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【愛知県の皇室伝承】12.「岩屋山」由来記:三億八千万人の東夷が投げてきた巨岩を神通力で砕いた聖徳太子(豊橋市)

はじめに:
東海道の名所「岩屋観音」と伝説の数々

「二川の駅を過ぎて少し行くと旅客はその右に不思議な観音像の立っているのを見るであろう。これは名高い窟の観音である」

 自然主義文学の代表的作家の一人、田山花袋かたいが『日本一周』(大正三年、博文館)の中に書いた、岩屋観音についての文章である。この観音は江戸時代、街道を行き交う旅人に篤く信仰されたという。

 岩屋観音は、天平二(七三〇)年に行基が諸国巡錫の途次、一尺一寸(※約三十三センチメートル)の千手観音像を刻んで岩穴に安置したのが起源とされる。

 伝説によれば、平安時代末期の治承四(一一八〇)年、真言宗の僧侶・文覚もんがくが源頼朝のために平家追討の院宣を乞うべく都に向かっており、七月八日にこの地に来た。当時、この岩穴には「高師の庄司」という盗賊がいて、文覚も追い剥ぎに遭ったという。

行基が千手観音像を安置したと思しき岩穴。

 岩屋観音は備前岡山藩主・池田綱政に篤く崇敬された。観音堂を管理する大岩寺だいがんじには、綱政が自ら筆写して奉納した観音経などがある(豊橋市指定文化財「大岩寺岩屋堂観音経・灯籠及び絵馬」)。

 寺伝によれば宝永四(一七〇七)年の参勤交代の帰途、東方の白須賀宿に泊まっていた綱政の夢枕に、日頃から篤く信仰している岩屋観音が現れて、
「今夜大津波が押し寄せてくるので早く立ち去るがよい」
 とお告げをしたそうだ。綱政が急いで二川宿に向けて出立した後、白須賀宿を大津波が襲ったという話である。

手水舎に「備前少将源綱政寄進」とある。
備前岡山藩主・池田綱政のことである。

 その山頂には、昭和二十五(一九五〇)年に建てられた銅製の聖観音立像がある。伝説によれば、宝暦四(一七五四)年の吉田大橋の架け替え工事の難しさに困った二人の大工が麓の観音堂に七日間参篭さんろうしたところ、夢のお告げがあり、そのおかげで橋を完成させることができたという。その報恩のために建立され、第二次世界大戦中に供出されたものを、戦後に再建したというわけだ。

 そんな岩屋観音像が頂上に立つ岩屋山には、上に挙げた数々の伝説ほどには知られていないものだが、さらに聖徳太子に関する伝説もある。

岩屋山の知られざる聖徳太子伝説

 各地で語り継がれる伝説は、往々にして荒唐無稽な内容であるものだが、岩屋山の聖徳太子伝説は、それらに輪をかけて荒唐無稽な話となっている。

 聖徳太子が御十歳の時である。即ち敏達天皇の十年、辛丑かのとうし二月、千島のえびす三億八千有余万の大軍をひきゐ、大和国訳語田おさだの都に攻め上つた――三億八千万という数字はどこに根拠があるのかわからないが随分エライ事である。それから千島の軍勢とあるが、北海道の千島あたりに軍勢のあるべくも思はれないからこれは奥州の松島辺と見てよからう。松島には先住民族の居住した跡が沢山ある。土地のものも矢張やはり夷の住んだ跡だといつてゐる(松島を千松島ともいふ)ともかく聖徳太子はこの大軍をお防ぎになつた。
 夷は太子が只の皇子ではない。仏様の御化身であるからとても弓矢ではかてぬ――といふので大きな石を投げつけてそれを唯一の武器として攻めかけた。この石がまだ滅法界もない大きなもので、――驚いてはいけない、太子は神通力をもつてこの石を打ち払ひ給ふた。すると石は三つに破裂して三ヶ国に墜落した。
 その一つは奥州、一つは播州の海岸におち、今もこゝを投石の浦と伝へてゐる。なほ一つの破片が三河におちこれを岩根の里と呼んだ。現今の渥美郡二川町岩窟山岩屋山が即ちこれだ。

乙部静夫『東三河の伝説』(東三河の伝説刊行会、昭和九年)九七ページ。
乙部静夫『東三河の伝説』(東三河の伝説刊行会、昭和九年)九七ページ。

 管見の限りでは、江戸時代中期の延享二(一七四五)年――第八代将軍・徳川吉宗が辞職した年である――に刊行された半紙一枚刷りの『岩屋観音略縁起』が、この伝説について記した書物としては最も古い。

抑々当山開闢は、人皇三十一代敏達天皇辛丑年、千嶋の東夷数万の軍勢を率て我朝をおかさんとす。時に聖德太子十歳にして、東夷征伐に向ひ給ふ。東夷盤石を擲て太子を害せんとす。太子忽ち神力を現ハし、鞭を揚て支へ給ふに、盤石三ツに破して三国に落つ。一ツは奥州、一ツは播州、一ツは三州に落つ。今此岩屋是也。茲を以、所を岩根庄大岩の里ト云。委き事ハ太子伝記に見えたり。(後略)

近藤恒次『三河文献集成 近世編 上』(国書刊行会、昭和五十五年)八二ページ。

 現在の岩屋山ですらかなりの大きさだというのに、伝説によれば元はさらに巨大な岩として降ってきたという(それはもはや隕石ではないのか?)。聖徳太子は神通力を以てこの難局を乗り切られたというが、具体的には、鞭を使って対処されたそうだ。

 普通に考えれば、当時十歳の聖徳太子が鞭をどうお振るいになったところで大岩に届くはずもない。お振るいになった鞭が天空の巨岩にまで届くほどに巨大化したのか、あるいは、ただ鞭を掲げるだけで巨岩が神通力によって勝手に分裂し始めたのだろうか。

昭和天皇の「駐蹕」の地

 聖徳太子が神通力によって大岩を砕いたというエピソードは、いうまでもなく架空の伝説にすぎない。しかし、それはそれとして岩屋山は紛れもなく皇室ゆかりの地である。

 戦前の豊橋は「軍都」と呼ばれた軍事都市であった。市の南部には演習場など陸軍の各施設があり、皇室の方々が軍務でご訪問になることや、数年間にわたり赴任されることがあった。この際に、古くから東海道の名勝として名高い岩屋観音へと足をお運びになる方もいらっしゃった。その筆頭が昭和天皇であらせられる。

 昭和二(一九二七)年十一月二十一日、昭和天皇は、御代最初の陸軍特別大演習のために愛知県に行幸あらせられた。この際、同年七月に設置されたばかりの陸軍教導学校などをご視察になるために、豊橋市にお寄りあそばした。同市内の向山町には、これを記念する「聖蹟せいせき」の碑が現存している。

旧陸軍豊橋教導学校の大講堂は、現在の愛知大学第2体育館である。
「聖蹟 大蔵政務次官大口喜六敬書」とある。

 この豊橋行幸時に昭和天皇は、岩屋山の頂上までお登りになり、そこから豊橋地方をご展望になったという。さほど高い山ではないが、歴史的用語を用いれば「国見くにみ」をなさったのである。

 この当時の様子は、愛知県編『昭和二年陸軍特別大演習並地方行幸愛知県記録』(昭和四年)に詳しい。岩屋山は、普通の山ではなく、その名の通り岩山である。昭和天皇におかせられては、そんな岩屋山を、なんと滑りやすくなっているであろう時雨の中で登り始められたそうだ。

朝来しぐれ模様の空はこの頃つひに雨となり、 大元帥の御軍服をぬらしたが、 陛下にはかへつて御興趣あるものの如く、小松の原中の道を、いと御軽快に御馬を駆けさせられ、鮮やかな御騎手ぶりを拝せられた。かくて美事に一里余の高師原を横断あらせられ、原の東百北隅に屹立する百尺の岩山である岩屋観音に御着あり、石段下にて馬を下りたたせられ、玉歩を頂上に運ばされた。御元気の 陛下には、峻嶮なる登山道にさげられた鉄の鎖に御手をふれさせ給ひつつ、忽ちにして頂上に御登挙あり、一丈二尺の観音像のかたはらに立たせられて、脚下に展開する豊橋市、高師原、遠くは遠州灘、三河湾など御眺望遊ばされたが、しぐれいよいよしげきため、約五分間にて御下山あり(後略)

愛知県編『昭和二年陸軍特別大演習並地方行幸愛知県記録』(昭和四年)六六九ページ。

 山頂にいらっしゃった時間は五分ほどで、雨が激しさを増したのでご下山になったという。もしも岩屋山ご到着のタイミングが後ろに数分でもずれていたならば「今からお登りになるのは危険ではないか」と待ったが掛かってご登山は中止されていたに違いない。

 なお、秋本文吾編『光栄録』(光栄録謹纂所、昭和三年)などに、岩屋山の頂で説明をお受けになる昭和天皇の御真影が収録されている。聖徳太子の伝説まで聞こし召したかは不明だが、もしも当時その説明もお受けになったとしたら、著名なご親戚のあまりにも荒唐無稽な伝説をどうお思いになったのだろうか。

愛知県編『昭和二年陸軍特別大演習並地方行幸愛知県記録』(昭和四年)二二ページ。中央が昭和天皇。「岩屋山行幸=山頂にて説明を聴取あらせられつゝ御展望」とある。

 今日、岩屋山の頂上には「駐蹕ちゅうひつ之碑」と刻まれた記念碑が聖観音像とともに立っている。「駐蹕」とは、天子が一時的に滞在することである。豊橋寺院誌編簒委員会『豊橋寺院誌』(豊橋仏教会、昭和三十四年)によると、昭和四(一九二九)年になって建てたものだという。


正面に「駐蹕之趾」、側面に「陸軍大将正三位勲一等功三級尾野実信書」とある。
いつ建てられたのはこの記念碑からはわからない。

 聖観音立像にもいえることだが、さほど高い山ではないとはいえ、頂までこの長くて重い石碑を運ぶのは、かなり骨が折れる作業だったはずである。それだけに、天皇陛下の行幸があったことを後世に伝えていきたいという、関係者たちの情熱的な思いを筆者は強く感じた。

「昭和二年十一月二十一日行幸」とある。なお、写真右端に映っている伊藤ハム豊橋工場は、昭和三十九(一九六四)年十一月十二日に高松宮宣仁親王がご視察(『宣仁親王略御年譜』第五巻)。また、中央の豊橋市総合動植物公園は、平成十八年(二〇〇六年)九月七日に高円宮久子妃が、平成二十六(二〇一四)年二月十九日に秋篠宮文仁親王がご視察。

 なお、鈴木関道『東海道に於ける二川宿・大岩加宿の研究』(昭和八年)によれば、岩屋観音をご参拝になった皇室の方々としては、他にも久邇宮邦彦王俔子妃良子女王(※後の香淳皇后)、竹田宮恒久王、元韓国皇太子の李王垠などが挙げられるという。

久邇宮殿下は大正六年八月から第十五師団長として、高師に御在任で、数度岩屋山へも登山せられた、又良子女王殿下も母君と共に御参拝になつたこともあつた。殿下は仝七年八月で御転任であつたが、其後も一度大演習の統制将官として御登山になつた、次の師団長は尾野玄信(※筆者注:尾野実信)大将であつた、竹田宮殿下は騎兵第十九聯隊長として、大正四年一月から仝五年八月まで御在任で、岩屋山へは数度御来馬になつた。李王殿下等も軍事演習の際に御登山になつた。

鈴木関道『東海道に於ける二川宿・大岩加宿の研究』(昭和八年)一三七ページ。

 これらの皇族方のご参拝を記念するものは、残念ながら現在の岩屋山には見当たらない。昭和天皇がお登りになったことですら認知度はそう高くないのだから、多くの皇族方もお登りになったという歴史を認識している者は、おそらく地元の住民でもほとんどいないだろう。


参考文献

・愛知県編『昭和二年陸軍特別大演習並地方行幸愛知県記録』(一九二九年)
・乙部静夫『東三河の伝説』(東三河の伝説刊行会、一九三四年)
・鈴木関道『東海道に於ける二川宿・大岩加宿の研究』(一九三三年)
・豊橋寺院誌編簒委員会『豊橋寺院誌』(豊橋仏教会、一九五九年)
・豊橋市史編集委員会編『豊橋市史 第五巻 古代・中世史料編』(豊橋市、一九七四年)
・鈴木眞哉『三河国岩屋観音亀見山大岩寺誌』(二〇〇一年)

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