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【小説】『玉葉物語』前日譚「竹の園生の御栄え」第一話「朝家、縷の如し」

 拙小説『玉葉物語』は、各小説投稿サイト(小説家になろうカクヨム)で連載します。noteにはとりあえず前日譚とその後しばらくの分は試し読みとして置いておくつもりです。画像類を気軽に載せられる利点があるので、ひょっとしたら最後まで連載するかもしれません。

※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。


第一話「朝家ちょうかいとごとし」

(一)朝家、縷の如し

『日本書紀』によると、神代かみよの昔、朝家ちょうか御祖神みおやかみたらせられる天照大御神あまてらすおおみかみにおかせられては、御孫みまにあたらせられる瓊瓊杵尊ににぎのみことを葦原の中つ国へとお遣わしになるに際せられ、
宝祚あまつひつぎさかえまさむこと、まさ天壌あめつちきはまり無かるべし」
 と、すなわち、皇室の繁栄は間違いなく天と地のある限り続くだろう、と仰せになったそうだ。三千五百余年にもわたって続いてきた朝家の長い歴史の最初期の一ページを飾る、天壌無窮てんじょうむきゅう神勅しんちょくである。
 神代の伝説にはさまざまに考察されるところも多いが、さて、この神勅はいったいどのように解釈すべきなのであろうか。按ずるに、そのままの意味ではなく、皇位が絶えてしまうことは永遠にないと約束するものの危うげに思われる時すらもないわけではない、という程度のものだと考えておくのがよいのだろう。
 それというのも、今でこそ、竹の園生のご繁栄ぶりは民草たみぐさの誰もがよく存じ上げていることであるし、それゆえに作り話だと思って信じない人々もいるほどだけれども、とりわけ応仁の乱の後などには、ご践祚の後も即位礼が何十年もおできにならなかったり、内裏の塀がぼろぼろに崩れてその上に草が生い茂ったり、餅屋・川端道喜かわばたどうきの献上物を頼みとしなければ帝のお食事の用意にも困ったりするほどに、御稜威みいつがひどく衰えてしまわれていたからだ――。

『家の鏡』より、道喜供御進献の所
(『国民精神文化文献』第十三巻)

 元朝期に編纂へんさんされた『宋史』の「日本伝」には、次のようにある。日本では、君臣くんしんともに同じ家がひさしく続いてきた――藤原氏出身の僧・奝然ちょうねんよりそのように奏上そうじょうされた宋の太宗たいそうは、
「島夷にすぎないというのに、玉座を代々を受け継ぐことは遥かに久しく、その臣下もまた継襲して絶えない。思うに、これぞまさしく古き良き時代の理想の王朝の姿だ。中国は唐李の乱により分裂し、後梁・後周・五代の王朝は、短命であったし、大臣も世襲できる者は少なかった。朕の徳は太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、大臣の子等に官位を継がせたい。これが朕の心である」
 とたいそううらやんだ、と。

此島夷耳、乃世祚遐久、其臣亦継襲不絶、此蓋古之道也。中國自唐李之乱、寓縣分裂、梁周五代享歴尤促、大臣世冑、鮮能嗣続。朕雖徳慙往聖、常夙夜寅畏、講求治本、不敢暇逸。建無窮之業、垂可久之範、亦以為子孫之計、使大臣之後世襲禄位、此朕之心焉。

『宋史』列伝第二百五十 外国七より。

 しかしながら、中華文明の理想とする王朝像を体現しているとみなされた皇国の朝廷とて、一切不変ではありえなかった。太宗の頃にはすでに藤原氏が長く大臣を継いでいたが、古くは葛城かつらぎ氏や平群へぐり氏、巨勢こせ氏や蘇我そが氏といった孝元天皇の三世の孫・武内宿禰たけうちのすくねの後裔が多かったのである。易姓革命えきせいかくめいこそ起きなかったけれども、朝臣ちょうしんについては興亡こうぼうが絶えることがなかった。桓武天皇のお血筋であるというのに時の流れとともに低くなってしまっていた家格から、ほんの数代のうちに栄華を極め、驕り高ぶるがあまり、
「此一門にあらざらむ人は、皆人非人にんぴにんなるべし」
 とまで言うほどになったものの、さらなる繁栄を願って豪華絢爛な『平家納経』を厳島神社に奉納したのもせんなく、春の夜の夢のごとくごく短いうちに滅び去ってしまった平家一門が象徴するように。

『平家納経』より「観普賢経」見返し
(厳島神社所蔵)

 平家以上に忘れてはならないのが、下層よりおこりて天下人にまでのぼり詰めるも、君臣豊楽ほうらくの願いもむなしく浪速なにわつゆと消えてしまった豊太閤ほうたいこうの一門である。豊臣氏ほど極端ではないにしても、下剋上げこくじょうの風潮もあった戦国乱世の頃には、織田氏、徳川氏、蜂須賀氏など、多くの新興勢力が伸張した。明治以降には、元は貴からぬご出自ながらも国への功労から爵位をお得になった勲功華族が大勢おいでになった。本朝における家々の興亡のすべてを挙げようとすれば、五千本もの指をお持ちの千手観音ですらお手に余るであろう。

「大坂夏の陣図屏風」右隻(部分)
(大阪城天守閣所蔵)

 初代の鎌足かまたり以来、千二百年の長きにわたり栄華を保った藤原氏ですら、明治の百事ひゃくじ御一新ごいっしんに伴って摂関を始めとする家職かしょくをことごとくお失いになったのみならず、昭和の大御代おおみよに至り、華族制度の廃止によって一家の例外もなくご身分さえもついには奪われてしまわれたのであるから、もしも冥界にいる太宗がこれを耳にしたならば、なんと勿体ないことをしてしまったのか、とさぞ口惜しがるに違いない。

 万世一系ばんせいいっけいの朝家とて、けっしていつの世もご安泰であらせられたわけではなかった。聖系せいけいを脅かしてきた問題としては、承平天慶の乱や元寇、第二次世界大戦や第三次世界大戦など、幾多の兵乱もあったけれども、最大の問題はやはり日嗣ひつぎ御子みこがおいでにならないということであった。
 わけても、江戸八百八町はっぴゃくやちょう専横せんおうを極める田沼意次おきつぐ公への陰口で満ち溢れていた頃などは、洛中らくちゅうのどの辺りを探してみても、延暦えんりゃく聖代せいだい以来のみやこ嘉名かめいにふさわしく御心みこころの内の平安たいらかな公卿くぎょうは、ただのお一人としていらっしゃらなかった。それまで京の都では、お健やかな皇子みこがあまりおいでにならない聖上せいじょうが何代も続けてお立ちになっていたのだが、時の後桃園ごももぞの天皇におかせられては、ご幼少のみぎりから蒲柳ほりゅうしつであらせられたがために皇儲こうちょを儲けることがおできになりそうもなく、それがためにいよいよ正統しょうとうのご存続が危ぶまれていたのである。
 野宮定晴ののみやさだはるきょういわく、
「近代皇統微々びびいとのごとし、恐歎きょうたんにたえず」
 また柳原紀光やなぎわらもとみつ卿曰く、
「ひとえに朝家ちょうかの大事、天下の安危あんきこの期にあり」
 天命が尽きてしまわれたということでもないのであろうけれども、とどのつまり、中御門なかみかど天皇以来のお血筋に代わって旁支ぼうし閑院宮かんいんのみや家から新帝がお立ちになったのだが、光格こうかく天皇がおはじめになったこの新たな聖統せいとうでも、あたかも薄氷はくひょうむがごとき皇位の承継しょうけいがなおも明治の御代まで続いたのだった。
 それでも、大正の御代にもなると、かつてはしきりにおありだった皇子のご夭逝ようせいも医学の進歩によって珍しいこととなったし、大正天皇にはお四方もの皇子がいらっしゃったから、ようやく皇統の危機は過ぎ去ったように思われた。昭和の御代には、室町むろまち以来の伏見宮ふしみのみやのお血筋に属される五十一名もの皇族方がこぞってご身分をお捨てになるという大変事だいへんじがおありだったが、異議がありつつもそれが認められることになったのも、
「これほど大勢の殿下方がみな臣籍しんせきに降下なさったとしても、きっと朝家はご安泰あんたいだろう」
 という風に考えられたからにほかならなかった。

旧竹田宮殿邸

 大正の帝のお血筋のみにせばめられた後でさえ、金枝玉葉きんしぎょくよう御身おんみがお増えになりすぎてしまうのではないかと気がかりに思う声が民草から上がることが少なくなかった。昭和四十三年四月三日、国権こっけんの最高機関たる国会において民主社会党の受田うけだ新吉がかくのごとく述べたことは、時代の空気をよく示しているといえよう。

皇族に対して国家がその保障をして差し上げる経費がずぼらにどんどんふえてくるということでは、皇室に対する国民の尊敬というものにもひびが入る危険が将来あると私は思う。このあたりで、その皇室の範囲をある程度制約する規定を設けるべきじゃないかと思うのですが……。(中略)何世以下は王と称することができないというような規定にでもしておかないと、タケノコのようにとんとん――多産系の奥さまでも来られたら、もう百人、二百人という王ができる。

『第五十八回国会衆議院内閣委員会』第八号より。

 ところが平成の御代に入ると、朝家の危機が昔よりもさらに深刻さの度合いを増して再び問題となった。あちらこちらに金枝玉葉の方々がいらっしゃる景色を当たり前のものと思っている今の世人せじんには想像だにできないことだろうが――四十年余りも皇位継承権をお持ちのお方がお生まれにならないという、おそれ多くも皇運こううんがもはや尽き果ててしまわれたのではないかとすら思われる状況が続き、その後もしばらくの間、揚子江ようすこうの激流をたらいで下るがごとき危うげな皇位継承が続いたのである。この何代かの御宇ぎょうには、浮き世をはかなんでばかりの仏弟子ぶつでしに限らず、かなり多くの民草が朝家の衰滅すいめつ必定ひつじょうだろうと考えていたものだった。
 けだし安化あんかの大御代こそは、天孫降臨てんそんこうりん以来の長い本朝の歴史の中で、朝家が最もお危うかった時期であったのだろう。

(二)つききみ

 安化のみかどにおかせられては、御一粒種おんひとつぶだねとして、ご称号をば允宮みつのみや、お名をば迪仁みちひと親王と申し上げる皇太子があらせられた。この皇太子殿下には、ご幼少のみぎりからたいそうご聡明そうめいであらせられ、またお優しくていらっしゃったけれども、それはそれは奥手なご性格で、御学校へお通いになり始めたばかりの頃からずっと女人にょにんとはまるでご縁がおありでないご様子であらせられたので、
「稀代の仁君じんくんとならせられることは疑いないけれども、いつの日かお世継ぎを儲けることはおできになるのだろうか」
 と、宮仕みやづかえの人々が老いも若きもみな密かに不安がっていたほどであったが、そんな東宮殿下にもやがて、親しくお言いわしになるようなお相手がおできになった。
 東宮殿下がお心を寄せられたお方と申し上げる女人は、椿の花を思わせる鮮やかなお唇、雪の精のように白いお肌、艶々とした長い黒髪など、ご容貌ようぼうが並外れて優れていらっしゃったし、旧華族かぞくのお血筋でこそいらっしゃらなかったけれども世に名家めいかといわれるお家柄のお生まれで、そのうえお人柄もご教養もすばらしいものがおありだった。
 絵になるお二人が東宮御所のお庭などで談笑なさっている時、東宮職とうぐうしょくの人々は、お勤めの最中であることを忘れてつい見惚れてしまうのが常だった。宮仕えの人々ですらそのようなありさまならば、平素へいそよりお二人を見慣れていない者どもはなおさらである。安化二十三年の夏のある日、殿下におかせられては、初めてご令嬢とご一緒に民草の前にお出ましになった。朝早く、上野恩賜公園うえのおんしこうえん内の数多あまたの蓮の花が美しく咲き誇る不忍池しのばずのいけのほとりにて、うるわしいお二人がお互いをしばらく見つめていらっしゃるのをたまたま拝した人々はみな、
「もしも極楽浄土ごくらくじょうどが実在するとしたら、まさにこのような光景なのだろう。自分はいつの間にか往生おうじょうしてしまったのだろうか」
 などと、『仏説阿弥陀経ぶっせつあみだきょう』が浄土にあると説いたもの――金銀珠玉をちりばめた建物や宝樹ほうじゅ、さまざまな珍しい鳥など――がほとんど足りていないばかりか、遠方には高層ビルが雑然と立ち並んでいるのが視界に入ってしまうにもかかわらず、すこぶる自然に思った。お二人を遠目に眺める数十人の民草の中には、
「ありがたや、ありがたや」
 と言いながら感涙かんるいを流し、震える両手を合わせて念仏を唱え始める老人までいたほどである。
 蓮花れんかというものは、朝に開いて、昼にはもう閉じてしまう。人々はそんな花をこそ見たいと思ってわざわざ足を運んできたというのに、不覚にも、後光ごこうしているようにすら見える輝かしいお二人にばかり目を向けてしまった。
 しばらくしてお二人はその場を後になさったが、その際に殿下のすぐお隣を歩かれるご令嬢に人々は大いに魅了された。唐代に編纂された『南史なんし』によると、南斉なんせいの廃帝の一人である東昏侯とうこんこうは、贅沢を好んだがためであろう、黄金を材料に蓮華れんげの花を模したものを作らせて、寵愛する潘貴妃はんきひをしてその上を歩かせしめたそうだ。この故事から美人の歩みのことを昔から「蓮歩れんぽ」というけれども、もしもこの故事成語がなかったとしても「美しい蓮の花々も霞んでしまうような貴婦人の歩み」という意味の同じ単語がこの日新たに生まれていたかもしれない――そう思えるほどの並外れた優雅さゆえのことであった。
 お二人がにこやかにお去りになった後も、残された人々は余韻よいんに浸って、
「あの美しいお嬢さまはいったいどなたなのかしら」
 などと時間を忘れて語り合い、そうこうしているうちに、ほとんどの人々はその日はまだろくに鑑賞できていないというのに、台覧たいらんを賜ったからもう十分だろうとばかりに花のほとんどがつぼみに戻りかけてしまっていたが、これを残念がる者は一人としていなかった。思いがけない拝顔はいがんえいよくした人々の中には、見渡す限りの蓮を前にしながらも、蓮池を訪れた当初の目的が何だったのかをすっかり忘れてしまう者さえ少なくなかった。

伊賀八幡宮(愛知県岡崎市)の蓮池にて

 安化二十四年の秋の夕べ、かしこくも皇太子殿下におかせられては、中秋ちゅうしゅうの名月を楽しまんとおぼし召して、東宮御所にごく親しい方々のみをお招きになった。そうして、お庭に打ちでて空に浮かぶ月をごらんりながら、

名月を眺めて思ふかぐや姫 それかあらぬか君はまばゆし
(あの美しい中秋の名月を眺めながらも、僕は貴女あなたのことばかりを想っています。もしかすると、眩いほどに美しい貴女の正体は、帝の求婚でさえも突っぱねたと『竹取物語』にあるかぐや姫なのではないですか。違うのならばよいのですが)

 とお歌をおみになった。東宮殿下には、直接的に愛をささやくのは気恥ずかしいとかねてお思いになっていたから、このような遠回しで古めかしいやり取りを好ませられた。それゆえに、お歌の意味がすぐにはわからないという様子の人も少なからずいたのだが、殿下のお側に付き従っていらっしゃったご令嬢は、これに対し奉り、

かがやけるかの月も日のあるがゆゑ 我きこゆるも君あるがため
(月が輝いているのは太陽があるからでございます。私めのような者が世間で評判になっているみたいでございますが、それも日嗣の御子であらせられる殿下がお目をかけてくださるおかげでございますよ)

 と、ぽっとおほおを赤く染められながらもただちに返歌へんかをお詠みになった。この時、その場に居合わせた誰もが、歌の意味がわかった人はご令嬢の教養高さと慎ましさに、意味がわからなかった人もその平安めいたみやびさに感じ入って、
「皇太子妃となるべき人は、やはりこのお方をおいて他にいらっしゃらないだろう」
 と心の底から思ったものだった。いったい誰が言い出したのであろうか、この夜の宴を境にご令嬢は「月の君」と呼ばれるようになられた。
 お呼ばれを受けた人々は、月明かりに照らされつつそっと肩をお寄せ合いになるお二人の後ろ姿を拝見しながら、夢を見ているかのようなうっとりとした表情を浮かべる者がほとんどだったが、彼らの中でも、ご学友のお一人でいらっしゃる島津旧男爵家の若殿だけは、
「そう遠くないうちに僕の名がお二人の恋のキューピッドとして知れ渡り、後々の世まで記憶されることになるのだろうなあ」
 とたいそう誇らしげでいらっしゃった。それもそのはずで、彼が文字通り骨をお折りになったことこそが、本来ならば接点がまるでないままご生涯を終えられたであろうお二人が、運命の悪戯いたずらだとしか思えない形で出会われるきっかけとなったからである。

 殿下には、いまだ御学校の高等科に在籍していらっしゃった頃のある日、車にかれてしばらく入院することになってしまわれたこのご学友を見舞わんと、都内の病院へとご潜行せんこうあそばされた。この時、皇太子殿下の行啓ぎょうけいに気づいた一人の老婆が驚きのあまり大騒ぎし始めたことを契機に、院内はにわかに沸き立って、あたかも慰問のご公務のようになってしまったのだが、もしもその老婆が年甲斐もなく騒がなかったなら、また、もし殿下が老婆を相手になさらなかったなら、たまたまお怪我を負われたがゆえに同病院にお入りになっていた月の君と殿下が出会われることはけっしてなかったに違いない。
 殿下には、ほんの一部であるとはいえ分厚い古典全集をご病室にお持ち込みになるという今時珍しいご令嬢がお目に留まり、思わずあれこれとお話しになったのだが、何から何までご趣味がお合いになったことから、すっかり意気投合された。そして、実際には島津の若殿のご病室に足をお運びになったのは最初の一度きりだったというのに、週に一度は、
「島津を見舞う」
 というご名目のもとに、月の君のご病室へと行啓あそばすようにならせられた。およそ一ヶ月後、退院なさってからそのことを知らせられ給うた島津の若殿におかれては、
「なんとお薄情はくじょうな。長年の友である僕よりも、出会って間もない女のほうがお大事だと仰るのですか」
 とご機嫌をいささか悪くされたものだが、後で月の君をご直々に紹介され給うた際には、これほどすばらしい女性ならば殿下が夢中になってしまわれるのも仕方がないことだろう、と心からお思いになって、
「殿下、その恋を成就じょうじゅさせるためでしたらば、不肖ふしょうの身ながらどのようなことでもお手伝いさせていただきまする」
 などとお申し出になって、やがて自他共に認める天下第一の協力者となられたのである。

 さて、月の君は先ほど和歌の中で、皇太子殿下を自ら光を放っている太陽に、ご自身をその光を反射しているにすぎない月にたとえられたが、夜の世界は天照大御神ではなく月読命つくよみのみことこそがお統べになっているらしい。それだからというわけでもないのだが、――後醍醐ごだいご天皇がしばしば月影にお喩えになった中宮ちゅうぐう後京極ごきょうごく院が、教養と美貌を兼ね備えられながらもたびたび夫帝をお振り回しになるほど情熱的でいらっしゃったように――月の君には、日の出ているうちの衆目しゅうもくを集め給う場では慎ましげでいらっしゃるけれども、人目の少ない夜などに殿下とお二人で過ごされる時には恋人として主導権をお握りになるのだった。
 皇太子殿下におかせられては、月の君のお手をしきりに気になさったが、気恥ずかしさゆえにか、なかなか繋ぐことがおできにならずにいらっしゃった。島津の若殿には、やがて月の君のほうからそんな殿下にお手をお求めになったのを拝見しながら、
「あの殿下のご様子では、やはりご婚儀はまだまだ先のことなのだろうか。国生み神話によると、女の伊邪那美命いざなみのみことから誘ったがために水蛭子ひるこ淡島あわしまが生まれたという。それを信じるわけではないが、手を繋ぎたいと求めるくらいならともかく、さすがに女から皇太子にプロポーズするわけにはいかないからなあ」
 と、思わずため息をおつきになった。しかし、彼のご想像に反して、その時はそれほど間を置かずして訪れた。

 その年の仲冬ちゅうとうのある夜、お二人は東宮御所のお車寄せで、しんしんと降りしきる雪を目の前に、長く抱擁ほうようをおわしになった。月の君はいつものように殿下に頬擦りをなさって、
「東宮ではなく春宮はるのみやとも仰る殿下のお身体は、まさに春の日和ひよりのようにお温かくていらっしゃるのでございますね。東宮御所からわが家に帰る時、私はいつも胸が張り裂けそうな心地ここちでございますが、こんな雪の日にはなおさら離れがたく思ってしまいます。もうおいとましなければならないお時間でございますのに――」
 と、真白い息をお吐きになりながら名残なごり惜しげに仰った。殿下にはこの刹那、いつになく強く月の君をお抱き締めになりながら、いよいよ、
「僕も、貴女あなたとお別れするたびに胸が張り裂けそうな思いです。こんな辛い思いをするのはもう嫌です。――結婚してくださいますか」
 とふるってご求婚あそばしたのだった。
 月の君にはこれに対し奉り、ほんの一瞬、たましいがさまよい出てしまわれたかのようなご表情になられた後、目に随喜ずいきのお涙を浮かべられながら、殿下を抱擁なさる力をこれまたいつにも増してお強くされて、
「ああ、嬉しゅうございます。なれど殿下、みなさんがはたして私のような者をお認めくださるのでしょうか」
 と、喜びと同時に不安のお気持ちをも吐露とろされたが、何の理由もなくそのように不安にお思いになったわけではなかった。
 この頃、月の君はすでに最有力な東宮妃候補としてお名を挙げられるようになられてから久しかった。それにもかかわらず、その後もご結婚までにはなかなか至らなかったが、それと申し上げるのは、お気の毒なことにこのお方が、お身体があまりお丈夫なほうではいらっしゃらなかったからである。皇太子殿下に初めてお目にかかった時が初めてのご入院ではなかったし、ご幼少の頃には大病たいびょうをおわずらいになったことさえおありだったので、
「世襲制を続けるうえで最も大切なお役目を果たすことがおできにならないのではないか」
 と私見しけんを述べた宮内庁次長のように、皇太子妃としてふさわしいかを気がかりに思う者も宮中には少なくなかった。それでも、王朝文化の華やかなりし平安の頃ですら、
きさきの位も何にかはせむ」
 などと日記にお書きになる貴族がいらっしゃったくらいだというのに、何かとご窮屈な暮らし向きとなる御位みくらいを快く引き受けてくださる人を探すのは、政略結婚がすっかり衰えた今の世ではとても難しいことであろう。直近の数代だけをかんがみても自然とそのように思われたし、
「あの方との結婚が許されないのであれば、僕は生涯どなたとも結婚することはないでしょう」[1]
 とまで仰せになるほどに東宮殿下がご執心しゅうしんであらせられたから、それならばお心に添うようにして差し上げようということで、皇室会議がご結婚を是とし、晴れてご婚礼の相成ったのが、安化二十五年の早秋そうしゅうであった。
 明くる安化二十六年の正月、宮中で催された歌会始うたかいはじめの儀において、皇太子殿下にはこのようなお歌をご披露になった。

うれしきは君の寝顔の見ゆる夜 くれば夢とおぼゆる秋かな
(成人と同時に東宮御所に移って以来、これまで一人寂しく過ごしていた夜に、月の光に照らされて愛しい貴女の寝顔が自然と見えるのが本当に嬉しいです。夜が明けた時にはいつも、東宮御所に貴女の姿があるのを見て、いまだに夢の中なのではないかと思われる新婚の秋です)

 その年の勅題ちょくだいは「秋」であったが、御製ぎょせい、皇后宮御歌、皇太后宮御歌、皇太子妃殿下のお歌は、いずれもご婚礼にまつわるものであった。民草から寄せられたおよそ百万首もの詠進歌えいしんかも、ご成婚を奉祝ほうしゅくするものばかりで、秋風に舞い散る紅葉もみじ銀杏いちょうの物悲しさというような秋のうれいを詠んだものはほとんどみられなかった。
 津々浦々に住まう民草は、身近なところに松や梅、桜や楓などを記念樹として植えたり、ご成婚記念の特製の親王飾りを買い求めたりして、久しぶりのご慶事を盛大に言祝ことほいだ。
 しかし、前世からのごうゆえのことであろうか、あるいは知らず知らずのうちに仲哀ちゅうあい天皇のごとく神仏のお怒りに触れてしまわれたのであろうか、皇太子同妃両殿下の幸せに満ちた日々はそれほど長くは続かなかった。

(三)東宮薨御とうぐうこうぎょ、悲嘆に暮れたま雲上人うんじょうびと

 ご成婚からわずかに一年半ほどしか経っていない安化二十七年の四月中旬、両殿下におかせられては、とある劇場の創立五十周年の記念式典に行啓になった。その帰路、隅田川沿いの桜の花が舞い散るのをしばしご覧になっていた時、皇太子殿下には、にわかにお倒れになったのである。妃殿下には、御身に何が起こったのかをすぐには理解することがおできにならず、みながお命を救わんとする中、ただただ呆然とされるばかりであった。
 当時の竹の園では唯一、皇位継承権をお持ちのお方でいらっしゃった春宮殿下には、ご求婚に際せられ、
「どんなことがあっても、僕が絶対に貴女あなたを守ってみせます。貴女は何一つ心配することはありません。もしも子ができなかったとしても、その時は天が皇室をもはや不要と判断なさったのだと考えればよいのです」
 とまで仰せになっていたが、その殿下がいまだ和子わこをお儲けにならないうちにとみに薨御こうぎょあらせられたことにより、いずれ天位てんいをお受け継ぎになるべき金枝玉葉きんしぎょくようのお方がとうとう誰一人としていらっしゃらなくなってしまったのだった。

北野天満社(愛知県岡崎市)にて

 すでに老境ろうきょうにお入りになっていらっしゃった上御一人かみごいちにん皇后宮こうごうのみや陛下、蒲柳ほりゅうしつでいらっしゃった東宮妃殿下、かなりお年を召しておいでだった皇太后宮こうたいごうのみや陛下などよりも先に、お若くてお健やかな東宮殿下が黄泉路よみじにお立ちになってしまうなどとは、誰にとっても思いがけないことであったし、それだけに残され給うた雲の上の方々のお悲しみようははなはだしいものであらせられた。
 唯一の御孫みまにあたらせられる故東宮をご溺愛できあいなさっていた皇太后宮陛下におかせられては、大宮御所おおみやごしょの庭園で花をでていらっしゃった最中に御事おんことげられ給うや、嘘よ、そんなの嘘よと泣き崩れられ、しばらくしてようやく落ち着かれたかと思えば、
わたくしのために用意していただいたみささぎの場所を、允宮に譲ることはできないのですか。践祚せんそしないうちにこの世を去ってしまった允宮を、できることならば豊島岡としまがおかの皇族墓地にではなくて、天皇と同じようにして葬ってやりたい。私のむくろでしたら、檀林だんりん皇后[2]のように野辺のべに捨て置いてくれて構いませんから」
 と、すすり泣きながらお声を上げたもうたから、お側に五十年ほどもお仕えし奉ってきたある女官にょかんは、
世紀の大恋愛の末にご一緒になったという先帝陛下と今生こんじょうの別れをされた時でさえ、『私にはもう必要ありませんので、クローゼットの中の服はすべて処分してください。私は大喪たいそうが明けてからも、死ぬまで喪服にしかそでを通さないつもりですから[3]』と殊勝しゅしょうに仰せになりつつも、お涙はついぞお見せにならなかったあの国母こくもさまなのに」
 と、驚きを隠すことができなかった。しかし、よくよく考えてみると、大日本帝国憲法の頃であれば皇太子も国葬を以てお送りすることができた[4]というのに、今の世ではそうはいかないし、また、和子がいらっしゃらない以上は、いずれ新帝のご実父として太上天皇だいじょうてんのうの号を追贈ついぞうされ給うこともない。つまり、廃されたのでもない東宮としてはほとんど例がないようなご不憫ふびんな扱いとならせられるわけだから、皇太后宮陛下がひどくお心を乱され、せめて自分の陵を譲りたいと仰せになったのも無理からぬことだと思われた。
 また、皇姉こうし熙子ひろこ内親王殿下におかせられては、御一人身ゆえにお子さまがおいでにならないこともあって、東宮殿下をまるでわが子のようにお可愛がりになっていたから、その悲嘆に暮れ給うご様子もやはり実の母親のようでいらっしゃった。
 ある時、粗忽者の女官がこの内親王殿下に「陛下」とお声掛けしてしまうという失態を演じてしまったが、それというのも、この殿下がみるみるうちに皇太后陛下と見紛うてしまいかねないほどに老け込んでしまわれたからである。その場に居合わせた宮仕えの者たちは誰もが誤りにすぐさま気が付いたけれども、もはやこの世のすべてが厭わしいとお思いになったかのようなご様子でいらっしゃった内親王殿下のお耳には、そもそも届いてさえいなかったのだった。

 斂葬れんそうの儀には、朝家のしきたりをお破りになって安化の帝も臨御りんぎょあそばされた。そうして、帝王学ていおうがくをおおさめになっていた頃に、おおやけの場では感情をあまり出してはならないとお学びになったにもかかわらず、この時ばかりは、普段はお凛々りりしいその玉眼ぎょくがんを数百人もの人々の前で痛々しいほどに赤くさせ給い、また、
「情けないことに、ちんは竹の園生の伝統というものにそれほど深くは関心を持てなかったが、允宮は違った。あれが即位したならば、きっとさぞ優れた天皇になっただろうに」
 と、ご学友でもある時の内閣総理大臣に対せられ、思わず嘆き給うたのだった。
 皇太后宮陛下には、たいへんなご心労がおありだったと拝察はいさつせられた。東宮の斂葬の儀から半月もしないうちに大宮御所の廊下で突然お倒れになって、そのまま崩御ほうぎょあそばされた。ご臨終の直前に、ふとご意識を取り戻されて、
天照大御神あまてらすおおみかみが仰るには、宝祚ほうそのお栄えはきわまるということがないはずでしたのに。ああ、こんな辛い思いをしなければならないのでしたら、九十一までも長生きなどするのではありませんでした」
 と涙ながらに仰せになったが、これを拝聴はいちょうして袖を濡らさずにいられた者がいるはずもなかった。

皇太后陛下におかせられては、にわかに、崩御あらせられました。まことに、痛惜哀悼つうせきあいとうに堪えません。
陛下におかせられては、常に清明にして、仁慈じんじに富まれ、文始ぶんし天皇をおたすけし、親しく国民を慰め励ましてこられました。また、諸外国との友好親善にも力を尽くされ、内外の人々から、ひとしく敬慕を受けてこられました。
衆議院は、ここに国民の至情しじょうを代表して、うやうやしく弔意を表し奉ります。

衆議院本会議 安化二十七年五月二十五日

 皇位継承者がおいでにならなくなってしまったので、時の政府高官たちは何かしらの対応をしなければならないと考えたのだが、かしこき辺りにおかせられては、東宮薨御の直後のご様子は申し上げるまでもなく、斂葬の儀を済ませられた後もなお、誰もが当分は何も見ない顔をしていたがるほどのお嘆きようであらせられた。そんな安化の帝に対せられ、帝と同じく宝算ほうさん六十六にならせられていた皇后宮陛下には、宮家の女王殿下としてお生まれになったことも手伝って、何としてでも朝家を存続させなければならないという責任感を強くお持ちでいらっしゃったので、
「もともと皇后の御位みくらいは私めには過ぎたものだったのでございます。お上、どうか私めのことなどはお忘れになって、喪が明けましたらすぐにお若い皇后をお迎えくださいませ」
 と奏上そうじょうあそばされたが、そのように申し上げたのは、側室制度がとうの昔に廃止されたからには皇后が自ら皇子を産むよりほかないというのに、自分の年齢ではもう産むことはできない、と思い詰められたからだった。
「女は老いればもはや産めませんが、殿方とのがたのほうは老いても子をせます。かつてのベルギー国王レオポルド二世は、七十代になってから若い愛人との間に二人も庶子を儲けたそうでございます。それならばお上も、お相手さえ若ければまだまだ――」
 なお、畏き辺りにおかせられては、この奏上に対せられ、
「かつてのヨーロッパの帝王には世継ぎを産めない后妃こうひと離婚したことで悪名あくみょう高い者も多くいる[5]が、ちんにそのような外道げどうになれと言うのか。それに、コンゴに暴政を敷いたことで知られるあの悪王あくおうと一緒にされとうはない」
 とただちにお答えになった。そして、皇后宮陛下を優しくご抱擁になりながら、
「誰が何と言おうとも、たとえ後の世の人に『一人の女のために王朝の幕を引いた天皇』などと嘲笑されることになろうとも、死に別れるその時までちんはけっして愛するそなたを離しはせぬぞ」
 と、さらに続けて仰せになったのであるが、思い詰め給うた皇后宮陛下には、そんな大御心おおみこころを聞こし召すや、ならば死に別れようと、すなわち、ご自身のお命を縮めることをお考えになった。同年五月のある日、御所のお庭に打ち出でられ、青々とした梅の木をご覧になりながら、ご辞世じせいのおつもりで次のように御歌をみ給うたのだった。

消ゆるをやみやこの人はしまじな 花とて散らばたれも思はじ
(かつては「花のような姫宮」ともうたわれた私ですが、今となっては姿を消してしまっても都の人は惜しまないでしょう。春が過ぎて花が散ってしまった後には、もうほとんど見向きもされないこの梅と同じように)

難太平記なんたいへいき』によれば、かの源義家みなもとのよしいえ公は、
わが七代の孫にわれうまれかはりて天下をとるべし」
 と置文おきぶみをお残しになったが、その義家公の「七代の孫」にあたらせられた鎌倉時代の足利家時あしかがいえとき公は、自らの代で天下を取るのは叶わないことをお悟りになるやいなや、
「我命をつゞめて三代の中にて天下をとらしめ給へ」
 と八幡大菩薩はちまんだいぼさつに祈願なさりながら御腹を召された。これを八幡大菩薩がお聞き届けくださったからこそ、その御孫みまにあたらせられる足利尊氏たかうじ公は室町むろまち柳営りゅうえいの開祖となることがおできになったということである。

鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)

 そんな故事から影響をお受けになったのであろう、皇后宮陛下におかせられては、
「どうせ命を捨てるのならば、無駄に散らすのではなく、お慕い申し上げるお上のために神仏にお捧げすることに致しましょう。天照大御神を頼りにできないのならば、古くから朝家が第二の守護神としてきた八幡神[6]におすがり致しましょう」
 とおぼし召しになり、ある時、家時公にならわんと歴代皇后の御枕刀である『平野藤四郎ひらのとうしろう』からお手を離そうとなさらなかった。皇太后宮が崩御あそばされて間もなくの出来事だったので、これ以上大事な人の命を失いたくないとのお考えから、上御一人には、
「離しはせぬと言ったものの、やはり望み通りに離縁してやったほうが皇后のためにはよいのではないか」
 としばらく思い悩ませられるという御ありさまであった。そのように思い悩んでいらっしゃることがお側にはべる者から市井しせいにまで漏れてしまって、みなが話題にするうちに中身が大きく変わってしまったのであろうか、やがて俗世間の口さがない人々の間では、
「天皇陛下はどうやら皇后さまと離縁なさり、お若い皇太子妃さまを新しいお后になさるおつもりらしいぞ」
 などという根も葉もない噂もまことしやかに飛び交うようになったが、実際のところ主上にはこの頃、長い付き合いの宰相に対せられ、
東魏とうぎ孝静帝こうせいていは『昔から滅ばなかった国はない』と言ったと聞く。ちんも同感だ。わがちょうもいよいよ終わりなのだろうが、それは允宮が申したように、天照大御神がこの国に皇室はもはや不要だとお考えになったということであろう」
 と、末代まつだい天子てんしとなる運命を受け入れようという叡慮えいりょを、二人きりの内奏ないそうの場において内々にお示しにさえになったのだった。

(四)奇跡の皇御孫すめみま

 さて、東宮妃殿下はいかがであらせられたかを申し上げると、故東宮のご肉親でいらっしゃる三陛下と比べればご一緒にされた時はやはりお短かったけれども、ご愛情の深さはお劣りするものではないご様子に思われた。薨御からしばらくの間は、お眠りになれない日が続いたものと拝察せられ、お顔色がひどくお悪かった。お料理もほとんどのどを通すことがおできにならず、何とかお召し上がりになったものも少なからず戻してしまわれるほどであらせられたから、
「このままでは、遠からず皇太子さまのようにおはかなくなってしまわれるのではないか」
 と、東宮職の人々の間に心配をしない者はいなかった。もしも太陽が光ることをやめてしまったならば、月はもはや輝くことができなくなるのである。日嗣の御子のご在世のみぎりには「月の君」とも呼ばれ給うたあの佳人かじんが、皇太后が崩御あらせられた頃には、すっかり見る影もなくなってしまわれていた。
 だが、ほどなくして宮中の人々は思いがけない吉報に接することになった。東宮妃殿下におかせられては、ご本人ですらご想像もしていらっしゃらなかったことであるが、そのお腹に亡き皇太子の忘れ形見がたみをお宿しになっていたのだった。
日向子ひなこさま ご懐妊」
 そんな見出しの号外が街頭配布されるや、貴賤きせん上下、老若ろうにゃく男女なんにょの別なく、世の人はいずれお生まれになる御子のご性別が気がかりでならなくなった。この頃、南朝なんちょう後裔こうえいを自称し「真の天台座主ざす正胤しょういん法親王ほっしんのう」と名乗る偽法師にせほうしが、
末法まっぽうの世に入って千数百年が経ったので、御皇室に転生できるほどの功徳くどくを前世で積んだ人間がいよいよ少なくなってきたのでしょう。ですから、生まれ変われたとしても、五障ごしょうを備えている女性にょしょうがせいぜいというわけです」
 などといたうえで、胎内たいないの女子を男子に変えるという密教みっきょうの古の秘術『変成男子へんじょうなんしの法』を厳修ごんしゅするためと称してクラウドファンディングを始め、インターネット上で大炎上するという珍しい騒ぎがあったが、これは今となっては詳しく知る者もわずかに好事家こうずかにいるのみというくらいの些細ささいな出来事である。

籰繰神社(愛知県豊川市)にて

 半年ほどが経った安化二十七年の晩秋、玉のような皇太孫こうたいそん殿下がお生まれになったので、これで少なくとも自分の命があるうちは大丈夫だろう、と国中の家々から安堵あんどのため息が漏れ聞こえた。
 しかし――大和やまと帯解寺おびとけでら三河みかわ籰繰わくぐり神社、近江おうみ腹帯はらおび観音など、ごく限られた寺社が早くから古例に従って岩田帯や安産御守などを東宮御所に献上けんじょうし、また、献上を許されない多くの寺社もこぞってさまざまな仏事や神事を営んでご安産をお祈りしてきたというのに、東宮妃殿下におかせられては、産後のお肥立ひだちが宜しくなかった。お産から数日が経ったある日、
「ご立派でいらっしゃったあの殿下をお育てになったお二人ですから、両陛下がいらっしゃれば、安心でございます」
 と、とても弱々しげに仰せになり、そのくる日の朝露あさつゆが消える頃には、

いとし子にわがのかげをあなぐれど つゆなる身には見えぬぞ悲しき
(生まれてから日が浅く、誰に似ているのかもまだわからない愛し子から、慕わしいあのお方の面影おもかげをどうにか探そうとしても、死にそうな自分にはもうまともに見ることができないのが本当に悲しく思われます)

 と、お息も絶え絶えに辞世じせいのお歌をおみになるや、あたかも黄泉よみにまします故皇太子迪仁親王をお追いになるかのようにお儚くなってしまったから、世の有情うじょうには、
「お生まれになった皇太孫さまは、おかわいそうに、父君ちちぎみのみならず母君ははぎみまでをも知らずにお育ちになるのだ。誰であれ人の誕生はめでたいことであるはずなのに、これでは心からおよろこび申し上げることなどできようはずもない」
 などと嘆く者が多くあった。皇家こうかの習わしによれば、命名の儀はご降誕から七日目とされ、皇太子の御子ならば帝より賜るものと決まっている。それがために皇太子妃殿下には、ご自身がお生みになった子のお名すらもご存じないままにお隠れになってしまった。そんな悲劇が、なおさらに心ある人々の同情を誘ったのだった。
 それでも、中には皇太孫殿下を「奇跡のすめ御孫みま云々うんぬんと持てはやし奉る向きもあったが、依然として宸襟しんきんは穏やかならなかった。よろずのことに通じていらっしゃった安化の帝におかせられては、フランス革命の影響もあって数少ない王子となってしまっていた父の突然の薨去後に生まれ、同じように「奇跡の子」と持て囃されながらも子孫を残せず、フランス・ブルボン王朝の直系最後の王子となってしまった「フランス王アンリ五世」ことシャンボール伯爵アンリ[7]などの古今ここん東西とうざい凶例きょうれいをご連想あそばされたからである。

一八二〇年九月二十九日、ボルドー公爵アンリの誕生
クロード・マリー・デュビュフ画

 帝には、日嗣の御子をふたたび得られたことはもちろん喜ばしく思し召しになったものの、父方ちちかたに似て奥手な性格なのではないだろうか、母方ははかたに似て病弱なのではないだろうかと気がかりに思われたし、それ以上に、
「母親の命と引き換えに生まれてきたあの子に、愛しい人に子を産んでほしいと考えることができるものだろうか」
 などとふとした時に考えてしまわれて、しばらくは玉体ぎょくたいのお震えを止めることがおできにならないということもしばしばおありだった。
 統宮おさのみやというご称号に、承仁つぐひとというお名を賜ったばかりのお幼い皇太孫殿下――のちの永寧えいねい天皇――におかせられては、宮内庁病院をご退院になった後、両陛下がお住まいの吹上ふきあげ御所に引き取られ給うたから、それまでの東宮御所は広い空き屋敷となってしまった。
 ある時、一人のまだ年若い女官が、ほんの少し前まで東宮御所と呼ばれていた建物の手入れをしながら、
あるじがおいでにならなくなってしまったこの御所ですが、次にどなたかがお入りになるまでに、いったいどれだけの時がかかるのでしょうね」
 と何気なく呟いた。わざわざ言うまでもないことであるが、居合わせた人々の中にその言葉に答えられる者は誰もいなかった。
 竹の園生にいらっしゃる方々はどなた様も、調度品ちょうどひんなどにお名をそのまま書くのは畏れ多いためか、代わりに特徴的なお印を付けて所有物だとお示しになる。そのお印というものは、植物から選ばれることがほとんどだけれども、皇太孫殿下のお印には、やや異例ながら「猪」が選ばれた。
「動物としては過去に鶴や亀などの例がございますけれども、それにしても猪というのはいささか雅びさに欠けるのではございませんか」
 と進言し奉る者もあったが、奥手な皇太子に似ないでほしい、病弱な皇太子妃に似ないでほしい、と強く願われる主上におかせられては、「勇敢」や「無病息災」を意味する猪こそが皇太孫にはふさわしい、とお思いになったのである。猪はまた、子をたくさん産むことから「子孫繁栄」の象徴でもある。帝には、ご幼少の頃から迷信というものを嫌っていらっしゃったが、藁にも縋りたいというお思いであらせられたのか、このお印選びにはたいそうお気を遣われたのだった。


【脚註】
[1]元ネタはノルウェー王ハーラル五世。唯一の王位継承有資格者であった王太子時代に、ソニア・ハーラルセンとの結婚が許されないのならば誰とも結婚しない、と父王オーラヴ五世を脅し、結婚を了承させたという。
[2]第五十二代人皇・嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子。仏教に深く帰依し、帷子辻において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれる。
[3]類例はイギリス女王ヴィクトリア、貞明皇后など多数ある。
[4]国葬令(大正十五年制定)は、第二條で「皇太子皇太子妃󠄂皇太孫皇太孫妃󠄂及󠄃攝政タル親王內親王王女王ノ喪儀ハ國葬󠄂トス但シ皇太子皇太孫七歲未滿ノ殤ナルトキハ此ノ限ニ在ラス」としていた。
[5]男子の世継ぎを渇望して六度も結婚したイングランド王ヘンリー八世、嫡子が生まれないことを理由に離縁してハプスブルク家のマリア・ルイーザ大公女を皇后に迎えたフランス皇帝ナポレオン一世など。
[6]『承久記』に「日本国の帝位は伊勢天照太神、八幡大菩薩の御計ひ」とあるように、八幡神は古くから天照大御神に次ぐ皇室の守護神とされてきた。
[7]最後のフランス王シャルル十世の孫。父のベリー公爵シャルル・フェルディナンが暗殺された後に誕生した。全名は「アンリ・シャルル・フェルディナン・マリー・デュードネ」。最後の「デュードネ」は「神からの贈り物」という意味である。

【参考文献】
・藤樫準二『増訂 皇室事典』(明玄書房、一九八九年)
・大谷久美子「『平家物語』における平徳子の御産:変成男子の法をめぐって」(京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール『紫苑』第九号、二〇一一年)
・渡邊大門『戦国の貧乏天皇』(柏書房、二〇一二年)
・藤田覚『光格天皇:自身を後にし天下万民を先とし』(ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、二〇一八年)

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