、随所にユーモアやウィットを感じられる箇所があって、それが読者の力みを緩ませてくれる。

いもうとの誓いのキスをながめおり未だ口づけをわたしは知らず

虹、虹と幾たび言えど通じぬを「にず」でようやく伝わる、祖母に

いもうとに先を越された不憫なる姉をことさら演じていたり

家族の苦しい関係を詠んだ歌も多い。
いもうとが出てくる歌を二首ひいたが、いもうとは主体より先に結婚する。その状況にとても複雑な気持ちを抱く主体。
しかし特に三首目の歌のように、作者は常に自分に厳しい目を向けがちである。
誰しも「自分が不憫」だと強調して、周りに慰めてほしいときはあると思う。
作者は目をつむりたいその気持ちを、あえて凝視して歌にしている。

二首目にあげた歌はこの歌集のタイトル『にず』の意味が明らかになる歌だ。
『にず』というタイトルは、ここまで来ないと意味がわからず、それがかえって歌集の魅力を高めていると思う。
祖母に何としても虹に気づいてほしかった主体。その優しい気持ちや、祖母との関係性が垣間見えるような歌である。

溺れたり流されたりもできなくてわたしはわたしのままの水底

薄い壁越しに花火の音を聴き裸でそうめん茹でる 一人だ

階段をゆっくり上がってゆく恋だ来週たぶん鎖骨にさわる

踏切を快速電車が通り過ぐ 言葉でちゃんと傷つけてほしい

自分自身を詠うとき、やはり作者の目は随分厳しい。
一首目。誰かに溺れたり、人に流されたりできない主体。「頼る」ということがしづらいのだろう。
それは強いことではあるが、寂しいことでもある。
下句は確固たるわたしがある、というよりは、もっと寒々しい心理を詠っているように思う。

二首目。一人暮らしだと、裸でそうめんを茹でたりしてしまう。だって誰も見ていないし、夏なのだから。
でも花火を誰かと見たかったな、という思いも同時に抱えている。

三首目。恋愛をしても、主体は慎重でゆっくりなのだ。
「来週」「多分」「鎖骨」という言葉がその慎重さを表している。
そして四首目は別れの歌。相手は転勤で引っ越してゆくようだ。
でも、きっちり話をして別れていく感じではないのだろうか。傷ついてもいいから、ちゃんと言葉にしてほしかったと思う主体。
きっと言葉を大事にしている主体だろうから、やはり辛いことでも言葉にしないともやもやしてしまうのだ。
そのもやもやを抱えたまま、快速電車が過ぎるのをただ眺めている。

心の内の弱い部分をさらけ出した、でも決して暗くはない歌集だ。
「生きてきたとおりに、歌はできてゆきます」と作者があとがきに書いているとおり、
その時その時で強く作者の心を捉えた感情が、激しくも静かな口調の歌となり、読者に強く迫ってくるようである。
                      (2020/7 現代短歌社)

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