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【静岡県の皇室伝承】1.「小京都」見付に滞在した良純入道親王(磐田市)

1.「小京都」見付の地名伝説

数多い京風地名

見付天神みつけてんじん」の通称で知られる矢奈比賣やなひめ神社が鎮座する、静岡県磐田市の見付。古くは「小京都」と呼ばれていたらしいこの地域には、北野、愛宕、加茂川、北井上、梅屋小路など、京都を思わせる雅な地名が多い。

福王寺西橋にて。奥に流れるは「加茂川」だ。

 このような地名は、江戸時代初期の皇族・良純入道親王りょうじゅんにゅうどうしんのうがお付けになったものだと伝えられている。

 良純入道親王は人皇第百七代・後陽成天皇の第八皇子で、十代半ばにして知恩院にお入りになり、寛永二十(一六四三)年、四十歳の時にどうしたわけか甲斐国(現・山梨県)の天目山てんもくざん棲雲寺せいうんじに配流の憂き目に遭われた。

 配流から十五年以上後の万治二(一六五九)年、親王はようやく許されて帰京された。この帰路に見付にご滞在になり、京の都にどことなく似ていることなどを好まれて、あちこちに京風の地名をお付けになったのだという。

東坂の「八だ堂」

 かつて東海道筋の東坂に小堂があり、良純入道親王はそこに逗留なさっていたという。この小堂は「八だ堂」と呼ばれていたそうだが、それというのも、入道親王が参勤交代をする大名行列をご覧になっては、
「八だ、八だ!」
 と堂内から大声でお叫びになったからだという。「自分は八の宮(=第八皇子)だ」の意であろう。諸大名はこの金枝玉葉の御身に敬意を示すために駕籠や馬などの乗り物から降りて徒歩で通らなければならず、すこぶる迷惑をしたという話である。

2.大見寺の「良純法親王供養塔」

 見付に所在する日照山光明院大見寺は、鎌倉時代の創建と伝わる浄土宗の寺院である。第十一代住職の禿翁とくおうは、良純入道親王の弟子であり、流罪に処されてしまった同親王のお供をしていたそうだ。

 この寺の境内の墓地の一角に、良純入道親王(※親王宣下の後に出家したため「入道親王」が正しいはずだが、同寺は「法親王」と表記している)の供養塔がある。帰京した親王が入寂した後に、禿翁がその御分骨を乞い受けたというのである。

土人称して法親王の御墓といふもの、見付町大見寺境内にあり。法親王は後陽成天皇第八の皇子にして、徳川家康の養子となり、出家して知恩院門主たりしが、寛永二十年事に由りて甲斐天目山に遷り、万治二年帰洛の途此寺に留り給ひしかば、寛文九年薨去の後、此地に分骨して御墓を建てきといふ。

静岡県『静岡県史蹟名勝誌(県勢資料 第二編)』(大正十年)二五二頁。

 禿翁が拝受した良純入道親王のご遺骨は当初、三本松(富士見町)の地に徳翁院という寺院を新たに造営してそちらで供養していた。徳翁院が無住となって荒廃してしまったので、文政十(一八二八)年に関係の品々をすべて大見寺へとお移ししたというが、肝心のご遺骨を移したかは不明瞭である。もしかしたら移したのは墓石のみかもしれない。

親王勅免を得て京都に帰り薨じたる後、其の骨を分ちて、秀[※ママ]翁は其の創建したる三本松の徳翁院に蔵めこゝに墓を建てたるが、文政十一年、当時沢純の代に本境内に移せること墓背に刻しあり。御分骨をこゝに奉遷したりや否やは明かならず。

静岡県磐田郡教育会『静岡県磐田郡誌』(大正十年)六四一頁。

 皇族の御墓とされているが、宮内庁の管理下にはないようだ。

「後陽成天皇第八皇子 知恩院初代宮門跡 良純法親王墓(1604-1669)」とある。

参考文献

・静岡県磐田郡教育会『静岡県磐田郡誌』(大正十年)
・静岡県『静岡県史蹟名勝誌(県勢資料 第二編)』(大正十年)
・『磐田むかしばなし』(磐田市観光協会、昭和五十六年)

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