身の上話①

毒親/毒祖父母育ち、慢性うつ持ち、発達障害持ちが若くして武術の高段者になり教え子に認められるようになった話

コロナ情勢の中、何とか自分の道を切り開くために、身の上をお話しすることはどうしても避けられないなと思いました。

タイトル通りの身の上です。

社会人になってうつが重症化するまで、母は何かにつけてヒステリーをぶつけてきたり、たまに憧れの人を語ると(息子)よりも頑張ってるからという言い様で夢を打ち砕くのが上手い人でした。

父親は金銭面以外は息子の身の上を歯牙にもかけず、目の前で息子が何かをしてると「へたくそ」としか言わず、何かを言おうものなら「自分のことしか言わない」と説教し、祖母の編んだセーターを着ると「おしゃれじゃない」とこきおろし、精神が参って勉強に身が入らない状況や仕事ができない状況で息子を怒鳴りつけ、息子の上司の前で自慢話ばかりを繰り広げる人でした。今もなお、2人きりになったとき、こちらが何か話を振ると全部否定で返してきます。

父方の祖父母は可愛がってくれたとは思います。特にお金は割と際限なくかけてくれました。ただ子供の時、本当につらくて勉強が身に入らないことや、しんどくてガス抜きをしようものなら問答無用であんな父母の肩を持ち、孫の言うことにはろくに耳を貸さず、ガス抜きの手段を取り上げたり自分の言い分を一方的に押し付けてくる人でした。祖父はそこそこ前に亡くなりましたが、祖母は自分といると凄く構ってはくれますがこちらの気持ちお構いなしに自分の都合を押し付けてきます。

多分、一族の上世代で純粋に色目なしに可愛がってくれたのは母方の祖父母と叔母たちだけ(母親は男兄弟無しの長女)で、今心許してるのはそれに父方の叔母が加わる格好です。

母が曰く、小さいころから発達障害傾向かなりあったみたいです。

そんな状況で結構社会人1社目ぐらいまで、無意識に家族の言動を真似してしまうことって多かったですね。発達障害をからかわれることが多いうえにそんな親祖父母世代の言動真似してると今思えば周囲とぶつかって当たり前ですね。

高校ぐらいまで成績だけは帳尻合わせてましたが(体育除く)、そうですね、小学校高学年ぐらいからうつの影響顕著に出始めました。

今だから理解できますが、学校や塾で虐められるストレスと家族が話聞いてくれないストレスでどんどん頭の考える領域って食われていくんですよ。例えば、スマホやパソコンって、一度に大容量の通信させたり、同時に沢山アプリ起動したりすると必ずと言っていいほど動作が遅くなったりフリーズしたりするわけじゃないですか。人間の頭脳にそれ起こっちゃうんです。

それで考える領域が喰われると勉強や宿題なんてそれどころじゃなくなるわけです。で、そんな状況でストレス解消の手段(自分の場合TVゲームやプラモデル)が元凶と見なされて取り上げられるわけです。

そんな精いっぱいな頭脳が授業中にどんな挙動をするかというと、ズバリ、居眠り(失神に近いかも)です。限界超えて思考回路止まっちゃうんですね。学生時分はまだよかったです。

社会人1社目でのことです。

そんな状態で大学を2留で卒業、敢えてピンポイントで狙った某乗り物メーカー設計部門への就職に成功しました。

でも、そこの環境も壮絶でした。大学で習った知識や概念は多少ありながら設計の仕事なんか当然したことないわけですから、上司からの指示内容に対して分からないことって当たり前のように発生してくるわけです。早くこなすのに、支障が無ければ分からないところを飛ばして後で質問して埋め合わせたりそこが分からなければ進められないところは止まったところの時点でSOS出さなきゃどうにもならないです。でも、質問に行ったとき帰ってきた答えは衝撃でした。「ここが分からないんで飛ばしてるんですが(そこだけ少しだけ教えてもらって仕上げたいを遮って)」→「そんな状態で持ってくんな。」とキレられました。教えてもらえたらすぐ終わることを教えてくれないのが当たり前でした。だから、必然的に抱えて調べて悩みます。ヘボの考え休むに似たりなので時間ばかり浪費します。そうするとまた「時間かけ過ぎ」「仕事してない」「やる気がないとしか思えない」と罵声のオンパレードです。結局、入社当時の希望に溢れた状態から頭脳の稼働は限界を大きく超えるわけですからメンタルは崩壊に向かうしかないわけです。

気づいたら仕事中の情緒不安定は当たり前、思考回路のフリーズ=居眠りは当たり前、末期の時は絶対休んじゃいけないタイミングで3日続けて社宅内で携帯電話を手に取ることすらできないまでになってました。

結局3年目途中から半年休職、その後復帰しましたがあまり変わらない待遇ぶりに半年で持たなくなり再休職でした。病院は会社の保健師からいいところを紹介されて回復に向かい、思考の癖も変化を始めました。

復職に向けては限界一杯頑張りました。それでも気力が上向かず寝込むことが多かったり、あるいは会社から毎日の生活パターンを付けるという宿題を頑張っても「これが続いたら考えよう」と梯子を外されて気力が抜けたりと苦戦ばかりで、結局就社から5年経過、休職期間満了で退職に至りました。

その後休養を経て就職した地元のメーカー、分からないことを質問すると必ずすぐ教えてくれるか客先に聞いてみんといけんから待てという指示がすぐに返ってくるので1社目のアレって何だったんだろうと愕然としました。

前置きがあまりに長くなりましたが、そんな自分の数少ない居場所が某武術の道場でした。

大学時代も下級生には言動が基で距離を置かれながら、外部の指導者にはなぜか可愛がられることが多く、大学3年(1回目)の部活引退間際に学生最高峰の4段に昇進していました。

可愛がってくれる人が達人だったこともあり、1社目(地元を離れて新潟県)行ってた時の道場では大人の人たちからすごく上手だと言われてました。

大人メインの指導は自分の持ってるものだけでよかったですが、子供の指導はそこでは苦戦しました。

その事情というのは、教えてもらう分には、出稽古するといくらでも教えてもらい放題でよかったのですが、自分が指導するとなると、部活時代にあれはダメこれはダメが多すぎて、いざ自由にやっていいよという場面になると途端に訳が分からなくなるというそのパターンでした。

でも、体当たりで対応する中で周りの大人や師範が取り組み方を否定をせずアドバイスやフォローをくれたお陰で、かなり自由に色々教えて分からせられる技量を得ることができました。

そんな中、師範の勧めで休職中ながら当時28歳にして5段を取得しました(その後1年で退職・地元へ戻ります)。

ということで、眠くなったので身の上話その1を終わります。

続きはまた明日書きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?