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【愛知県の皇室伝承】8.天皇が着座した? 宝樹山万福寺の「天王岩」 皇子漂着伝説も…(豊橋市)

1.宝樹山万福寺の「天王岩」

 愛知県豊橋市の小浜町にある宝樹山万福寺。寺伝によれば平安時代後期の寛治五(一〇九一)年に創建されたという古刹である(臨済宗妙心寺派)。

宝樹山万福寺

 その境内に広がる霊園の片隅に、時期によっては植木の葉に覆われていてあまりよく見えないが「天王岩」という岩がある。長らく竹藪の中にあり、平成十(一九九八)年の境内整備によって今の姿になったそうだから、これでも確実にマシになったほうなのだろう。

霊園内の「天王岩」

 この岩は、元々は本堂前の庭にあったが、「いわれを知らない者が無礼なことをする」ために場所を移され、またしめ縄をかけられて大切に扱われるようになったのだという(なお筆者が参詣した時にはしめ縄などはどこにも見当たらなかったが)。

 では「いわれ」とは何なのか。具体的には南朝の後村上天皇長慶天皇、あるいは鎌倉幕府の開祖・源頼朝が腰をお掛けになった、あるいは吉田神社が勧請した牛頭天王がお休みになったという伝説である。

天王岩についての解説

 後村上天皇といえば、伊勢から奥州への道中で嵐に遭い、三河湾に浮かぶ篠島に流れ着いたという伝説がある。その時、大勢の廷臣が亡くなり、一部はこの地域に流れ着いたそうで、後村上天皇説はこれに由来するものと考えられている。長慶天皇説の由来についてははっきりとはわからないらしい。

 皇室とは関係ないので、源頼朝と吉田天王に関しては詳述しない。宝樹山万福寺の公式ウェブサイトに記載があるから、興味がある方はそちらを参照してほしい(萬福寺の民話)。

2.錦葉きんよう山観音寺と「皇子」漂着伝説

 宝樹山万福寺の「天王岩」にはこれ以上の情報はないが、それではあまりにも内容が薄すぎるので、周辺の皇室伝説をもう一つ併せて記す。

 往古、この地域に錦葉山観音寺という寺院があった。南北朝時代、吉野朝に与して朝敵降伏の祈祷などをしていたが、北朝方の攻撃に遭って潰されてしまったらしい。

叡山の徒と同調して南朝のために朝敵降伏を祈願し、法雲寺の僧と共に大護摩を修行したため関東軍の憎む処となり、伽藍破却の難に遭った。

『豊橋寺院誌』

 さて、『橋良村舊事蹟草稿』という史料によれば、この観音寺にはとある皇子の御墓があったそうだ。南北朝時代になってすぐの延元三(一三三八)年、一人の皇子が流れ着いたが看病の甲斐なく薨去されたので境内に葬ったということである。

 観音寺が消滅して久しい今となっては、その皇子の御墓がどうなったのかわからないし具体的な系図も知る術はないが、本当に金枝玉葉の御身だったとすれば、当時南朝に与していた寺が弔ったわけだから南朝の皇子だったのであろうか。

 ほとんどはただの作り話にすぎないとは思うが、それにしても渥美半島の辺りは皇室の方々が流れ着くという伝説がやたらと多く残る土地柄である。探せばまだまだ他にもあるのだろうが、いちど以下に列挙しておく。

・元明天皇の皇子だという「開元王」
・文徳天皇の皇子だという「武兒親王」
・土御門天皇の皇子だという「弘仁太子」
・篠島に漂着されたという後村上天皇
・南朝の皇子(後醍醐天皇の子孫)だという「久丸王」
・後小松天皇の皇女だという「松代姫」

【参考文献】
・豊橋寺院誌編纂委員会『豊橋寺院誌』(豊橋仏教会、一九五九年)
・中野校区総代会・中野校区史編集委員会『校区のあゆみ34 中野:豊橋市制施行100周年記念』(豊橋市総代会、二〇〇六年)

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