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【愛知県の皇室伝承】5.「院之子」の地名起源譚:南朝某院皇子「龍岳禅師」の御墓(豊川市)

南朝皇子「龍岳禅師」伝説

 愛知県豊川市に「院之子」という地名がある。昭和八(一九三三)年までは「犬之子」だったそうだ。江戸時代後期に幕府の命令で描かれた『天保国絵図』を確認してみれば、そこには確かに「犬之子村」と表記されている。

『天保国絵図』の「三河国」から
(国立公文書館デジタルアーカイブより)
なお東方の「竹之内村」は以前紹介した竹内王子伝承地

 地名が「犬之子」から「院之子」に変更されたのは、まったく理由のないことではない。この地域は元々「院之子」や「皇之子」などと呼ばれていたそうだ。

 伝説によれば、南北朝時代に南朝のとある院(=上皇)の皇子・龍岳禅師が戦乱を避けて従者とともに逃れてこられたことに由来し、高貴な尊名を憚って「犬之子」としたのだという。「院之子」への改称は、いわば先祖返りというわけである。

 伝説が確かなら、龍岳禅師はこの地で薨去したらしい。『八名郡誌』によると、院之子の東畑に「王之子墳」という石塔が古くからあって、それを明治元年に高畑の共同墓地に移転したとのことである。

下川村大字犬之子東畑に昔から高四尺五寸の石塔があつて王之子墳といふ。某院の御子の墳だと云ひ傳へ、舊村名の犬之子は院之御子だと云つてをる。明治初年高畑の共同墓地へ移いた。

『八名郡誌』一五三四ページ

 現在、院之子町の高畑にある共同墓地といえば一か所しかない。龍岳禅師の御墓とされるものが今もあるのかどうか不明だが、筆者はとりあえず現地に足を運んでみることにした。

高畑墓地

 高畑墓地を訪ねる前に、その付近を散歩中だった男性にお話を伺うと、次のような話が聞けた。

「奥に海軍さんの立派なお墓があって、隣に古いお墓があって、それが皇族のお墓だって昔から言われとる。口で言ってるだけで、紙のアレ(=史料)はないんだけど」

 墓地中央の、最も高さがある墓を見てみれば「故海軍二等機関兵曹 勲七等功六級 荒井操之墓」と書いてあった。地元の方のおっしゃった「海軍さんの立派なお墓」というのはこれに違いない。

海軍軍人・荒井操氏の墓

 そのすぐ左隣に、高畑墓地で最も古そうな五輪塔形式の墓があった。これこそが『八名郡誌』のいう「王之子墳」、つまり伝・南朝皇族「龍岳禅師」御墓であるはずだ。

「王之子墳」

「禅師」というからには僧侶であると思われるので、「龍岳禅師」には子孫がいないはずである。だが、誰が手向けたものか、その墓前には新鮮な花が供えてあった。

 陵墓参考地ではないから宮内庁の看板はないし、有志による看板もない。関連史跡と呼べるものは他に何一つとして存在しない。――それでも、皇子伝承は郷土と切っても切れない関係にあるからか、忘れ去られない程度には地元住民の間で語り継がれており、きちんと供養もされているようだ。

【参考文献】
・『八名郡誌』(愛知県八名郡、一九二六年)
・『豊川史話』第九号(豊川郷土史研究会、二〇〇三年)

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