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【主張】「双京構想」実現を! 皇室の「東京一極集中」の危うさに思いを致せ

はじめに

 現在の岐阜県大野郡白川村にかつて、帰雲城という城があった。天正13年(1586年)、天正地震による山崩れで城主一族が死に絶えてしまったという悲劇が今に伝わる。今回のテーマは、この悲劇の再現を許してはならないということに尽きる。

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帰雲城趾の碑
@NALA Wiki(CC BY-SA 3.0

 令和3年(2021年)1月現在、皇位継承有資格者がお三方しかおられず、皇室は断絶も危惧されるほどの状況にある。それゆえに、旧宮家などの男系皇裔への皇籍付与や女系継承の容認が各方面から提案されている。

 皇位継承有資格者を増やすことの重要性は今更いうまでもないが、ただ単に増やしさえすれば皇統断絶の虞がなくなると判断するのは早計であろう。

皇室の「東京一極集中」の危険性

 皇族のほとんどは、東京都港区の赤坂御用地にお住まいになられている。そうでないのは、東京都渋谷区東の常盤松御用邸にお住まいになられている常陸宮家だけだ。いずれにせよ、皇位継承有資格者は全員が都内にお住まいである。

 皇位継承資格を有する男性皇族のみならず、ほぼすべての皇族が東京都内にお住まいを構えておられる。皇族には含まれない天皇陛下も上皇陛下も、都内に御所を構えておられるから、皇室の方々のお住まいは東京に集中しているわけである。

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赤坂御用地の空中写真(1989年)
©国土交通省

 ならば、東京は絶対に安全な土地だということか。そうは言い切れまい。東京都民の不安を煽るようだが、近年指摘されている東京の危機シナリオをいくつか次に例示する。

 国の中央防災会議の予測によると、マグニチュード7クラスの大地震が、今後30年以内に70%の確率で起こるという。いわゆる「首都直下地震」だ。

 活火山である箱根山の存在も、無視できない。約6万年前の大噴火では、火砕流がわずか1~2時間で現在の横浜市郊外にまで到達したという。より大規模な噴火が起きた場合、今度は東京も飲み込まれるかもしれない。

 むろん、東京の平和を脅かすのは天変地異ばかりではない。かつてロシアの極右政党「ロシア自由民主党」は、東京に核爆弾を落とそうと公言したことがある。周辺国(ロシア連邦、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国など)の核ミサイルの標的となる可能性も、皆無ではないのだ。

 ――いずれのシナリオも、決して「今そこにある危機」ではない。現実の光景にはなりそうもないように思われるが、それでも考えておいて損はあるまい。口に出すのも憚られることだが、今のまま何も変えなかったならば、今後どれだけ皇位継承有資格者が増加したとしても皇室は首都壊滅と同時に全滅してしまいかねないのであるから。

 日本史を紐解けば、大正12年(1923年)の関東大震災の折には、倒壊した家屋の下敷きになる形で、皇室からも複数の犠牲者が出ている。寛子女王師正王佐紀子女王の三殿下である。皇室の構成員のほとんどが関東地方に集中する中で発生した関東大地震は、疑いようもなく近代以降の皇室が直面した大きな危険の一つであった。

 地震のときは部屋にいたが、扇風機が落ちてきた。地震だとは思ったが、椅子を部屋の中央に持出して、牧野がくるのを待っていた。
 ――松平直鎮が語る、震災翌日の昭和天皇(※当時は摂政)のおことば。

 令和元年(2019年)のブータンご旅行の際、皇嗣たる秋篠宮殿下と同若宮殿下は、別々の飛行機をご利用になられた。これは「不測の事態が生じた際の皇位継承への影響を考慮」してのものとされる。であるならば、皇位継承有資格者の東京集中状態の解消についても、真剣に検討されて然るべきではないだろうか。

京都、関西広域連合の提言
~「双京構想」ほか~

 皇室の地方分散をといっても、具体的にはどこにお移りいただくべきか。歴史的背景からいえば、最有力候補地は京都市だろう。延暦13年(794年)以来、明治2年(1869年)の東京行幸に至るまで、千年余の長きにわたって平安京として皇室と共にあったのであるから。

 そもそも論をいえば、京都御所は現役の御所のひとつだ。現役の御所は、東京以外では京都にしか存在しない。

 京都の御所は、決して旧御所でも離宮でもない。京都御所は、制度的には東京のそれと同じく今も現役の皇居である。
 ――山田邦和『カラーブックス 京都』(保育社、1993年)2ページ。

 伝統的価値観を重視して天皇の居所こそが日本の首都だと考えるならば、実体はないにせよ、やはり明治時代初期に「東西両京」とされたまま今日に至っていると考えられるのである。

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京都御所・紫宸殿

 ところで、その京都御所の所在地である京都に「双京構想」という構想があるのをご存じだろうか。

 これは、「皇室の弥栄のために、京都にも皇族の方にお住まいいただき、東京との双京を実現する構想」と説明されている。

 東日本大震災を一つの契機として、東京にあらゆるものが集中している我が国のあり方が問題とされています。首都直下型地震発生のリスクが一層高まる中、万が一の事態に備えて、首都中枢機能のバックアップ体制を早急に構築することが求められており、とりわけ、日本の精神的支柱である皇室の安心・安全の確保について、万全の態勢を整えておくことが必要です。
 ――「双京構想」パンフレットより。

 なお、一部皇族の京都居住を国に提言しているのは、京都のみではない。2012年(平成24年)、関西広域連合「関西での首都機能バックアップ構造の構築に関する意見」の中で「日本の大切な皇室の安心・安全と永続を実現するために、皇室の方々に京都にお住まいいただき、御活動していただくことについて検討を行う」ことを提言している。

 関西広域連合は、域内人口が2000万人を超える、日本最大の地方公共団体だ。そのような巨大組織から皇室の散住の提案がなされていることは、非常に頼もしい限りである。しかし――

 悲しいことに皇室の地方分散の重要性は、国民に広く理解されているとはいいがたい。国民の一部には、京都を軸とする関西地方の皇室再誘致の動きについて、明治維新後に天皇を東京に奪われてしまったことへの嫉妬心からくるものにすぎないと捉えて嘲笑する向きもある。

 令和2年(2020年)12月、とあるニュースが列島を駆け巡った。平成23年(2011年)3月の東京電力福島第一原発事故の直後、当時の菅政権が在位中の上皇陛下に「京都か京都以西」への避難を打診していたというのだ。

 この時、皇位継承資格をもつ唯一の次世代の男系男子として皇室の未来を一身に担われる秋篠若宮殿下の京都避難も検討されたという。

 万一の際には皇室の避難が検討されるとわかったことは幸いだが、何かが起きてから検討されるようでは間に合わない可能性もある。やはり日頃から皇族方に地方にお住まいいただくのが最良の策であろう。

 東日本大震災の後、さまざまな観点から東京一極集中のリスクが叫ばれるようになった。「双京構想」が打ち出されたのは大震災の翌年のことだったが、その頃ですら「東京への対抗心が丸見え」などと京都を嘲笑する人間が少なくなかった。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺の通り、震災から約10年の歳月が流れた今日では、そんな声がますます強まっているはずだ。

京都・奈良「仙洞御所」誘致運動への非難

 平成29年(2017年)に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(天皇退位特例法)」が成立した後、京都市長と奈良県知事がそれぞれ退位後のお住まいを誘致する動きをみせた。

 しかし、これに対する世間の視線は冷たかった。『プレジデント・オンライン』などは、「人道問題」で「非常識」とまでいって非難している。

 令和3年(2021年)ともなったいまや、完全に時機を失した話題であるが、筆者はここに京都・奈良擁護の論陣を張りたい。

 門川大作・京都市長は「なによりも上皇になられる天皇陛下、皇后陛下の御心に沿うことが重要」とはっきり言っている。荒井正吾・奈良県知事も、「お気持ちに沿うようにというのが最大の願い」と明言している。ご意向を無視してまで東京からお移りいただこうとしたのでは断じてなく、選択肢を提示してみたにすぎないのである。それに対して「望んでいないのに80歳を過ぎて慣れない土地へ移そうというのは、人道問題になりかねない」とは、的外れな指摘もいいところだ。

 当の上皇陛下はといえば、京都については平成6年(1994年)の平安建都1200年記念式典の場で「父祖の地として、懐かしくしのばれる」と語られているし、奈良についても平成22年(2010年)の平城遷都1300年記念祝典の場で「父祖の地として深いゆかりを感じる」と述べられている。これは単なる社交辞令ではあるまい。

 昭和天皇の次弟・高松宮宣仁親王は戦後、奈良への遷都を考慮していた。

 (高松宮は)国都については、奈良地方の御考えなり。少くとも、堀を廻らしたる城内に皇居あることを好ませられず。
 ――木下道雄『側近日誌』1945年10月29日条。

 高松宮は東京生まれで、奈良との直接的な縁はない。それでも、再び遷都してもよいと考える程度には、奈良という土地に親しみを抱いていたのだといえよう。また、現皇嗣・秋篠宮殿下は、ご成婚前のことであるが「京都に住みたい」としばしば仰せになられていたという。

 東京生まれの皇室の方々にとっても、京都や奈良はけっして過去の土地ではないらしい。京都については、先述のように現役の御所をもつ以上、皇族の居住を希望するのはそんなに奇異なことには思えない。そもそも、京都も奈良も、御心に沿うことが最重要だと言っている。

 ――このようにみると、先述の仙洞御所誘致の動きのいったいどこに非難される要素があったのだろうか? SNS上では「京都という地の傲慢さしか感じない」などと非難の声も出たようだが、結局のところ、発表内容をろくに精査せずに、古都のプライドの高さを揶揄するお決まりのネタとして消費したのだとしか筆者には思えないのである。

 真の「安定的な皇位継承」の確保のために、なるべく早く皇室の散住を実現させたいものだが、次世代の皇位継承有資格者が秋篠若宮殿下お一人しかおられない現状では、夢のまた夢である。かなり長い準備期間が取れているともいえるが、国民の意識を変えるにはそれでも足りないかもしれない。

 今日、「双京構想」に積極的に賛成しているのは、関西地方民を除けば、ごく一部の好事家のみだ。多くの人にとって、同構想は嘲笑の対象である。ほとんどの自治体は候補地になりそうもないのに対して、京都や奈良は皇室と深い関係をもつ古都だという理由で選ばれる可能性が高い。――あくまで推測だが、それが癪だという心理が働くのではないだろうか。

 しかし、京都ですら不可能ならば、皇室の分散先はもはや日本のどこにもあるまい。皇室の永続を望むのであれば、天皇の「還幸」を求めているわけでなし、一部の皇族を迎え入れようとしているというだけで京都を揶揄するのはやめたほうがよいだろう。

 京都の味方をするのは癇に障るかもしれない。しかし、ひとたび地方分散の先例ができたなら、ゆくゆくは北海道から沖縄県に至るまで、日本各地に皇族方がお住まいになられる時が訪れるかもしれない。――そんな期待からでもよいから、まずは京都の取り組みを応援してほしいものである。

 なお、念のために言っておくが、筆者は関西地域には縁もゆかりもない。皇室分散論については、関西人が何を言っても自己利益のためと捉えられてしまいかねないので、これを国民的運動にしていくには直接的な利害関係をもたない非関西人が声を上げていくことこそが重要であろう。

歴史上の皇族の下向

 ここでは、天皇のいる都から遠く離れた地で皇族が暮らした歴史上の事例をみていく(もちろん流罪によるものは対象外とする)。

飛鳥時代・奈良時代

 九州・筑前国の大宰府に、京より長官として赴いた皇族がいる。栗隈王、屋垣王、河内王、美努王、船王である。

 皇位継承有資格者とはいいがたいが、斎王として奉仕するために伊勢神宮に赴いた女性皇族たちも、下向した皇族の例として挙げることが一応可能であろう。

平安時代

 赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族:古代・中世皇統の末流』によると、五位以上の位階保持者は「自由意思で畿内から出ることが禁じられていた」にもかかわらず平安中期には「天皇の孫である二世孫王さえもが勝手に地方に下向するようになっていた」という。当時の王の大半は、貴種性を喪失して「なま孫王」などと貴族に侮蔑される存在であり、現実的な皇位継承者とはみなされていなかった。しかも禁令を破っての下向とあらば、どう考えても地方分散の先例とすべきではないだろう。

鎌倉時代・南北朝時代

 鎌倉幕府には、四人の皇族将軍がいる。宗尊親王、惟康親王、久明親王、守邦親王である。

 「建武の新政」で知られる後醍醐天皇の皇子たちは、いずれも地方定住を目的とするものではなかったが、日本各地を転々としている。鎌倉幕府打倒のために挙兵した護良親王や、征西大将軍に任命されて九州に赴いた懐良親王などである。

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後醍醐天皇の第三皇子・護良親王

室町時代

 南朝の嫡流である木寺宮家は、遠江国(現在の静岡県西部)に移り住み、天正年間まで存続したとされる。邦康親王の曾孫と推定される木寺宮について、赤坂恒明は「親王宣下を受けたと推定される」と述べている。確実な事例ではないが、もしこれが事実ならば、皇族が身位を保ったまま地方に代々定住していたわけだから、皇室の地方分散の先例となりうる。

江戸時代

 天台宗関東総本山・寛永寺では、後水尾天皇(在位:1611年~1629年)の第六皇子・守澄法親王以来、幕末まで皇族が住職を務めていた。その住職は「輪王寺宮」と尊称され、徳川御三家に並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。

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後水尾天皇の第六皇子・守澄法親王

 尤も、歴代「輪王寺宮」については、一度落飾した以上、皇族といえども皇位継承権があるとは認識されていなかったと思われる。仏門に入った皇族の還俗は、幕末まではありえないことと考えられていた。皇位継承権を保持する皇族の散住の先例とするのは不適切であろう。

近代(戦前)

 明治維新を迎えると、天皇は東京に移った。これに付き従って、皇族たちも東京に移住した。皇族は天皇のいる東京に住むのが原則だったが、中には京都に住む者もいた。山階宮晃親王とその弟・久邇宮朝彦親王などである。

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(左から)山階宮晃親王とその弟・久邇宮朝彦親王

 晃親王は、議定や外国事務総督といった新政府の要職に就いたが、慶応4年(1868年)に全ての官職を辞し、明治10年(1877年)に京都に戻った。名目は病気療養であったが、連日のように寺社参詣や旧知の訪問などをしており、健康だったようだ。なお、薨去は明治31年(1898年)のことである。

 朝彦親王は、王政復古期より京都で謹慎していた。許された後に東京移住を命じられたものの、病気療養を名目に京都に住むことを許された。久邇宮家は明治24年(1891年)まで、京都に本邸を置いていた。

 京都に在住していた皇族として、他に賀陽宮邦憲王や久邇宮家の多嘉王がいる。前者はやはり病弱な皇族であったが、後者については、理由が判然としない。

 また明治以降の皇族は、軍人として地方勤務することもあった。たとえば久邇宮邦彦王は大正6年(1917年)から約一年間、陸軍第十五師団長として愛知県豊橋市に赴任していた。

現代(戦後)

 三笠宮家の寛仁親王が、札幌オリンピック組織委員会事務局の職員として北海道札幌市に居住していた例がある。その長女の彬子女王殿下は平成21年(2009年)以降、美術史研究のために京都市でお一人で生活されているという。

 このように地方にお住まいになることが現代にまったくないわけではないが、これらはあくまでも一時的なものにすぎず、皇室の地方分散というには程遠いものである。

海外君主家の事例

 日本皇室の事例はこのくらいにして、海外君主家に目を転じよう。海外の君主家では、地方どころか外国への移住すら認められることも多い。

 イギリスでは、王位継承権を有する者が数千人もいるが、北米への移住を決めたサセックス公爵ヘンリー王子をみれば明らかなように、彼らの全員が首都ロンドンやその近郊に住んでいるわけではない。『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙の報じたところによると、王位継承順位の最下位はドイツ人だ(2011年時点)。

 スウェーデン王室でも、2018年にヘルシングランド=イェストリークランド女公爵マデレーン王女が夫子とともにアメリカに移住している。

 「スナック感覚で自然災害に見舞われる立地」にあるわが日本とは違い、自然災害がまれなヨーロッパでは、君主一族がちらばって住む意義が薄い。にもかかわらず、このように散住しているのである。

 半ば余談となるが、万一の御家断絶の際には議会が新たな君主家を決めると憲法で規定している国がヨーロッパには多い。大規模な自然災害があまり起こらないうえ、君主一族が一ヶ所に集中していないにもかかわらず、断絶という事態を想定した制度設計をしているのだ。

 その一方でわれらが日本国は、皇統断絶という事態を法規レベルでは一切想定していない。大規模な自然災害が周期的に発生するうえ、都内に殿邸(いわゆる宮邸)が集中していることから、海外の君主家よりも全滅してしまうリスクが高いと思われるにもかかわらずである。

 こう比較してみると、やはり何かが間違っているような気がする。盲目的に追従する必要はないが、ヨーロッパの君主家には日本皇室が見習うべき点もいくらかあるのではないだろうか。

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【参考文献】
戸所隆「東京の一極集中問題と首都機能の分散」(東京地学協会『地學雜誌』第123巻4号、2014年)
佃隆一郎「愛知大学公館の変遷:師団長官舎時代からのエピソード」(愛知大学一般教育論集編集委員会『一般教育論集』第48号、2015年)
河西秀哉『皇居の近現代史:開かれた皇室像の誕生』(吉川弘文館、2015年)
山賀進『科学の目で見る 日本列島の地震・津波・噴火の歴史』(ベレ出版、2016年)
赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族:古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、2019年)
浅見雅男『もうひとつの天皇家:伏見宮』(ちくま文庫、2020年)

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