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愛知県の皇室伝承

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・壬申の乱の敗者、弘文天皇の生存伝説(岡崎市) ・文武天皇が「三河行幸」中に儲けた皇子「竹内王子」(豊橋市) ・なぜか渥美半島に渡った後小松天皇の皇女「松代姫」(田原市) ・うつ… もっと読む
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【愛知県の皇室伝承】1.「大友地区」地名起源譚:大友皇子生存伝説 in 三河国(岡崎市)

1.岡崎市の大友皇子伝説 ※大友皇子は、明治三年(一八七〇年)に第三十九代人皇として「弘文天皇」の諡号を贈られているが、この記事では探訪地「大友」の周辺において支配的だった「大友皇子」の表記を基本的に用いることにする。 「大友」地区  第三十八代・天智天皇の崩御後、皇位継承をめぐる内乱――壬申の乱――が勃発した。この骨肉の争いの敗者とならせられた大友皇子は、今となってはどこにあったのか不明な「山前」なる地において縊死されたといわれる。 『日本書紀』に曰く、「走りて入らむ

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【愛知県の皇室伝承】2.歴史書にない文武天皇の「三河行幸」伝説:夭逝した皇子「竹内王子」編(豊橋市)

文武天皇の「三河行幸」伝説 奈良時代に成立した歴史書『続日本紀』に、「太上天皇幸参河国」という記述がある(大宝二年十月十日条)。  第四十一代人皇・持統天皇におかせられては、皇孫の軽皇子(=文武天皇)にご譲位なさって日本初の「太上天皇(=上皇)」になられた後の大宝二年(七〇二年)、三河国まで御幸なさった。それゆえに、三河国には持統上皇が関わる伝説がまさに山のように残っている――が、今回はその話ではない。  持統天皇から皇位をお受け継ぎになった文武天皇だが、この帝に関しては

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【愛知県の皇室伝承】3.なぜか渥美半島に渡った後小松天皇の幼い皇女「松代姫」(田原市)

壽命殿長仙寺の皇女伝説 愛知県田原市の壽命殿長仙寺。永禄八(一五六五)年の五月、岡崎の戦国大名・松平家康――のちに「徳川」に改姓して江戸幕府を開く――が田原城を攻めるに際して本陣を置き、前厄祈祷と戦勝祈願を奉修させたという由緒ある寺である。  その参道では「御大典記念」と刻まれた寺号標を見ることができる。皇室の慶事に際して建てられた碑は、神社であれば珍しくもないが、寺院においてはあまり見られるものではない。  寺院であるにもかかわらず「御大典記念」の碑があるのは、皇室にゆ

【愛知県の皇室伝承】4.漂着した皇族「開元王」の栄枯盛衰 民話「海に消えた皇子」(豊橋市)

※写真はすべて令和四(二〇二二)年四月五日 皇子「開元の宮」伝説: 『牟呂村瑞雲山真福寺観音由来記』より牟呂大海津公園  愛知県豊橋市の西部、牟呂に「牟呂大海津公園」という公園がある。毎年三月末から四月初頭にかけて、園内に植えられた数十本のサクラが一斉に見事な花を咲かせるので、地元住民にはごく身近な花見スポットとして親しまれている。  ところで「津」とは港、港町を意味する言葉だ。牟呂大海津公園は三河湾から三キロメートルほども離れた位置にあるが、その名が示す通り、かつては

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【愛知県の皇室伝承】5.「院之子」の地名起源譚:南朝某院皇子「龍岳禅師」の御墓(豊川市)

南朝皇子「龍岳禅師」伝説 愛知県豊川市に「院之子」という地名がある。昭和八(一九三三)年までは「犬之子」だったそうだ。江戸時代後期に幕府の命令で描かれた『天保国絵図』を確認してみれば、そこには確かに「犬之子村」と表記されている。  地名が「犬之子」から「院之子」に変更されたのは、まったく理由のないことではない。この地域は元々「院之子」や「皇之子」などと呼ばれていたそうだ。  伝説によれば、南北朝時代に南朝のとある院(=上皇)の皇子・龍岳禅師が戦乱を避けて従者とともに逃れて

【愛知県の皇室伝承】6.南朝の天皇説も… 東下りの果てに切腹した謎の皇族「弘仁太子」(豊橋市)

謎の皇族「弘仁太子」伝説布金山長慶寺  愛知県豊橋市の南西部、杉山町孝仁というところに、布金山長慶寺という曹洞宗の寺院がある。皇室ゆかりと伝えられており、本堂の壁や賽銭箱には皇室の象徴「菊花紋章」があしらわれている。 「長慶寺」という寺号からは南北朝時代にご在位なさっていた人皇第九十八代・長慶天皇をつい連想してしまうが、寺伝によれば関係があるのはそれより百五十年ほど前の鎌倉時代にご在位なさっていた第八十三代・土御門天皇の皇子――ただし『皇統譜』には記載のない――であるらし

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【愛知県の皇室伝承】7.「矢作川」の地名起源譚:日本武尊の矢作りを助けた蝶々(岡崎市)

矢作川の地名由来伝説 矢作川。愛知県岡崎市を流れるこの川に架かる矢作橋には、日吉丸と小六正勝――後の豊臣秀吉と蜂須賀正勝――がここで初めて出会ったという伝説があり、その橋畔には「出合之像」と題する二人の像が建立されている。  そんな矢作橋の東側から矢作川に臨むと、向こう岸にこんもりとした茂みが見える。地名も何も冠さない八幡宮ならびに矢作神社の鎮守の森である。  矢作神社の境内には、第二次世界大戦のさなかの昭和十八(一九四三)年に「皇紀二六〇〇年」を記念して作られた、そのご

【愛知県の皇室伝承】8.天皇が着座した? 宝樹山万福寺の「天王岩」 皇子漂着伝説も…(豊橋市)

1.宝樹山万福寺の「天王岩」 愛知県豊橋市の小浜町にある宝樹山万福寺。寺伝によれば平安時代後期の寛治五(一〇九一)年に創建されたという古刹である(臨済宗妙心寺派)。  その境内に広がる霊園の片隅に、時期によっては植木の葉に覆われていてあまりよく見えないが「天王岩」という岩がある。長らく竹藪の中にあり、平成十(一九九八)年の境内整備によって今の姿になったそうだから、これでも確実にマシになったほうなのだろう。  この岩は、元々は本堂前の庭にあったが、「いわれを知らない者が無礼

【愛知県の皇室伝承】9.見れば神罰が… 謎の南朝皇族「久丸王」に由来するらしい極秘の神事「寝祭」(田原市)

極秘の神事「寝祭」 毎年、旧正月が迫ってくると、愛知県田原市の神戸地区の辻々で「寝祭」の実施日を知らせるための看板が見られるようになる。  寝祭とは、地元の久丸神社から神戸大宮神明社までの三百メートルほどの間を神職たちの行列が渡り歩くという伝統的な神事である。旧正月を迎えて最初の巳の日を過ぎてから初めの申と酉(※巳の日を待たずに催行するとよくないらしい)の二日間にかけておこなわれる。  さて、この行例は昔から、誰も見てはならないとされてきた。もしもこれを目にしたならば、恐

【愛知県の皇室伝承】10.順徳天皇の皇女「利慶徳善大比丘尼」下向伝説(岡崎市)

築山稲荷大明神・瑞生山総持寺  愛知県岡崎市中町に、瑞生山総持寺という曹洞宗の寺院がある。明治時代初期までは男子禁制の尼寺で「総持尼寺」と称していた。  あくまで伝説の域を出るものではないが、この寺の創建には、皇室が深く関わっていると伝えられている――。  人皇第八四代・順徳天皇(※林自見正森『三河刪補松』によれば第五三代・淳和天皇とも)の御代にあたる、建保二(一二一四)年秋のことである。怪しく光る謎の物体が夜な夜な宮中に飛来し、順徳天皇の皇女の一人が病床に臥せってしまわ

【愛知県の皇室伝承】11.景行天皇の皇子「大我門別命」の御墓? 「行明神社」の古塚(豊川市)

1.「大我門別命」の御墓か? 行明神社の古塚 日本三大稲荷の一つとして挙げられる豊川稲荷で知られる愛知県豊川市。その南部の、豊橋市との境界に位置する行明町に、行明神社というお社が鎮座している。  明治時代中期に刊行された『三河国宝飯郡誌』によれば、江戸時代初期の慶長七(一六〇二)年に津島牛頭天王を勧請したことに始まり、明治五(一八七二)年に素戔嗚神社へと改めたそうだ。現在の社名に改めたのは大正時代のことだという。  さて、その『三河国宝飯郡誌』には次のように書かれている。

【愛知県の皇室伝承】12.「岩屋山」由来記:三億八千万人の東夷が投げてきた巨岩を神通力で砕いた聖徳太子(豊橋市)

はじめに: 東海道の名所「岩屋観音」と伝説の数々「二川の駅を過ぎて少し行くと旅客はその右に不思議な観音像の立っているのを見るであろう。これは名高い窟の観音である」  自然主義文学の代表的作家の一人、田山花袋が『日本一周』(大正三年、博文館)の中に書いた、岩屋観音についての文章である。この観音は江戸時代、街道を行き交う旅人に篤く信仰されたという。  岩屋観音は、天平二(七三〇)年に行基が諸国巡錫の途次、一尺一寸(※約三十三センチメートル)の千手観音像を刻んで岩穴に安置したの

【愛知県の皇室伝承】13.皇后陵「絵女房塚」 夢の中で美女に逢い、姿絵を描かせて似た女を探させた天皇(岡崎市)

はじめに ~豊後の民話における用明天皇~ 人皇第三一代・用明天皇。ご在位はわずかに二年足らずで、長く「廃帝」扱いを受けていた仲恭天皇と弘文天皇が明治三(一八七〇)年に歴代天皇に列せられるまで、ご在位が最も短い天皇であった。それゆえに顕著なご業績といえば仏教の公認くらいで、他には聖徳太子の御父帝としてその名を残すばかりである。  歴代天皇の中でも影が濃いとは畏れ多くもいいがたい用明帝だが、しかし九州地方にはそんな彼が主要な登場人物となる民話が伝わっている。豊後国(※ほぼ現在の

【愛知県の皇室伝承】14.平治の乱の敗者・源義朝とともに逃れてきた重仁親王の御墓? 「王塚之古跡」(西尾市)

「王塚之古跡」関連地被葬者は誰? 皇室の方々がなぜか多々挙げられる「王塚」  愛知県西尾市は吉良町友国王塚に、「王塚之古跡」という記念碑が立っている塚がある。今となっては集団住宅地の片隅に塚の一部が残っているだけだが、かつては綺麗な前方後円墳の形をしていたらしい。  伝承によればこの塚は、「王塚」の名にふさわしく、皇室に連なるどなたかの埋葬地だという。最も一般的に語られる伝説によれば、人皇第七五代・崇徳天皇の第一皇子であらせられ、世が世ならば至尊の宝位をお承ぎになったで