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【愛知県の皇室伝承】10.順徳天皇の皇女「利慶徳善大比丘尼」下向伝説(岡崎市)

築山稲荷大明神・瑞生山総持寺

 愛知県岡崎市中町に、瑞生山総持寺という曹洞宗の寺院がある。明治時代初期までは男子禁制の尼寺で「総持尼寺」と称していた。
 あくまで伝説の域を出るものではないが、この寺の創建には、皇室が深く関わっていると伝えられている――。

人皇八十四代・順徳天皇
(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)

 人皇第八四代・順徳天皇(※林自見正森『三河刪補松』によれば第五三代・淳和天皇とも)の御代にあたる、建保二(一二一四)年秋のことである。怪しく光る謎の物体が夜な夜な宮中に飛来し、順徳天皇の皇女の一人が病床に臥せってしまわれた。
 当時、内裏警護の任に当たっていた本間三郎重光が、勅命を受けて家来の伴隼人とともに弓で射落とした。それを確かめてみると、野狐の骸であった。
 さて、野狐を討ち果たしたというのに、皇女の御病は癒えなかった。陰陽博士の占いによると、野狐の祟りだという。博士の提言により、本間三郎重光の領地であった三河国菅生郷に野狐の骸を送り、全国津々浦々から土を集めて獅子型の山を築き、稲荷社を祀った(=築山稲荷大明神)。すると皇女の御病は癒えた。
 天皇はお喜びになり、稲荷社の側に瑞生山総持尼寺を造営なさった。快癒された皇女は剃髪なさり、これにお入りになった(=「利慶徳善大比丘尼」)。

往古の築山稲荷大明神・総持尼寺

 貞応二(一二二三)年十月二十八日に利慶徳善大比丘尼が入寂すると、その姪で同じく皇族である「善崇大比丘尼」が法統をお継ぎになったが、嘉禎三(一二三七)年七月四日に入寂すると、その後六十年にわたり住持を欠く時代が続き、ほとんど荒れ寺になってしまった――。

(前文破損)菅生郷に送り、六十余州之名山之土を集て獅子形に表し、假山を築き、その頂に稲荷の社を安置し、山下に一寺を建、瑞生山深恩院総持寺と號し、皇女御剃髪被成、御院主とならせ給ふ、二代皇女にて御相続、其後六十年之間無住たいてん候……

瑞生山総持寺縁起(江戸時代初期)
瑞生山総持寺。左側に築山稲荷が見える

この開創伝承は、近世を通じての総持尼寺目代であった本間蔵人家の伝承をもとに創作された部分が多く、初代、二代については信用できないことは明らかである。

『新編岡崎市史 第二巻 中世』(平成元年)一五五頁。

 総持尼寺はその後再興され、移転したり男寺に改めたりと形を変えつつも今日まで「総持寺」として存続してきたわけだが、(伝説が仮に本当だったとしても)もはや皇室との関わりはほとんどない。強いて言えば江戸時代に光格天皇、孝明天皇より綸旨を賜ったことがあるくらいだ。

岡崎天満宮

 岡崎天満宮は、瑞生山総持尼寺の鬼門除けとして勧請かんじょうされたものだと伝えられている神社だ。野狐を射落とすのに用いた本間三郎重光の弓弦を御神体として、本間氏の祖神である道臣命みちのおみのみことを勧請したのが始まりだという。

南口(正面口)
西口

 現存するかは不明だが、少なくとも昭和初期の時点では利慶徳善大比丘尼の墓とされる塚がこの岡崎天満宮の南西にあったようだ。

利慶徳善大比丘尼墓 総持尼寺の開基、順徳院の皇女と傳ふ。傳馬天満宮の西南一町程の所の高地が、卽ちこれなりと云ふ。その上に墓碑あれど、甚だ新し。

『岡崎市史 第八巻』(昭和五年)六〇一頁。
境内の代表的な梅「大しだれ梅」

【参考文献】
・『岡崎市史 第七巻』(昭和四年)
・『岡崎市史 第八巻』(昭和五年)
・『徳川氏関係史蹟名勝遊覧案内』(岡崎観光協会、昭和十一年)
・『新編岡崎市史 第二巻 中世』(平成元年)

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