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【愛知県の皇室伝承】9.見れば神罰が… 謎の南朝皇族「久丸王」に由来するらしい極秘の神事「寝祭」(田原市)
極秘の神事「寝祭」
毎年、旧正月が迫ってくると、愛知県田原市の神戸地区の辻々で「寝祭」の実施日を知らせるための看板が見られるようになる。
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寝祭とは、地元の久丸神社から神戸大宮神明社までの三百メートルほどの間を神職たちの行列が渡り歩くという伝統的な神事である。旧正月を迎えて最初の巳の日を過ぎてから初めの申と酉(※巳の日を待たずに催行するとよくないらしい)の二日間にかけておこなわれる。
さて、この行例は昔から、誰も見てはならないとされてきた。もしもこれを目にしたならば、恐ろしい災いが身に降りかかると伝えられる。話によると、過去に大勢の者が、盲目になってしまったり、熱病に侵されてしまったり、発狂してしまったりしたそうだ。
だから近隣住民は、行列をうっかり見てしまわないよう、行列の通る時間は家に閉じ籠もり、眠っているかのように静かにしてきた。一説によると、この祭りが「寝祭」という名になったのは、それゆえのことであるという。今でも、祭りが近くなると地域の回覧板の中で注意を呼びかけられる程度には気にかけられている。
謎の南朝皇族「久丸王」伝承地 in 渥美半島
神戸地区の中心的な神社である久丸神社だが、社号の「久丸」というのが具体的に何に由来しているかは不確かなようだ。大別すると次の三つの説があり、中でも特に第一説と第二説が圧倒的な多さで言い伝えられてきた。
第一説
久丸王と云ふ方が百々村の神竈と云ふ所へ流されてついた。然るに此の方は御病気であつたので、人に見らるゝを御厭ひになつた。此の王の祭り故に村民は寝て休むのである。
第二説
久丸王は南朝の王様であつたが敗戦して神戸にかくれた。人に見らるゝことを厭つてかくれた王の祭りであるから村民は休むのである。
第三説
久丸はヒオサマルにて鎮火祭の変化したものである。
真偽は不確かだが、「久丸王」とは人皇第九十六代・後醍醐天皇の孫とも曾孫ともいわれる南朝の皇族らしい。渥美半島には、この謎の皇族の足跡を今に伝える地がいくつかある。
1.入王山正福寺
田原市小塩津町に、入王山正福寺という曹洞宗の寺院がある。
古い伝説によれば南北朝時代、戦に敗れた久丸王が、船で逃げるうちに、この寺から五百メートルほど南に広がる小磯の浜に漂着したという。これを知った村人たちは、王を助けてひとまず正福寺にお移しして匿うことにしたそうだ。久丸王は間もなく江比間の地にお移りになったともいわれているが、ともかく、これが「入王山」という山号の由来であると伝えている。
この寺から二百メートルほど東に鎮座する日吉神社でも、昔は久丸神社と同じく「寝祭」をしたそうだ。こちらでも人々は家に籠って静かにしていたらしいが、その理由は、人に見られることをお厭いになった久丸王を偲んでの祭りであるためだという。
2.神の釜神社
一説によると、久丸王は神の釜という土地にしばらくお留まりになったという。
神戸村字漆田の久丸神社の祭神久丸王は船にて相川村豊島字前田に至り、陸にのぼられ、丘に立って四方を眺め、神の釜にて暫く止まり後神戸に来られたといふ。上陸された所を船戸、四方を眺められた所を物見塚といふ。神の釜は杉山村字六連地内にある。
上にある船戸と物見塚がどこにあるのかは不明だが、神の釜については、特別養護老人ホーム「田原福寿園本館」の隣に、神の釜神社という小さなお社が鎮座する。
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伝承によると、王は今まさにこの祠が鎮座している場所にお住まいになったらしい。祠の傍らには久丸王伝説についての看板が立てられている。
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南朝より潜行の久丸王子が楠九郎大夫を侍臣として海路到着し、住居の跡と云う。以来毎年申酉の日午の刻から申の刻の間に久丸神社の禰宜が神幣釜を背負いてここに来り、注連縄を張り結界して稼穡(※筆者注:穀物の植えつけと取り入れのこと)のまねをし、竹を切り箭を作りてこれを植え、一宿して翌日未の刻に神明社に皈ると云う由来の場所である。
文中にある久丸王の侍臣「楠九郎大夫」というのは、「大楠公」こと楠木正成(楠正成)の一族なのだろう。
3.久丸神社
久丸王の御足取りははっきりしないが、一説によれば、最後には神戸の地に辿り着かれたとされる。その神戸の中心的な神社が、社号に久丸王の御諱を用いているとされ、そのうえ「寝祭り」の舞台の一つでもあるここだ。
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4.神戸大宮神明社
久丸神社に並ぶ、寝祭りの舞台の一つである。
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なお、神戸でご生涯を終えられたとされる久丸王だが、その御墓所は定かでない。実在の人物だったとすれば、そう離れていない場所に、おそらくは神戸のどこかに埋葬され給うたと思われるのだが……。
【参考文献】
・愛知県渥美郡『渥美郡史 正編』(大正十二年)
・乙部静夫『東三河の伝説』(東三河の伝説刊行会、昭和九年)
・愛知県教育会『愛知県伝説集』(郷土研究社、昭和十二年)
・『渥美町史 考古・民俗編』(平成三年)
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