【愛知県の皇室伝承】13.皇后陵「絵女房塚」 夢の中で美女に逢い、姿絵を描かせて似た女を探させた天皇(岡崎市)
はじめに
~豊後の民話における用明天皇~
人皇第三一代・用明天皇。ご在位はわずかに二年足らずで、長く「廃帝」扱いを受けていた仲恭天皇と弘文天皇が明治三(一八七〇)年に歴代天皇に列せられるまで、ご在位が最も短い天皇であった。それゆえに顕著なご業績といえば仏教の公認くらいで、他には聖徳太子の御父帝としてその名を残すばかりである。
歴代天皇の中でも影が濃いとは畏れ多くもいいがたい用明帝だが、しかし九州地方にはそんな彼が主要な登場人物となる民話が伝わっている。豊後国(※ほぼ現在の大分県)のいわゆる『真名野長者伝説』である。
用明天皇は田舎の長者の姫君を一目見ようと九州に赴いて、身分を隠してその屋敷で下働きをする。この展開は『烏帽子折草子』の一部としても知られている。
摂関家のような高貴な生まれではない地方の娘であるにもかかわらず天皇から情熱的な求婚を受けるという点が華やかな宮廷に憧れを抱く世の女たちの琴線に触れたのであろうか、用明天皇と絵女房の物語は往時かなりの人気があったらしい。物語の舞台である豊後国から遠く離れた東海道筋でも相当に流布していたようだ。
さて、室木弥太郎「舞曲の研究III:祝儀物・常盤物・判官物等について」(『金沢大学教養部論集. 人文科学篇』第七巻、一九七〇年)曰く、「話をこの地方で語るとすると、当然土地に結びつく」。
万灯山吉祥院の「絵女房」伝説
愛知県岡崎市明大寺町の「絵女房山」を寺域とする万灯山吉祥院。真言宗醍醐派の寺院である。明治四十一(一九〇八)年に開かれたという比較的新しい寺だが、当該寺院の主張するところでは、これは「再興」である。
寺伝によると、当寺は人皇第三三代・推古天皇の勅命を受けた聖徳太子により建立され、かつては大伽藍と三十六坊を擁したそうだ。元は「推古寺」と称し、孝徳天皇の時に「明大寺」を改めて長く続いたが、戦国時代に織田氏と今川氏の戦場となって灰燼に帰し、明治時代にようやく復興されて今日に至るという。
開山以前に書かれた地誌『三河国名勝記』によれば、絵女房山は戦死者の埋葬地として知られていたようだ。それゆえに、往古は「夜になると火の玉や亡霊がさまよい、ふもとまでくるしげな声が聞こえ、土地の人々は山に足を踏み入れた者には祟りがあると山に近づく者はなかった」という(万灯山吉祥院の公式パンフレットより)。
さて、そんなこの寺には、他にも九州地方・豊後国の民話である『真名野長者伝説』から派生したと思われる、皇室にまつわる伝説が伝わっている。
江戸時代以前の古地誌より
先述のようにこの寺は「絵女房山」にあり、実際に「絵女房塚」という塚もかつては存在したそうだが、そもそもなぜそんな地名がつけられたのか。岡崎市『岡崎市史 第八巻』(昭和五年)によれば、『三河八代記古伝集』という文献にこう由緒が書いてあるという。
ほとんどする必要はないと思うが、最初なので現代語で大意を示そう。
とある天皇の夢の中に絶世の美女が現れて、すっかり惚れ込んでしまった天皇は姿絵を描かせて、似た女を求めて全国津々浦々を捜索させた。すると二八歳ほどの寸分たがわぬ娘が見つかったので、天皇は彼女を宮中に召して皇后とした。百年後、ご遺言にもとづいてお骨を生まれ故郷に埋葬し、その上に塚を築いた――それが今日の絵女房塚である。
また、他の地誌にはこうあるそうだ。
続いて本間長玄『三河堤』(寛政年間)より引用しよう。
「哩諺二云、何レノ吃ノ天子ニヤ、御夢二御覧セサセ玉フ女房ヲ、絵二画セ玉ヒ御尋アリシニ、三河国明大寺ノ里二絵二似タル女アリ、是ヲ召テ后トシ玉フ、此后遺言シテ、我死セハ三河国明大寺二葬ルベシトナリ、依テ爰ニ埋ム」
また林自見正森『三河刪補松』(安永四年)には「往古従内裏絵姿ヲ以テ美女ヲ求玉フコトアリ、其頃当所ヨリ出シ女宮中二入、没後爰二葬ルト云」とある。
細部に違いはあるものの、絵女房塚はかつての后妃の御陵墓だという内容の言い伝えをどの文献も書き留めているのである。
『岡崎案内』より
万灯山吉祥院の歴史について詳述している文献としては、他にも岡崎案内発行所『岡崎案内』(本文書店、明治四十三年)というものがある。こちらでは、これまでに紹介した伝説とは全く異なる伝説が展開されている。
夢で見た娘という要素がなくなっており、また、どの天皇かが明示されていて、さらには皇后となった娘や、生まれた皇女の名なども示されている。
この文献によれば、六百年前、すなわち今から七百年前に「高宮親王」という皇族が、富士山へお成りの途中に薨去したという。その御方にちなんで村名を「高宮村」としていたが、それを後世に「明大寺村」と改めた――ということになっている。
では、絵女房山をどうして「万灯山」とも呼ぶようになったのか。それについては次のようにある。
推古寺に仏像を安置させた聖徳太子が、さらに当山に一万の灯を焚かせたことに由来するのだという。
さて、古人大兄皇子が滅ぼされた「大化の役」の折に、孝徳天皇がおよそ六カ月にわたって推古寺におわしたという。この頃、推古寺の近くに「越後屋」という旅舎があり(ずいぶんと近世的な屋号だな?)、どちらも絶世の美女だった「清月」「陽月」という姉妹がいた。孝徳天皇はこれを聞し召して、姉・清月を召されたそうだ。
孝徳天皇に寵愛された清月は数年後に妊娠し、故郷に造営された産所で、大化七年(※筆者注:大化年間は六年までしかないはずなのだが……)四月に「明臺姫」という皇女を出産したという。
のちに清月は剃髪して推古寺に入り、三十八歳で死去した。明臺姫は官女に養育された後、亡母を弔うべく尼になり、推古寺を「明大尼寺」とした。七十歳で薨去。これより「明大寺」に改称したということである。
同じ伝説でも当たる文献を変えれば細部に違いが見受けられるということはよくあるが、この万灯山吉祥院にまつわる伝説ほど展開が大きく違うものも、そうそうないのではないだろうか。
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参考文献
・岡崎案内発行所『岡崎案内』(本文書店、一九一〇年)
・伊予田英照『人生及国家救済之霊法 : 一名・病気災難根抜の法』(万灯山吉祥院、一九一五年)
・田中長嶺『参河名所』(近藤出版部、一九二二年)
・『岡崎市史 第八巻』(一九三〇年)
・室木弥太郎「舞曲の研究III――祝儀物・常盤物・判官物等について――」(『金沢大学教養部論集. 人文科学篇』第七巻、一九七〇年)
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