【小説】『玉葉物語』前日譚「竹の園生の御栄え」第二話「蛍の君」第三話「竹の園生の御栄え」
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。
第二話「蛍の君」
(一)蛍の君
一
大阪府和泉市は室堂町に古くから残っている伝説である。いまだ飛鳥の地から都びた雰囲気が消えていなかったであろう頃、和泉国宮里の瀧山で、智海上人とおっしゃる高僧が修行をなさっていた。ある時、彼を慕う大きな女鹿がそのお小水を舐めたことによって孕み、やがて人間の女子を産んだという。
「鹿が人の子を育てられようはずがない。そうかといって、修行している身である自分にも育てることができない」
そうお考えになった智海上人は、近隣に住んでいた老婆にこの娘をお託しになった。
娘が七歳を迎えたある年の五月のことである。勅使として槇尾寺にご参詣なさった藤原不比等卿が、都への帰路、御輿の外から何やら神々しい気配がすることにお気づきになった。田植えをしている老婆の近くで嬉しそうに遊ぶ件の少女が、全身から光明を放っていたのだった。
不比等卿は御輿からお降りになり、少女をじっくりとご覧になった。まだ幼いながらも少女はことのほか見目麗しかったので、不比等卿は「光明子」とお名付けになり、養子として都にお連れになった。その少女というのが、後の光明皇后にあらせられるということだ。
愛知県新城市にも類似の伝説がある。三州鳳来寺の縁起によれば、開基の利修仙人が煙巌山の岩窟で修行をしていらっしゃった時、そのお小水を舐めた女鹿が孕んで、やがて月満ちて玉のような人間の女子を産んだという。利修仙人はその子を三歳になるまでお手許で養育なさった後、ご自身の生まれ故郷である奈良へお送りになり、ある貴族のお屋敷のご門前に捨てさせた。例によってその女子というのは、後の光明皇后であらせられるそうだ。
このような俗伝は従来、荒唐無稽きわまる作り物語でしかないと思われていたけれども、安化の大御代に宮中を騒がせたとある出来事の後、もしかしたらいくらかの史実を含んでいるのやもしれない、と真剣に考えられるようになったのであった――。
二
明治の大御代以来、十数代の列聖がお住まいになってきた千代田の皇居には、万国に開かれたる都の真ん中にあるとは信じがたいほどに豊かな森が広がっている。平成の大御代以来、春と秋にそれぞれ桜と紅葉が見頃になると乾通りが公に開かれ、みどりの月間になると吹上御苑に民草を招き入れての自然観察会が催されるのが毎年の常である。始められたのはどの帝の御代のことであったのだろうか、皇居に生息するホタルが増えると、その時期にはさらに観蛍会が催されるようになった。
薄暗くなった吹上御苑のあちこちを、およそ二百匹のゲンジボタルがほのかに緑の葉などを照らしながら乱れ飛ぶ。そんな光景が見られるようになった安化四十二年の初夏のある夕べ、観蛍会の参加者たち数十人の中から、にわかに歓声が湧き上がった。
つい先日に宝算八十二とならせられ、ご高齢ゆえに昔ほどには方々へと行幸あそばされなくなった天皇陛下が、御年十四とならせられた皇太孫殿下とともにサプライズでお出ましになったからだ。お二人とも、ご父祖のお血筋ゆえにであろうか、生き物へのご造詣が並外れてお深くていらっしゃるから、この時期ならではのホタルをお目にかけて御心をお慰め奉らんと侍従長の松平頼彦がお考えになったのであった。
すでにその場にそれなりに長くいて数多のホタルにも飽きつつあったところに貴い方々が思いがけずおみえになったことで、観蛍会参加者たちの目は、肝心のホタルからすっかり逸れてしまっていた。そうとはご存じではない帝におかせられては、宙を舞うホタルをご覧になるや、即興でこうお詠みになって、その雅びやかな雰囲気で居合わせた人々をますます感じ入らせ給うたのだった。
だが、畏き辺りには、皇太子、皇太后、皇太子妃、皇后、姉宮などに相次いで先立たれてしまわれていたことから世の無常を痛いほどに感じていらっしゃったので、美しく光りながら浮遊しているゲンジボタルをごく間近でご覧になっても、本当はいささかもお喜びにならなかった。それどころか、口にこそなさらなかったものの、
「一時は栄華を極めた平氏は、都落ちをしたあげく壇ノ浦で滅びたし、長く武家政権を保った源氏とて、ついには天下の権を手放す破目になった。同じ血を引くのだから、同じように朝家もいずれ衰亡してしまう運命にあるのではないだろうか」
と、暗がりの中ゆえに人には見られなかったが、たいそう悲しげなご表情で思し召しになった。通例に漏れず、帝には早くから、諸臣をして次代の皇后たるべき女人を探させしめておいでだったのだが、后妃選びというものは、どんなに早くから始めても一生涯にわたりご独身ということもありえそうなほどに進捗が思わしくないのが常なので、そのような悪いお考えに至ったのも無理からぬことであった。世には結婚したいという人が溢れているはずなのに、日嗣の御子の前ではほとんどいなくなってしまう。先の御製には、そのことへのお嘆きも込められているのかもしれなかった。
さて、そんな風にご憂鬱なご様子であらせられた安化の帝が、玉眼を大きく見開いて驚かれるほどの奇怪至極な出来事があったのは、観蛍会の直後のことだった。御所へとお戻りになる道すがら、ぼんやりとご覧になっていたホタルの向こう側の鬱蒼とした森の奥深くから突然、眩いばかりの光が漏れ出して、すぐに収まったかと思えば、やがて虫取り網を携えた一人の乙女――背丈からして年の頃は十四か五、皇太孫と同じくらいであろう――が、一千匹を下回らないと思われる異様なホタルの大群に先導されるかのようにして、その姿を現したのである。
『平家物語』によれば、ある時、鳥羽殿の内におびただしい数のイタチが現れて走り騒ぐという変事があり、これにたいそう驚かれた後白河法皇におかせられては、おんみずからお占いをなさった後、かの安倍晴明が末裔である陰陽師の安倍泰親をして吉凶を判断せしめられたという。
科学が十分すぎるほどに発達した時代に生をお享けになったうえ、生物学者としてもご高名であらせられた安化の帝は、そもそも世界都市の中心部だとは信じがたいほどの自然に囲まれた御所のすぐ近くに獣が姿を現したところで、かつての後白河法皇のようなお振る舞いをなさるお方ではいらっしゃらなかったし、現れたのが珍しい獣でもないただの人であるならば、それはなおのことであったが、
「よもや、昔から皇居の森に棲んでいる古狸めのいずれかが化けて出てきた姿ではあるまいか」
と、この時ばかりはひどく迷信めいたお考えを思わずお抱きになった。謎の光はいうまでもなく、これだけのホタルが集まっているだけでも奇妙なことこの上ないというのに、その蛍火に照らされて夜分にもはっきりと見ることができた乙女の風貌が、このまま成長したならば、不犯を固く誓った聖のしかも老いたる身でさえもが心を惑わされずにはいられそうにないと思われるほど、非現実的なまでに整っていたからである。
安化の帝におかせられては、今は亡き皇后をこの上ないほどに愛していらっしゃったけれども、かつて故東宮妃を初めてご覧になった時、この世にはこれほどまでに美しい娘がいるものなのかと思わず息をお呑みになるほどに驚かれたものだった。その帝がいまや、
「まだ幼さをわずかに残しているものの、もう数年もすれば、時の流れとともに美化されてしまっているであろう思い出の中の故皇太子妃よりも、いっそう美しくなるに違いない」
とまでお思いになったのである。『竹取物語』には、帝が初めてかぐや姫をお訪ねになった時、その屋敷の中に光が満ちていたとある。お美しかった故皇太子妃はそんなかぐや姫になぞらえて「月の君」と呼ばれ給うていたのだが、今となっては、蛍火に照らされて一人だけ輝いているこの乙女こそが本当にかぐや姫になぞらえられるべき人であろうと思われた。
また、帝のお側にいらっしゃった皇太孫殿下におかせられては、お年頃だというのに異性にはご興味がおありでないご様子でいらっしゃったが、
「ずっと昔、夢の中で出会ったあの女の子だ!」
とたいそうお驚きになって、名は何と言うのか、どこから来たのか、などと矢継ぎ早にお問いかけになったから、侍従たちは眼前で起きていることをますます信じがたく、数分前からずっと夢を見ているのだろうかと疑って、思わず自らの頬をつねるなどした。[1]
明治以来、竹の園生の方々にお目にかかりたいなどと言って、土手や塀をよじ登ったり、堀を泳いだりして皇居に侵入する者がごくたまにいるが、非力な乙女でさえもが禁裏のすぐ近くにまでたやすく闖入できるとすれば、それが警備上の大問題であることはいうまでもないから、知らせを受けた皇宮警察本部は、天地がひっくり返ったかのような大騒ぎになった。しかし、乙女が蛍火とともに現れたところに居合わせた人々には、彼女がただの人だとは到底思えなかったので、興味をお抱きになった畏き辺りがご下問なさったところ、乙女は、
「村の子らとともに自宅のすぐ近くにある川辺でホタルを採集していたはずなのですが、急に眩しい光に包まれて、思わず瞑った目を開けたらいつの間にか一人で森の中にいました。周りの草木には信じられないほど多くのホタルが止まっていて、呆然と見ているうちに集まって大きな塊のようになり、どこかへゆっくりと飛び始めました。その蛍火が辺りでただ一つの明かりでしたから、とにかくそれを追いかけてみますと、そのまま御前に行き着いたという次第です」
と、まさに鈴を転がすような高く澄んだ声で奉答した。その言葉に嘘偽りはないようだった。いくら探してみても堀を渡るために用いた舟なども見当たらなかったし、服が濡れていないから堀を泳いだようには見えなかった。何より、乙女の住まいは遥か遠方の西国にある「平家の隠れ里」と言い伝えられてきたほどの山奥の小さな村だというから、宮内庁の者が電話をかけて確認してみたところ、彼女の家族はその時、娘が川辺で光の中に消えるかのようにしていなくなってしまったと大騒ぎをしていたのであった。
三
次の日、宮中で夜を明かした乙女の身柄を引き取るために、彼女の家族が始発列車に乗ってはるばる上京してきた。昨夜の不思議な出来事について、主上よりご直々に改めて聞かされた後、母親のほうが、
「今まで誰にも打ち明けたことがないのですが、あの子――光子は、私どもの実の娘ではないのです」
と、その口を静かに開いた。普通ならば入ることはまず許されない禁中に招き入れられ、そのうえ御前に座らせられ、すこぶる緊張していたのであろう、両親がひどくたどたどしく奏上したことをまとめると、次のような話であった。
二十年近く前のことである。子がなかなかできぬことを長らく思い悩んでいた夫婦は、数年後には揃って四十歳代になってしまうことに激しい焦りを感じていた。そんなある時、先祖代々伝えられてきたと思しき煤ぼけた木彫りの聖観音立像が土蔵の中から見つかったので、夫妻はそれを丁寧に拭い清めたうえで床の間へとお移しして、朝に夕に、藁にも縋る思いで祈願することにした。
「観音さま、お願いでございます。大切に育てますから、どうか私ども夫婦に子をお授けください」
それを五年ほども続けた安化二十七年の晩春、皇太子妃殿下が奇跡的にご懐妊されたというニュースを知るや、特に妻のほうはまるで我がことのように喜び、
「どうか皇孫殿下がご無事にお生まれになりますように」
と、妃殿下の御安産をも願って、日々の祈りをますます熱心に捧げるようになり、時には自分のために祈るのを忘れてしまうことさえあった。やがて月が満ちて、晩秋のある日の夕方に玉のような皇太孫殿下がお生まれになったが、それを知った時の妻の喜びようは並大抵のものではなかった。
さて、皇太孫殿下がご降誕になったその日の夜に、妻は何とも不思議な夢を見た。ふと目が覚めると、全身から金色の光を放つ聖僧が枕上に立っていらっしゃって、
「この五年間、私は汝ら夫婦をずっと見ていた。この末法の悪世には、汝らのように熱心に私を崇敬してくれ、また、他人のためにあれほど祈ることができる人間はそうそういない。汝らは前世での業ゆえに子を持てない運命にあったのだが、望み通りに子を授けてやろう」
とおっしゃった。そして聖僧は、にっこりとお笑いになったかと思うと、たちまちのうちに日輪に姿をお変えになって、妻の懐へと飛び込まれたのであった。
と思いきや、妻は今度こそ目覚めた。今のは本物のお告げだろうか、それとも自分の願望が見せた夢にすぎないのだろうか――と暗闇の中で物思いに耽っていると、どのようなわけであろうか、もうじきに日付が変わろうかという頃合いだというのに窓戸の外で何かが眩いばかりに光り始めたので、隣で寝ていた夫も驚いて眠りから覚めてしまった。
「雷かと思ったが、空には雲一つ見えないし、雷が落ちれば聞こえてくるはずの恐ろしげな轟きもない。それに何より、雷ならばこれほど光り続けることはありえない。この光はいったい何なのだろうか」
夫婦が奇妙に思い、連れ立って外に出てみると、裏山の木々が奇妙なことに金銀に光り輝いていて、それはまるで一本の道を形作るかのように山奥へと続いていた。それらの木々に沿って歩んでみれば、源平合戦の後も本当は生き延びていらっしゃった安徳天皇の御陵だと古老の間で細々と語り継がれてきた、小さな古塚に行き着いた。そしてその脇に生えている朽ちかけた桜の大木が、秋も暮れだというのに満開になっていた。
呆気にとられて立ち尽くした二人だったが、その大木の裏から赤子の泣き声が聞こえてくるのに気が付いて、恐るおそる近づいてみると、生まれてからまだ間もないように思われる一人の赤子が、一糸まとわぬ姿で全身に光を帯びながら泣きじゃくっていた。
とにもかくにも泣き止ませようと思って、妻が赤子の口に乳房を含ませてみれば、不思議なことにお乳が出るようになっていた。状況からしてただの捨て子だとはどうしても考えられずに困惑する夫に、妻は先程見た夢の話をした。
「ああ、これはきっと仏さまの御子だ。あの観音さまが授けてくださったに違いない」
こうして夫婦は拾い子に「光子」と名付け、自分たちの実子として育てることにした――。
娘の両親の話は最初から最後まで、普通ならば怪しい者どもの戯言とでも思って聞き流すような、とても事実だとは信じがたい民話めいたものであった。しかし、御前において現にその手の奇々怪々な出来事があったばかりだから、その場に居合わせた松平侍従長を筆頭とする宮内庁のお偉方の面々は、
「ことによると、安徳天皇が生まれ変わられた娘御なのではないか」
などと、何も知らない人々が聞けば誰もがおかしいと思うであろうことをあれこれと大真面目な顔をして言い合った。曰く、噂に聞く天女ではあるまいか、光明皇后の生まれ変わりではないのか、観音菩薩の化身ではないのか、高千穂からそう離れていないことから考えるに天照大御神がお遣わしになった第二の天孫やもしれぬ――。口を開く者は誰もが、夫婦が真実のみを話していることを疑わなかったが、昔から迷信というものをほとんどお信じにならなかった安化の帝でさえもが、
「この広い世の中には人知の及ばない不可思議なことも多々あるものなのだなあ」
とすんなりお信じになったほどだから、それも無理からぬことであった。
四
さて、件の乙女のその後についてであるが、「虫めづる姫君」と表現するほどではないにせよ、虫を追いかけて網を振り回すという年頃の娘らしからぬ日々を田舎で送っていたらしいだけあって、生き物がお好きな皇太孫殿下とは馬がとても合うようだったから、ご学友のお一人として長期休暇のたびに参内するようになった。美貌ばかりか鄙女らしからぬ高い教養を兼ね備えていたので、密かに宮中の人々から敬意をこめて「蛍の君」や「蛍姫」などと呼ばれるようになった。
皇太孫殿下におかせられては、帝王学をお修めになるべき御身であらせられながら、芙蓉のようにつぶらな瞳、艶々と美しい唇といった優れた風貌の蛍の君にすっかりお心を奪われてしまわれて、普段はなかなか会うことがおできにならない想い人への恋慕の情が募ってどうしようもないというご様子であらせられた。宮仕えをする大勢の人々の中には、そんな殿下を拝見して、
「唐の国を傾けたという楊貴妃は、成熟する前はきっとあのような娘であったに違いない。そもそも、あれは本当に人であるのか。子に恵まれない夫婦に育てられたところといい、年齢不相応に思われるまでのあの美貌や教養高さといい、まるで鳥羽院の寵姫になったという九尾の狐、玉藻前の再来だ。思えば、あの伝説の妖狐の成れの果てだという那須の殺生石が真っ二つに割れてから久しい。封印が解けてしまった玉藻前が、積年の恨みを晴らさんとして再び皇家の前に姿を現したのではないか」
などと蛍の君をひどく恐ろしがる者もほんのわずかにいた。
皇太孫殿下のお印は「猪」であらせられるが、何という巡り合わせだろうか、蛍の君は「猪狩」という、そこはかとなく平家の落人の末裔らしさを感じられる勇ましい苗字であった。蛍の君を恐ろしがる人々は、これについても、もしも殿下のお妃になるとすれば生家の名字などはどうせ消えてなくなってしまうというのに、
「殿下のお印が猪で、そのお相手が猪狩というのは、どうにも縁起が宜しくない。そういえば今は昔、あの殺生石の近くで八頭もの猪が骸になったこともあると聞く――」
などと難癖をつけて憚らなかった。しかし、ほとんどの者は、
「皇太孫殿下があれほどまでに蛍の君への慕情を強く抱いていらっしゃるのは、縁結びの神さまが引き合わせてくださった運命のお相手であるからこそに違いない」
と考えた。中には、あくまでも一市民にすぎない、実の親すらも知れない蛍の君に対して、まるで正式な皇族に対し奉るかのような慇懃な扱いをする者さえ少なからずいたのだが、主上があたかも本当の孫娘であるかのようにお可愛がりになったのだから、それも不思議なことではなかった。
蛍の君をいずれ皇太孫妃にすると内々に決められるまでに、それほど長く時間はかからなかった。それまで、皇太子とそのお相手の間でご婚約にまで至ったものの、あまりにも責任が重大すぎるがゆえに家族に強く反対されてあえなくご破談となった古例が数えきれないほどあったのだが、こと今回に限っては家族も、
「私ども夫婦は娘のことを、観音さまが授けてくださった子だと信じております。とみに光の中に消えていったと聞かされた時には、もはやこの世での何らかのお役目を終えたから天に帰ってしまったのだろうかと真剣に思ったものです。その娘があの夕べ、いったいどうしたわけか禁中にまで飛ばされて、畏れ多くも皇太孫さまのお目に留まったわけですが、それもきっと神か仏かの思し召しによるものなのでございましょう」
と、それが娘の定めなのだろうと唯々諾々と受け入れざるをえなかったのである。
(二)御代替わり
賢所のすぐ北に「梅の島」と呼ばれる梅林があり、そこには十二月下旬から咲き始める「八重寒紅」という早咲き種が植えられている。安化の帝におかせられては、一月三日の元始祭などの折にその芳香が漂ってきたとしても、それほど興味をお抱きにならないご様子であらせられたけれども、梅の花すべてに無関心というわけではいらっしゃらなかった。
安化四十五年三月のとある昼下がり、畏き辺りには、宮殿の表御座所でのご執務を終えられて吹上御所にお戻りになるや、そのままお庭のほうに回られた。
多くの梅が芳しい匂いを周囲に漂わせながら咲き誇っている中、帝には、それほど花付きが良いとはいえない一本の梅の前でお立ち止まりになって、しげしげとご覧になった。それはかつて、花好きでいらっしゃった皇后宮とご一緒に、皇太子迪仁親王の誕生記念にとお手植えになったものであった。およそ十年前に崩御あらせられた皇后宮の御ことをふと懐かしく思し召した主上には、はらりとお涙を流されて、こうお詠みになったのだった。
しばらく主上がそうなさっていると、珍しいことに梅枝に一匹のウグイスが留まった。とても警戒心が強く、人前にはほとんどその姿を現さないのがウグイスという鳥であるが、これも御聖徳ゆえであろう、怖がる様子がまったくないばかりか、
「ホーホケキョ、ホーホケキョ」
と、人々が心地よく感じる鳴き声まで上げたのだった。さて、このように鳴くものはすべてがオスで、鳴く理由はメスへのアピールか自分のナワバリだと唱えているかのどちらかだそうだ。ご高名な生物学者でもいらっしゃる安化の帝にはもちろんその習性をご存じであらせられ、その梅をナワバリにせんとしているとすれば何となく厭わしいと思し召して、
「これ畜生め、いくら鳴いても無駄だぞ。その梅は朕のものだ。もっと綺麗に咲いている梅がここにはたくさんあるのだから、鳴くならば他の梅に行くがよい」
と、お戯れ混じりにウグイスに対せられて玉音をお発しになった。
ところで、御年十七でいらっしゃる皇太孫殿下におかせられては、お年頃であらせられるので、想い人と逢瀬を重ねることがなかなかおできにならないことがお辛いご様子でいらっしゃったが、それだけに、たまの休暇などに蛍の君が参内なさった時には、愛しいというお気持ちを人目もお憚りにならずに表に出してしまわれた。
帝が思い出の梅を涙ながらにご覧になっていたまさにその時、殿下には、春休みにはるばると上京してこられた蛍の君を、その手をお取りになって御所の庭までお連れになろうとなさっていた。ほどなくして、大御宝に対せられるいつものお姿からは想像もつかない主上のお戯れを思いがけず目の当たりにされたので、お二人はくすくすとお笑いになった。そして殿下におかせられては、
「おじじさま、そちらではなくメスへのアピールかもしれませんよ」
そう仰せになるや、
「いくら鳴いても無駄だよ、この子はもう僕のものだから」
と、お繋ぎになったままの手をぐいとお引きになって、勢いよくお胸の中に飛び込んできた蛍の君をお抱き締めになった。
「きゃあ! で、殿下――」
そう声をお上げになった蛍の君は、しかしまんざらでもないご様子で、真っ赤になってしまった麗しいお顔を、そのまま皇太孫殿下のご胸中にお埋めになった。そんな蛍の君をこの上なく愛おしく思し召した殿下には、そこが御前であることもお忘れになって、さらにそのお耳にそっとお口づけになったのだった。
これを見せつけられ給うた主上におかせられては、これが本当にあの恋愛に奥手だった允宮の子なのだろうか、などと今さらながらお思いになった。しかしすぐに、この孫の性分はどうやら他でもない自分に似てしまったらしい、とひどく恥ずかしく思し召した。お若い頃に皇后宮に対せられ、父帝・文始天皇の御前であるというのに同じようなお振る舞いを少なからずなさったことを思い出されたのである。
「しかし、よくよく考えてみるとお父さんとお母さんもこんな感じであったと聞いたことがあるなあ」
このように、帝にはここ数年、何かにつけて過ぎ去りし時をお懐かしみになることが多くなった。すでに宝算八十四とご高齢にならせられていたが、夜にお休みになる時にご覧になる夢の中では、ご幼少の頃にお戻りになっていて、それを不思議にも思わずに先々帝の皇后でいらっしゃった祖母君とお遊びになるということさえ、しばしばおありだったのである。
末法の世となってから久しかったからであろうか、帝ですらもここ数代はほとんど信仰心をお失いになっていた。ことに安化の帝におかせられては、あたかもオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世――共和派により銃殺刑に処された弟のメキシコ皇帝マクシミリアーノ一世、愛人の一人である男爵令嬢と情死するという「マイヤーリンク事件」を起こした皇太子ルドルフ、旅先のスイスで暗殺された美貌の皇后エリーザベト、そしてサライェヴォでセルビア人の民族主義者が放った銃弾に斃れた甥のフランツ・フェルディナント大公など、近親者に相次いで先立たれてしまったことから世界史上稀なほどの悲劇にまみれた君主として知られ、作家のヨーゼフ・ロートが小説『ラデツキー行進曲』の中で、
「彼の身のまわりを死神が円を描いて徘徊し、次々と刈り取っていった。すでに畑全体が刈り取られて裸になっていたが、皇帝だけは、忘れられた一本の銀色の茎のようにいまだに立っていて、待っているのだった」
と書きさえした――のように、ご家族を次々と亡くしておいでだったので、神も仏もあるものかと公然と仰せになるほどに、とりわけお年を召されてからの信仰心の薄さは歴代天皇でも際立っていらっしゃった。
しかしそんな帝が、蛍の君と出会われてからは、まるで人がお変わりになったかのように神仏を篤くご信仰にならせられたので、宮仕えの人々の驚きは並々ならぬものがあった。皇太孫殿下と蛍姫が揃って御年十八のご成人をお迎えになった安化四十五年の秋の暮れ、宝算八十五とならせられていたこの帝には、
「皇太孫承仁親王が妃を迎えてから、そう遠くないうちに三種の神器を譲り渡したい」
との叡慮をお示しになったが、これを聞き及んだ宮中の人々がみな、御位をお降りになるのを機にご落飾あそばされて何百年ぶりかの太上法皇にならせられたとしても少しも不思議なことではないとさえ思ったほどだった。侍従たちの中には、
「平安の昔、中宮の篤子内親王がご落飾なさった際には、その側近の女房も同心出家をしたという話だ。やはり我々もその時が来たら、お上に従って剃髪したほうがよいのだろうか」
などと本気で案じ始める者まで少なからずいたくらいである。
だが、そんな心配は程なくして新たな心配事の陰に消えてしまった。その年の瀬から年明けにかけての厳しい冷え込みのせいであろうか、安化の帝におかせられては、ご譲位の話が具体的なものになる前に、にわかにご体調を崩してしまわれたのである。それからはみるみるうちに、まるで皇太孫殿下のご成人まで皇位をお守りになるという、ただそれだけのために生き永らえてこられたかのように、お一人ではもはや起き上がることすらもおできにならなくなるほどに玉体が弱ってしまわれて、
「どうやら可愛い孫たちの婚儀を見届けることはできそうにない。立太孫の礼すら、まだ挙行できていないのに」
とご病床でひどくお悲しみになったけれども、その一方で、ご成人されてからまだ間もないというのに摂政宮として国事行為をはじめとする諸々の政務をつつがなくご代行なさる皇太孫殿下の御ことを、たいそう頼もしくも思し召した。
日々ご多忙とならせられた摂政宮殿下のお代わりとして、蛍の君には、かいがいしく主上のほとんどすべてのお世話をなさった。いったいいつお休みになっているのかも知れないほどでいらっしゃったが、それを拝見した人々はみながみな、光明皇后――聖武天皇のお后で、施薬院で庶民千人の垢をおんみずからお洗い落としになったと正倉院の『東南院文書』などに伝えられる――のお姿はきっとこのようであったのだろうと思った。かつて蛍の君を玉藻前の再来ではないのかと疑った人たちも、
「明代の『五雑組』によると、千年を生きた狐は天に通じて人を魅すことがなくなり、ほとんど神にも等しくなるという。石に封印されている間に長い時を過ごしたことで、そのような存在になったのだろうか」
と、この頃には本気で考えるようになっていたのである。そして誰もが、次代の皇后にならせられるのがこのお方で本当に良かった、と改めて感じ入るとともに、皇后としての蛍の君のお姿を主上にも仙洞としてご覧になっていただきたい、と帝のご快復を願い奉ったのだった。
安化四十六年の三月中旬、帝におかせられては、天下の民草がこぞってご健康とご長寿を乞い願い奉ったのもむなしく、聖寿八十五でとうとう崩御あらせられた。黄泉比良坂にお入りになる五日前までご意識はお確かだったが、朝家のこれから先のことについては、もはやいささかも憂えていらっしゃらないご様子であった。
新たな御代となってから一か月と少しが過ぎた永寧元年四月末、宝算十八とお若い帝におかせられては、先の帝たらせられる御祖父君に「安化天皇」と追号をお贈りになり、また、時を同じくして御父君たらせられる故迪仁親王にも「後陽光太上天皇」とご追贈になった。
一年間の諒闇が明けてから日が浅い永寧二年三月の中旬、新帝におかせられては、蛍の君をお連れになって御所のお庭をしばらくご散策になった。蛍の君には、件の梅がぽつぽつと花を開かせているのをご覧になりながら、
「先帝陛下があのように大切になさっていたものでございますから、ずっと大切に守っていきましょうね」
と仰った。帝にはこれに対せられ、
「今ならばまだ考え直せるのだよ。皇族の妃から始めて徐々に慣れていくのではなく、いきなり皇后から始めるというのは、ごくわずかしか例がないことだけれど、とても過酷な道になると思う。――本当に、それでも僕と結婚してくれるのかい」
とお尋ねになった。
「はい。何も存じ上げない身ではございますが、懸命に陛下のお側で学んでまいりたいと思います――」
ちょうどその時、二羽のウグイスがどこからともなく飛んできて、御前の梅枝に留まったかと思えば、前後に並んだままとても慌ただしく羽をばたつかせた。
『日本書紀』の異伝によると、いざ国生みをなさろうという時に、具体的にどうしたらよいのかお分かりにならなかった伊邪那岐命と伊邪那美命の御前に、セキレイが飛んできて尻尾を上下に振ってみせた。二神は、そのおかげで国を生む方法をお知りになったということである。
何もご存じではない身には程遠くていらっしゃる蛍の君には、すぐ目の前でのウグイスの番の営みからそんな伝説に思いを致せられて、顔をお赤らめになりつつもこう仰った。
「陛下がお望みになるのでしたら、この命ある限り、何人でも皇子をお産みいたします。数多くの島々や神々をお産みになったという、あの伊邪那美命にも負けないくらいの気持ちで――」
刹那、永寧の帝におかせられては、そんな蛍の君をふと抱き締められ、次のように仰せになった。
「お願いだから、火之迦具土神を産んだ時に黄泉国へと旅立ってしまったという伊邪那美のようにはならないでほしい。今となっては、僕にはもう貴女しかいないのだから」
皇嗣たる皇族は言うに及ばず、皇太后などもおいでにならなかったので、これまでの御代とは異なって、万一の際に摂政とならせられるべきお方さえいらっしゃらない。誰の目にも危うげに映るそんな状況から始まった永寧の大御代だったが、「雨降って地固まる」という諺の通り、この聖代を境に、竹の園生はまさに雨後の筍のごとくご繁栄の一途を辿ったから、瓊瓊杵尊が高天原にてお受けになったという天壌無窮の神勅は、どうやら架空なる観念[3]などではないようだった――。
【脚注】
[1]余談ながら、愛知県岡崎市の明大寺町に「絵女房」の伝説がある。ある帝が夢で絶世の美女と出会って、目覚めた後も美女のことをどうしても忘れがたかったので、絵師にその姿を描かせて国々を探させ、見つけ出した生き写しの富豪の娘を皇后にしたという。
[2]昔、中国の王城の門が九つ重なっていたことから、天子の住居の門や塀、あるいは住居そのものを「九重」と言った。
[3]昭和天皇の「人間宣言」こと『新日本建設に関する詔書』より。
【参考文献】
・『烏帽子折草子』
・井上正雄『大阪府全志 第五巻』(大阪府全志発行所、大正十一年)
・柳田国男『桃太郎の誕生』(三省堂、昭和八年)
・早川孝太郎『猪鹿狸』(文一路社、昭和十七年)
・藤樫準二『増訂 皇室事典』(明玄書房、一九八九年)
・ヨーゼフ・ロート著、平田達治訳『ラデツキー行進曲』(鳥影社、二〇〇七年)
・『御所のお庭』(扶桑社、二〇一〇年)
・梅山秀幸「日本仏教の揺藍の地としての南大阪(二)――槙尾川に沿って(I)国分寺――」(『桃山学院大学総合研究所紀要』第四十一巻第一号、二〇一五年)
第三話「竹の園生の御栄え」
『太平記』巻第十八によれば、逆賊として語られる足利尊氏公からお逃れになった後醍醐帝におかせられては、大和国は吉野くんだりへの潜幸の道すがら、賀名生という山里に行在所をお設けになった。その里に至られるまでには、真っ暗闇でとてももう先へと進めそうになくなってしまわれた夏の夜に、にわかに春日山から金峰山の峰まで松明のような光が飛び渡って、天地が夜もすがら明々と照らされた――という摩訶不思議きわまる出来事がおありだったとのことである。振り返ってみれば、あの夜の何とも妖しげな光も蛍火も、きっとそのような瑞光の類であったのだろう。
永寧朝の椒房におかせられては、天女とはこのような女性であるに違いないと思われるほどお人柄もご容姿も並外れて優れていらっしゃったけれども、まったくの平民の家柄にお生まれになったし、信じる者はほとんどいないだろうからと肝心のお馴れ初めは一切伏せられていたので、入内に際しては、とりわけやんごとなき旧華族の間にはご不満も少なからずおありだったのだが、さりとて彼らの中にわが娘や孫娘に火中の栗を拾わせたい、我こそが国母になりたや、というお方は誰一人としておいでにならなかったから、最大の庇護者でいらっしゃった安化天皇が身罷られてもなお、立后への道を阻むものは初めのうちからほとんど何もおありではなかった。
また、平安朝の古とは異なって一夫一妻の世であったので、どんなに内裏のご寵愛を深くお受けになっても、あの『源氏物語』の桐壺更衣がひどく苦しめられたような後宮の女人たちの妬みや嫉みを一身にお受けになるようなことがなかったばかりか、みなが思わずオーストリア・ハプスブルク家[1]のかの「女帝」マリア・テレジアをば連想してしまうほど数多の皇子女がこのお方からご出生になったし、何より、ご成婚の経緯をつぶさに知る宮内庁職員の間では、神がお選びになった皇后だと信じられていたから、皇太后も太皇太后もおいでにならない宮中におけるお立場はむしろ、もしもお望みになったならば上古の神功皇后のようなお振る舞いですらも不可能ではないかもしれないと思われるほど、いささかも揺るぎないものであらせられた。
それにつけても皇后陛下に対せられる永寧の帝のご寵愛ぶりと申したら、まさに山よりもお高く、海よりもお深いものでいらっしゃった。遠く異朝を訪えば、十九世紀のオランダにウィレム三世という王がいた。この王は、六十三歳という高齢になってから儲けた幼い王女ウィルヘルミナ――後の第四代君主・ウィルヘルミナ女王――を溺愛のあまり片時も離そうとしなかったので、王宮の政務の間がまるで王女養育所のようになってしまったという。そんな状況に初めのうちは困惑することしきりだった大臣たちもしばらくすると慣れて、玩具がどこにも見えない日には、
「もしや王女殿下にはご体調がお宜しくないのでございますか」
などと、かえって心配し始めるようになった[2]そうだが、永寧の帝のご寵愛ぶりは、そんなウィレム三世の逸話でさえもまったく霞んでしまうほどでいらっしゃった。
帝の御父君にあたらせられる後陽光太上天皇には、ご生前、最愛の妃殿下の御ことを『竹取物語』のかぐや姫なのではないかと月見の和歌の中でお疑いになったことがおありだが、永寧の帝におかせられては、お写真の中の御母君をご覧になっても、
「確かにたいそうお美しいお方ではあるけれども、長秋宮のほうがよほどにかぐや姫と呼ぶにふさわしい」
と心からお思いになった。そんな帝には、皇后がいずれはかぐや姫のように月かどこかに帰ってしまうのではないか、というご心配がおありだったに違いない。お若くして践祚なさった時、すでにご肉親がただのお一人としていらっしゃらなかったがゆえのお寂しさもあるのだろうが、
「いかなる時にも長秋宮の姿が傍らに見えなければ、朕はどうしようもなく不安な気持ちになってしまうのだよ」
と常々ご周囲の者どもに仰せになり、実際、内閣より奉上される書類の山に御名御璽をお賜りになる際にも、
「皇室典範によると、万が一にも朕が病の床に臥したる時には、皇族が摂政なり国事行為臨時代行なりに就任することになると決まっている。そんな時のために天皇の仕事というものを見学させておいて不都合はないであろう。そして今、その資格があるのは長秋宮しかいないのである」
などとお言い訳のように仰っては、宮殿の表御座所にまで常日頃から皇后陛下をお伴いになった。このご寵愛ぶりは、御子がお生まれになってもいささかもお変わりにならなかった。やがて東宮殿下――のちの寛恭天皇――が御年十八のご成年に達せられて摂政就任順位第一位とならせられても、表御座所にお伴いになるのは依然として皇后陛下ただお一人なのであった。
皇后陛下には、とりわけお若い頃にはほとんど毎年のように一年の大半を身籠った状態でお過ごしになっていらっしゃった。帝におかせられては、ご年少の頃から、朝家を存続させねばならないという責任感を強くお抱きでいらっしゃったが、その一方で、ご自身がお生まれになった折に母君を亡くされたがゆえにお産を少々お怖がりになるところがおありで、第三皇子がお生まれになった直後には、これで満足せずにできるだけ多く産みたいと仰った皇后陛下をお気遣いになって、
「皇室の安泰のためにといって、無理をしてまで大勢産もうとしなくてもいいのだよ」
と仰せになったこともおありだった。しかし、皇后陛下にはその聖慮に対せられ、
「できるだけ多く産みたいと私めが申し上げましたのは、恥ずかしながら皇室の御為にと申しますよりは、愛する人の子を一人でも多く産み育てたいという、浅ましい女心からのものでございます」
とお返事をなさったので、帝におかせられては、伊邪那美のように皇后が出産により落命してしまう時がいずれ来てしまうのではないかという恐れをお抱きになりながらも、子沢山でありたいというのが皇后の心からの望みであるならばそれに沿いたい、とお考えになったのだった。
子は天からの授かりものにほかならず、どんなに高いご身分の人であろうとも、どれだけの人数が欲しいと願ったところで望みのままに叶うものではないから、結果として両陛下の間に二十三方もの御子がお生まれになったのは、やはり前世での縁もよほどに深いものがおありだったということなのであろう。
伝説によれば、古代アッシリアの都市カネシュの女王は合計で六十人もの子を産んだという。最初の三十人の王子は、産んだものの育てきれずに全員をまとめて川に流すことにしたそうだが、畏くも永寧の皇后陛下におかせられては、お産みになった大勢の殿下方をお手許にて見事にお育てになって、世の人々をして驚嘆せしめられた。
それまで日本の国は、財力に余裕がある者どもでさえもあまり子を持とうとしないがゆえの少子化に長らく悩ませられていたが、両陛下が煩わしそうなほどに大勢の御子をお持ちになりながらもたいそうお幸せそうなのを拝見した民草は、羨ましく思って皇室に倣おうとした。[3]
神話によると、黄泉の国から葦原の中つ国へと逃げ戻り給うた伊邪那岐命に対せられ、置き去りにされ給うた伊邪那美命には、
「愛しい人よ、こんなひどいことをするのならば、私は貴方の国から一日に千人の命を奪いましょう」
と仰せになったが、伊邪那岐命にはこれに対せられ、
「愛しい人よ、それならば私は産屋を建てさせて、一日に千五百人の赤子を産ませよう」
とお応えになったという。そんな神話があるにもかかわらず、民草の数はしだいに減る一方であったのだが、永寧帝の御宇を境に、神代の記述にあるがごとく再び栄えるようになった。後の世の人々が永寧の御代を「聖代」と称え奉るのは、ひとえにこれがゆえのことである。
さて、両陛下の間にお生まれになった殿下方におかせられては、どなた様も皇后陛下のお血を色濃くお受け継ぎになってご容姿がたいへんに優れていらっしゃったので、ほんの一目なりともそのお姿を拝した世の同年代の男女は、あらゆることが手につかなくなってしまったとみえるほど、みな夢中になってしまった。両陛下が十六方もの親王殿下をお儲けになったおかげで、女人にとっては入内の敷居がかなり低くなったし、何より、まともな人にまともな思考をできなくさせてしまうほどのお美しさであらせられたから、宮輩、すなわち「宮様」とお呼ばれになる親王、内親王の方々におかせられては、お一人の例外もなくはやばやとご結婚なさった。
皇女殿下のお相手の中には、ご母堂がかつて皇太孫時代の陛下のお妃候補のお一人と目されていらっしゃったという旧堂上家の殿方もおいでになった。そのご母堂のご尊父、つまり内親王殿下の義理の祖父となられたさるご老公などは、
「またしても完全なる平民階級からの立后か。御皇室とその藩屏たりし我々の血縁は薄くなる一方ではないか」
とご不満を公然と述べていらっしゃった過去がおありだったが、そんな在りし日のお姿はどこへやら、皇女腹の曾孫様のことをたいそうご寵愛になるがあまり、
「お上が皇后さまをお選びになって本当にようございました。万が一、私の娘が選ばれていたら、あのお美しい皇后さまのお血を当家に迎え入れることなど叶わなかったでしょうから。いかがです、この可愛らしさ! 曾祖父の欲目で可愛く見えるだけではないはずです」
などと、よちよち歩きの曾孫様をお連れ回しになりながらあちらこちらでご自慢なさったから、人はああも変わるものなのかと旧華族の親睦団体「霞会館」はしばらくの間、その話題でもちきりになった。
大家族に生まれ育った子が、長じて自身も子福者になるということは、身分の貴賤を問わず古今東西に多くの例があるが、それは皇室とて例外ではありえない。皇子殿下方はみな、父帝ほどではないにしても八方、九方と多くの御子をお持ちになり、皇孫殿下方もまた同様でいらっしゃったので、永寧の大御代になって四十年ほども経つと、『皇統譜』に新たな皇族のご誕生が登載されない年がほとんどないというありさまが続くようになって、民草の喜びは尽きることがなかった。
平安の古、人皇第七十二代・白河天皇におかせられては、中宮の藤原賢子をすこぶるご寵愛になったそうだ。『宇治拾遺物語』によれば、この中宮が危篤にならせられても禁裏からの退出をお許しにならず、今生の別れの際にはその亡骸をお抱きになって、なかなかお離しにならなかった。それは未曽有のことでございますから、と源俊明卿より退出を促せられ給うや、
「例は此よりこそ始まらめ」
と勅答なさったということである。長い歴史を紐解いてみると、朝家にはこのようにたいそう仲睦まじいご夫妻が大勢おいでになったものだが、それでも、永寧の両陛下ほどのご夫妻はやはりいらっしゃらなかったに違いない。
御位をお降りになってから久しい宣文四年の三月のとある昼下がり、お揃いで宝算百十一の皇寿を奉祝され給うたばかりの永寧の両陛下におかせられては、
「春の陽気に誘われて、眠たくなってしまったよ。少し横になろうかな」
「それでは陛下、私もお供いたします」
と、毎夜ご寝室でなさっているようにお手を繋ぎ合わせられながらお昼寝をなさり、そのままお二人とも二度とお目覚めにならなかった。その長いご生涯の中で両陛下はたったの一度も夫婦喧嘩をなさらなかったそうだから、それだけでも仲睦まじさがよくわかるというものだが、最もよく仲睦まじさが現れているのはお二人の御陵である。
史書によると、歴代天皇の中でも宣化天皇、安閑天皇、天武天皇のお三方の御陵は、皇后との合葬であるという。故院には、ご在位のみぎりからこれを先例としての合葬を強くお望みになっていて、そのご希望の通りに葬られ給うた。ただでさえ数が少ないうえに千数百年ぶりという極めて異例なことであったが、そのお三方の皇后と申し上げるのはどなた様も后に立てられ給う前からとても貴い皇女の御身でいらっしゃったから、竹の園生のお生まれではない紫の雲としては前代未聞のことなのだった。
崩御から程なくして『永寧天皇実録』の編纂事業が始められたが、これに携わった学者どもはみな、発見されたばかりの故松平頼彦元侍従長の個人的な日記を机の上に開きながら、
「百十一歳まで長生きなさっただとか、同日にお生まれになった神明皇后も同日の同時刻に崩御なさっただとか、周知の事実を書くだけでもまるで初期の天皇のような雰囲気になってしまうというのに、こんな伝説めいたことを盛り込んでしまえば、後世の人々は『永寧天皇実録』を史実と異なる物語としか見なさないだろう。あるいは、永寧天皇の実在性すら疑わしく思うかもしれない――」
などと、とてもそのまま事実だとは考えがたい先后・神明皇后についての記述に頭を悩ませることしきりであった。
神明皇后の本当のご出自は、とうとう何も明らかにならなかった。皇后が本当に人かを疑う者すらあったが、そもそも初代人皇・神武天皇の御祖母君にあたらせられる豊玉姫の真のお姿が八尋の大和邇であらせられたことを思うに、たとえご正体が何であろうとも大した問題ではないに違いない。一部の者が噂したように玉藻前の再来だとすれば、狐は多産な動物であるから、永寧天皇が御子に恵まれ給うたのもそう不思議なことではないのだろうが、もちろんこれは憶測でしかない。もしもそうだったにせよ、立后以来、崩御に至るまで何一つとして瑕疵のない、間違いなく史上稀なるご立派な皇后でいらっしゃったのだけれども、そのお振る舞いさえもが妖狐の奸計のうちだったということがはたしてありえるものだろうか。
栄枯盛衰は世の習いであり、歴史が示しているように、朝家とてその例に漏れない。永寧の大御代を契機に、竹の園生は大いに栄え給うた。そんな聖代が六十年目を迎える頃になると、有識者の中からはごくわずかに、
「皇族に対して国家がその保障をして差し上げる経費がずぼらにどんどんふえてくるということでは、皇室に対する国民の尊敬というものにもひびが入る危険が将来あると私は思う」
と言った受田新吉と同じような不安を抱き始めた者も現れるようになったものの、寛恭、宣文と二度の御代替わりを経てもなお民草のほとんどは気にしなかったのだが、それも天つ枝の方々の共通祖先たらせられる永寧天皇が上皇としてしばらくはご在世でいらっしゃったからこそなのだった。
【脚注】
[1]余談ながら、旧オーストリア皇室であるハプスブルク=ロートリンゲン家は、男系継承と一夫一妻制を守りながら数百人規模になっており、当主ですら一門の正確な人数を把握できないという。同家ほどではないがリヒテンシュタイン家なども同様の継承制度のもとで相当に繁栄している。
[2]博文館『世界之帝王』(博文館、明治三十八年)より。
[3]なお、櫻井秀勲『皇后三代』(きずな出版、二〇一九年)曰く、「日本人はこれまで、天皇家の『結婚と出産』を目標にしてきた、という話があります。『何歳で結婚されたか、子どもの数は何人か』を真似るというのです」
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