見出し画像

【愛知県の皇室伝承】17.「任瑜法親王」らが住職を務めた「大須観音」(名古屋市)

「大須観音」の住職になった皇族方

 愛知県名古屋市中区大須にある北野山真福寺寶生院――「大須観音」の名で知られる――は、真言宗智山派の別格本山であり、日本三大観音の一つに数えられる。

 名古屋随一の観音霊場として全国的に名高いこの寺だが、最初から今日の場所にあったわけではない。

 慶長十七年に現在地に移転してくるまでは、尾張国中島郡長庄大須(現・岐阜県羽島市桑原町大須)の地にあったという。そして寺伝によれば、その頃には少なくともお二方の皇族が住職を務めていらっしゃったそうだ。

第二世住職・聖珍法親王

 今日の大須観音の公式な歴史には見えないが、一説によれば第二世住職は人皇第九十二代・伏見天皇の皇子にあたらせられる聖珍法親王だという。

『古事記学抄』(子文書房、昭和十八年)を著した蓮田善明が真福寺に照会したところ、「二世、後村上天皇の勅命により、南都東南院二品聖珍親王(伏見院第二皇子)」という情報を得たそうだ。なお同書には「聖珍法親王が真福寺に住職の事は他書に未だ発見せず」ともある。

第三世住職・任瑜法親王

 史実かどうかは別にして、第三世・第四世の住職は貴くも竹の園生の御身であらせられたという伝説を、大須観音は公式に採用している。

 第五十三世住職・鈴木快聖のもとで刊行された『大須観音真福寺略史』(浜島書店、昭和二十九年)にも、「後村上天皇の勅命によつて、土御門宮二品任瑜法親王を信瑜和尚の室に入らせ、第三世継席者に治定されました」とある。

 しかし、同書の中にも「後村上天皇第二皇子とも伝え、南山小譜には後亀山天皇皇子とあります」とあるように、この法親王の系譜は明らかでない。

『多度津町史』(昭和三十八年)には「師成親王御弟君任瑜法親王は、真福寺を御継ぎになられ」たとある。師成親王は一般的に後村上天皇の第五皇子とされるので、その弟宮となると第六皇子以降ということになろう。

 人皇第九十代・亀山天皇の皇子、恒明親王の御子であらせられるという説もある。伊藤基之『縦覧案内記』(明治二十六年)曰く、「亀山天皇の皇子式部卿恒明親王の男土御門宮二品任瑜法親王を以て第三世住職とす」

 つまり、彼の系譜を巡っては、少なくとも四つの説があるらしい。これを図示すると下のようになる。

 いずれにせよ、任瑜法親王は大須観音の歴史において非常に重要な存在として位置づけられている。在職期間が弘和二年から四十一年にも及んだこの法親王のご在世の頃が、大須観音の最盛期だったということである。

伊勢、美濃、尾張、三河、遠江、信濃の六ヵ国内の真言宗寺院はことごとく、当山の末寺となりましたが、このことは寺伝の開山法会出席帳の記載によつて明らかにされています。それ以来慶長年間にいたるまで、当山は門葉ならびに関東における同宗寺院の僧位、僧官の叙任をも司ることとなり……

『大須観音真福寺略史』十六頁。

第四世住職・頼瑜法親王

 前掲『大須観音真福寺略史』によれば、任瑜法親王の後は、後村上天皇の皇子・泰成親王の御子であらせられる泰邦王が「頼瑜法親王」として第四世の住職とならせられたそうだ。

 ちなみに、若原敬経『仏教いろは字典 隆』(其中堂、明治三十年)によると、この法親王は後亀山天皇のご猶子とならせられて、「高福院宮」または「大須宮」と号せられたということだが、その典拠は明らかではない。

今日の伝承地

 なお、現在の大須観音の境内には、往古の法親王の方々を偲ばせるものは何もない。

『羽島市史 第二巻』(昭和四十一年)によると、真福寺がいまだ羽島にあった頃、任瑜法親王の御墓所が大洪水によって池の中に水没してしまうという出来事があったらしい。おそらくは慶長十年の木曽川の氾濫の時であろう。

 古老の話では、「親王池」と呼ばれるようになったその池を村の人たちが大勢で調べたけれども、何も発見できなかったそうだ。この池はのちに大須駅(※名鉄竹鼻線。平成十三年に廃駅)の敷地になったという。

【関連寺院】
・地泉院(愛知県稲沢市祖父江町神明津)
・真福寺(岐阜県羽島市桑原町大須)

モチベーション維持・向上のために、ちょっとでも面白いとお感じになったらスキやフォローやシェアや投げ銭をしちくり~