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コンサートのあとで 〜 幸福のバタフライ・エフェクト

「ああ、私、興奮しちゃったわ」

 隣にいた女性が、ため息まじりに囁いた。暗がりのなかで、潤んだ彼女の瞳が輝くのが見えた。

 いや、艶っぽい話を書こうとしているのではない。

 先日、オーケストラ・コンサートを聴きに行ったときのことだ。すべての演目が終了し、指揮者への熱狂的なソロ・カーテンコールも終わったその瞬間、隣の席にいた見知らぬ女性が、そう言ったのだ。

 独り言ではなかった。声ははっきり聞き取れたし、横を向くと声の主とまっすぐに目が合ったから、私に話しかけてきたのは間違いない。

 突然のことで一瞬たじろいだが、私はすぐに「ほんとに、良かったですねえ」と答えた。見知らぬ方から話かけられ、にこやかに返事できたのは、コミュニケーション能力が欠如する私には珍しい。何年に一度かというほどの名演を繰り広げた英国の音楽家たちに、手が痛くなるほど拍手をしたあとの昂揚感がそうさせたに違いない。心の底から出た言葉だった。

 その後、女性とは一言二言、話をしただけ。互いの素性を明らかにするでもなく、ましてや、お茶に誘うでもなく、それぞれの帰路に着いた。話しかけてみたが、つまらない人だと思われたのかもしれないが、まあいい。本当のことだ。

 ホールを出て最寄駅への道をゆっくり歩きながら、ついさっきまでホールに鳴り響いていた音楽の美しさと、一期一会、ひとときの「隣人」と交わした一言の余韻を味わっていた。

 私が聴いた音楽は、確かに誰かに伝えずにはいられないほどに、心を昂揚させるものだった。一方で、どれほど深い感銘を受けたかを表現するのには、多くの言葉を必要とはしない。ほとんど語らないことこそが、最高の称賛となる、そんな曲であり、演奏だった。

 得られた聴体験のかけがえなさを思った。演奏会の後半で、エルガーやディーリアスの音楽を聴いていたときの心の震えがよみがえり、幸福感で胸がいっぱいになった。

 そして、駅への道すがら、こんなことを考えた。

 同じホールでは、これからも毎日のように演奏会が開かれ、人の心を打つ音楽が鳴り響くことだろう。そのたびごとに、私が体験したのと同じように、客席と舞台であたたかな空気が作られ、共有されていくはずだ。

 その幸福感は、会場にいた人たちの次の行動に、何らかの変化をもたらすかもしれない。一人一人の小さな行動変容は、どんどん広がって他者に影響を与え、やがて大きなうねりを生んでいくこともあるだろう。人間の「文化」や「歴史」には、そんな微小な変化の積み重なりから作られていく側面もあるはずだ。 

 よく言われるように、音楽に世界を変える力はない。しかし、コンサート・ホールで生まれたささやかな幸せが、「蝶の羽ばたき」として変化の胎動となり、やがて人を動かし、社会を動かし、歴史を変えるきっかけとなることも、気がつかないだけで、存外あるのではないだろうか。

 してみれば、コンサートとは、そんな幸福のバタフライ・エフェクトを生み出す場なのかもしれない。

 そんな安いコピーもどきを思いついて、私もまたちょっと興奮した。でも、日曜の夕暮れ、ごった返す街の雑踏にあって、それを伝える人などどこにもいない。第一、そんなことをしたら、ただの変人としか思われないだろう。

 危うく挙動不審のおじさんになるのを思い止まったところで、ちょうど最寄り駅に着いた。

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