【木彫りのクマ】って民藝じゃないですよ!!!!!
小代焼中平窯の西川です(^^)
今日は多くの日本人がカン違いしている問題(?)について書いていきます。
北海道の有名な工芸品で
【鮭を咥えた木彫りのクマ】ってあるじゃないですか?
某テレビ番組でも北海道の民芸品として紹介されていましたが、
【木彫りのクマ】は本当の意味での【柳氏の定義した民藝】ではなく、
民藝運動とは全く無関係に始まった工芸品なんです。
むしろ、
民藝運動の父・柳宗悦氏は批判的な目で木彫りのクマを見ていました。
アイヌ文化とヒグマ
北海道のアイヌ文化において具象的な動物彫刻を行う伝統は、基本的にはありません。
アイヌ文化では「リアルな表現で作られた物には魂が宿り、悪さをする。」と考えられていたからです。
ところで皆さんゴールデンカムイという大ヒット漫画・アニメってご覧になりました?
北海道が舞台なのですが、読んでいくとアイヌ文化やアイヌ民族に詳しくなりますのでおススメです 笑
(私は途中までしか見ていませんが…(・・;))
ゴールデンカムイの中では頻繁にアイヌの集落(コタン)や北海道特有の動植物とアイヌ民族の関係が描写されています。
そして、その中にはリアルに表現された動物彫刻は登場しません。
アイヌ民族は様々な事柄を神(カムイ)として恐れ、敬い、感謝していました。
その中でもヒグマは特別な存在で、山の神(キムンカムイ)として崇めていたのです。
山の神(キムンカムイ)であるヒグマの姿を写実的に表すなど、アイヌ文化の常識からは考えられません。
木彫りのクマの由来
木彫りのクマは徳川義親氏が、1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけての欧州旅行の際に、スイスにて木彫りのクマをお土産として購入したことがきっかけとされています。
農場で働く農民たちや付近のアイヌに、冬期の収入源としてクマの木彫りを制作するよう勧めたそうです。
また、旭川市では1926年(昭和元年)に松井梅太郎氏が木彫りのクマを作ったことをきっかけに、木彫りのクマの制作が始まりました。
当時の旭川には第七師団があり、本州から来た軍人家族などへの土産ものとして人気となったと言います。
農民美術運動
貧しい農家の生活を安定させるため、そして農閑期を有効に生かすことによって農民の生活に生き甲斐と誇りを持たせるために計画されたのが、山本鼎氏の農民芸術運動です。
1919年(大正8年)に農民美術練習所が開所し、作品は三越の展示即場会へ出品され、好評を博したそうです。
1923年(大正12年)には日本農民美術研究所が新築され、活動が本格化します。
また、農民美術生産組合が組織されるなど、その運動は成果をあげながら、昭和の初期には長野県各地のほかに、東京、岐阜、京都、千葉、神奈川、埼玉、福岡、熊本、鹿児島などでも作品が制作されるようになりました。
現在も全国各地でお土産品や郷土玩具が作られていますが、農民美術運動に影響を受けた事例も多く存在します。
徳川義親氏のスイス旅行がきっかけとなり北海道に広まった木彫りのクマは、この農民美術運動とアイヌ工芸とが結びついて生まれた混合文化(軽い言葉を使うならチャンポン文化)といえましょう。
柳宗悦氏の目線
柳宗悦氏は琉球文化やアイヌ文化を尊重していました。
今となっては【木彫りのクマ】は100年程の歴史がありますが、
当時の柳氏の目線となると、【木彫りのクマ】はつい最近になって始まったばかりの、真のアイヌ文化を無視した工芸品・お土産品です。
柳氏は、農民美術運動が西洋文化を模倣しており、日本の伝統工芸を顧みていないことにかなり批判的でした。
現代の『民芸店』に、『木彫りのクマ』をはじめとした、
農民美術運動から影響を受けた用途を持たないお土産品や玩具が溢れかえっている様子を
天国にいる民藝運動の父・柳宗悦氏はどんな思いで眺めているのでしょうね…?
ユルくなることについて
私は原理の拡大解釈や悪意のない誤解は、理論や思想が広がる上で最も重要な要素だと思っており、それ自体はごくごく自然な現象だと認識しています。
なんか難しく書いちゃいましたが、
まぁ端的に言いますと“ユルくなる”ってことです 笑
それについての善悪を言いたい気持ちはこれっぽっちもありませんので悪しからず(^^;
例えばキリスト教が広がる過程でクリスマス行事が誕生したり、競技人口の多い武道が大木の枝のように流派を増やすことと同じことであると思っています。
私の身近な話題で言いますと、私は幼少期に少林寺拳法という武道を習っておりまして、有段者(黒帯)です。
父も半世紀以上昔のことですが 同じく少林寺拳法を習い、開祖・宗道臣先生から直接教えを受けたこともあります。
始まった当初の少林寺拳法はそれなりにトガっていて、宗道臣先生は
「喧嘩の仕方を教えてやるから習いに来い!」
と近所の不良少年達に声をかけて門下生を増やしていきました。
父が習っていた約50年前は、剣道の胴(硬い防具)を素手で突いたり蹴ったりして鍛えていたとのこと。
そんなストロングスタイルだった少林寺拳法ですが、時代と共に武道と言う側面を残しつつもかなり優しいものになりまして、令和の現代ではなんと
エクササイズにも取り組んでいるんです…。
そんな中、実戦派・武闘派であった人々は白蓮空手(白蓮会館)をおこして、少林寺拳法から離れ、独立していきました。
白蓮空手の選手達はフルコンタクト空手という防具無し&グローブ無しで殴り合う激しいルールで戦っています。
余談が長くなりすみません…笑
まぁつまり、何処の世界にもユルくなったり枝分かれしたりすることは、あちらこちらで当たり前に起きていることだと言いたかったんです。
じゃあ、今日はこの辺で~(^^)
2024年5月14日(火) 西川智成
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