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嫉妬はShit? (糞?)

不覚にも昨今流行中の風邪におかされ、とてもではないけど執筆の余裕がなく投稿がだいぶ遅くなってしまったにゃ。皆さん、こんにちは、おトヨだにゃ。今回のテーマは「嫉妬」。「嫉妬」は生活で目にしたり耳にしたりと身近な事象なので甘くみていたのにゃけど、対峙すると難しいテーマだと感じてるにゃ。難しいというのは、嫉妬はどういう時に起こるのかを経験則から振り返った時にいろいろなパターンがありそうで、その「度合い」も考慮すると、時に自然な感情であり、「嫉妬」という言葉から紐付けられるネガティブな印象には直結しない場合もあるからだにゃ。

「嫉妬」をChatGPT(アプリもリリースされてるので使いやすいにゃ)で検索するとすらすらと「教え」的な文脈でどういう存在か、そしてどう対処すべきかを回答してくれるにゃ:
仏教では、いわゆる「煩悩」と呼ばれる心の”障害”の1つで、”苦しみの原因”であり、ここからの解放が修行の目的の1つ。そして、「嫉妬」は無知や執着心から生じ、自己中心的な考えや欲望の強さにより誘引される。その克服のためには、他人との比較を避け、自己を客観的に見つめること、他人の幸福や成功を喜ぶ心を持つことが重要となっている。そして、共感や慈悲の心を育むことが解決策の1つとなっている。これはあくまで見解の1つである。
なるほど、「嫉妬」は心の”障害”で、”苦しみの原因”なのだにゃ。おトヨは信長公という「憧れ」が道を切り開いてくれたにゃぁ(以下、「にゃ」を省略するにゃ)。

自分なりに整理をすると、「嫉妬」には登場人物がいます。
まず最初に、「自分」。そして、「嫉妬」の対象となる「標的」。時に、「自分」と「標的」双方に繋がり、「嫉妬」を誘引するひと、ここでは「触媒」と呼びましょう。「嫉妬」の多くは:

①「自分」の中で「標的」がライバルもしくは「自分」より格下だと思っている相手であり、「標的」の取り組みがうまくいっていると思った時

②「自分」の中で大切であったり格上だと思っている「触媒」が、「自分」より「標的」を評価していると思った時

のどちらかに分類されるのではないかと思います。「触媒」と「標的」のケースでは、例えば、「触媒」が親、「標的」が兄弟姉妹の場合もあれば、「触媒」が教授、「標的」が同じゼミの学生の場合などなどさまざまでしょう。そして、「標的」に対する「嫉妬」ではなく(もしくは「嫉妬」も共存しながら)、「触媒」に対する「怒り」といった形で表出することもあるでしょう。

ここで、①の中でも、特に、「標的」が「自分」の意識の中で”ライバル”である場合に、「標的」の取り組みがうまくいってることに対して、「嫉妬」するのは、ある種、純粋に「悔しい」という感情に近く、とても自然です。ただ、のぶのぶが例に出したサリエリとモーツアルトの事例では、映画「アマデウス」によれば、モーツアルトに危害が及ぶことになります。つまり、「嫉妬」は自然な感情でしたが、それが「なにくそ」といった正のエネエルギーとして働く場合と、アマデウスのように負のエネルギーとして働く場合があり、後者はよろしくない、ということなるのだろうと。「負」のエネルギーというのは「陰湿」であり、白日のもとには発揮されない、ここが重要な視点なのではと感じています。陰で相手を貶めようとするから誤った行動となってしまうのだと思います。

史上最高の音楽映画として評価された「アマデウス」(1984年)

さて、次に①の格下「標的」と②についても、アマデウスの例と同じような教訓なのだと認識しています。どういうケースであれ、それが「くやしい」という感情を生み出し、「自分」の取り組みへとフィードバックされるような正の働きをする限りはその感情自体なにも問題ないのではと思います。ただ、どのようなケースでも、必ずしもそうやって感情をうまくコントロールできるとは限らず、そして、特段その感情を消すような解決策に取り組むこともまたなかなかなされず、結果、攻撃性をともなった関係性の破壊、ひいては「自分」自身すら周囲から貶めるような結果へと繋がっていくことがよく起こることなので、上述の仏教の「教え」となっているのだと思います。

加えて、①と②では、あえて「思う」といった言葉を使用し、多用もしています。例えば①の「自分」より「標的」を格下だと”思っている”、「標的」の取り組みがうまくいっていると”思った”ということが該当します。②でも同様です。おそらく「思っている」だけの可能性が高いのではと思います。「自分」がどこにいて、「標的」がどこにいるのか、そこには「自分」が認識する情報や思い込みによって判断されているだけなのだと思います。そして、上と下というのもどういう軸で判断されたものなのでしょうか。この判断について絶対的に完全なる事実だと言えるほどぼくたちは常に正しいのでしょうか。これが、上述の「他人との比較を避け、自己を客観的に見つめること」に繋がります。いやいや、あの人の演奏は私の演奏より下手くそなのに!という方もいらっしゃるでしょう。もしかしたら本当にその判断は客観的にも正しいかもしれないし、つまりは理不尽な世の中の犠牲者なのかもしれません。しかしながら、だからといって「標的」を”陰”でねちねち貶めるようなやり方は違うでしょう。演奏で勝負するならしかるべき場所で堂々と勝負する。「触媒」の判断があやしいなら、そうではない判断が加わった場所で勝負する。つまりは、「オープンに」という言葉に尽きるのかなぁと感じます。

「嫉妬」と似たような「思い込み」がベースとなっているけど、ポジティブな感情に「憧れ」といったものがあります。おトヨにとっての信長公や、アイドルやカリスマ経営者などでしょうか。この感情も、「思い」を経由していて、本当に客観視できているか疑わしいものもあるでしょう。しかし、心の”障害”や”苦しみの原因”の仲間入りをしていないのは、そもそもポジティブな感情であり、共感すら育むものだからです。陽の光のもとで「嫉妬」もじめじめしたShit (糞)ではなく、天日干しにしてぽろぽろころころにしてしまえば良いのだと感じています。

※カバー画像は、GLAYの「嫉妬」を収録したアルバムONE LOVEのカバー画像です。Wikipediaによると、本アルバム発売時のラジオにおいてTAKUROは「この曲は『口唇』『誘惑』に続く“漢字2文字シリーズ”としてシングル候補に挙げたが、メンバーから総ボツを食らった」と話していたらしいにゃ。

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