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阿含経講義・五根法 念根1 雑阿含経「分別経」

五根法の修行法のひとつとして語られる念根は、四念処法(四念処観)+念力を強くする修行法である、と阿含宗開祖は解説しています。

原文

【書き下し文】
何等をか念根と為す。若し比丘よ、内身の身観に住し、慇懃に方便し正念正智もて世間の貪憂を調伏し、外身・内外身の受・心・法の法観念に住するも亦是の如く説く。是れを念根と名付く。

【現代語訳】
念根とはなんでしょうか?
比丘たちよ、内身・外身・内外身の身観に住し、法にかなった正しい方法による正念と正智によって世間の貪りと憂いを調伏し、受観と心観、また法観においても同様に観ずるのが念根です。

【解説】
念根では、四念処法(四念処観・四念住)を行います。四念処法はくうを悟るための4つの深い瞑想法から成り立っています。その4つの瞑想法とは、身観・受観・心観・法観です。
四念処法の4つの瞑想法は、ひとつひとつが独立しているのではありません。まず身体を不浄と見て、そこから進んで受観に移る。ここで感受作用(受)は苦である、と見るわけです。それから心観に進む。心観は無常観ですから、これによって、心は常に変化してとりとめがないことを悟ります。心は常住のものではないことを体得するわけです。そしてさらに法観という「無我(非我)の観」に入り、あらゆるものはくうである、という境地に到達するわけです。その観想を内身・外身・内外身のそれぞれにおいて、深く観じていきます。

雑阿含経「分別品」
仏陀の真実の教えを説く 阿含経講義【上】P.345

ちょっとボーナスして引用しました。もっと読みたい方は是非書籍を購入して読んでいただければと思います。
そして、ここからは、書籍の内容を超えて、ボクが理解しているところの内容を、ボクの言葉で説明していきます。

まとめ

四念処や念根は、学者さん的な抽象的な言葉で理解しようとすると、何を言っているのか理解できないまま終わる。

でも、仏教の根本思想の縁起論に立ち返り、自分(内身)と他者(外身)との縁が発生する因縁果報のメカニズムを理解して、その縁起を変えることで運命を良くしていくことが可能なのだという本質に気づいてしまえば、難しいことなんて何も無い。

そして、その考えにもとづいて実践すれば、念根の本当の目的である「貪憂とんうの調伏」ができる。
 ※その2を参照

人間の縁を変えて、「貪憂とんうの調伏」をするには、本当の力をもった神仏の力が必要である。そして神仏を信じる心を持たない人は、念根の実践条件を満たさない。
 ※その2を参照

四念処法は瞑想だけとは限らない

何をする瞑想なのか?

四念処法を瞑想法という範囲で絞ってしまうと、普通の人は理解不能というより実践不可能になります。
経典の文言・字句解釈に注力し、思想・哲学・倫理・道徳の範囲内で仏教を理解しようとしている学者系の人達には理解できるはずがない世界になるから深く突っ込んで語れない。
仏教の根本思想である縁起論、輪廻転生の理論、四沙門果の流れをちゃんと理解した上で四念処法の瞑想とは何か?念根とは何か?と考えてみれば、これをガチで深く瞑想しようとするならば、自分や他人の前世を霊視できるような能力を持つことが必要で、その霊視能力にもとづいて、さらに深くカルマの法則、縁起論等々の実相を如実に体験するかのごとく観察し理解するための瞑想方法なのだという推測ができる。人間の魂がどこからきてこの世で生を得て、どのように生きたらどこへ行ってしまうのか?を霊視能力で実際に見て、この悪循環を断ち切るための仏法の力があることを、深い瞑想状態、霊視をしている状態で改めて理解する。
そして、その実相を理解するまでならば四念処法の瞑想。理解した事柄を根拠として、神仏の力を借りて人間の悪因悪業を消滅させるという力を行使する、ここまでできれば念根の瞑想の実践となる。
ここまで洞察できなければ、念根、四念処の瞑想を理解したことにならないです。
そんなこと仏陀は述べていないし阿含経のどこにも書いてないんですけど(笑)という人もいると思う。でもそれは冒頭に述べたように、縁起論、輪廻転生の理論、四沙門果といった重要な事柄を理解していないから、わからないだけだというのがボクの返答です。これらが脳内で正しく紐づいていれば、基本的な原理原則は皆同じで、仏陀は同じことを言葉を変えて説明してるということがわかるようになります。

この修行は普通の人にはできないのか?

四念処の瞑想に自分や他人の前世を見通すような高い霊視能力が必要だと言うならば、そんな能力を持たない普通の人は、念根も四念処瞑想も実践できないのでは?と思うかもしれない。

ところが、そうではない。
四念処観で理解すべき事、学ぶべき事を抽象的な言葉のみで理解するのではなく、現実世界の具体的事例を踏まえて理解することができれば、四念処観は普通の人でも何の問題なく実践可能です。

なぜならば、四念処観は、瞑想というよりは、思索・思惟が中心となるからです。このことについて解説していきます。

繰り返しになりますが、ここでボクが説明している内容は、阿含宗開祖や教団としての説明ではなくて、ボクの論です。

自分が今まで色々やってきたなかで、つまり、こういうことじゃね?という自分自身で理解している事柄です。
でも、大きく外れた事は述べていないという自信があります。

四念処を考える

何等をか念根と為す。若し比丘よ、内身の身観に住し、慇懃に方便し正念正智もて世間の貪憂を調伏し、外身・内外身の受・心・法の法観念に住するも亦是の如く説く。是れを念根と名付く。

雑阿含経 分別経

内身、外身、内外身とは

内身・外身・内外身という三種類の謎の言葉が出てきます。
学者さんたちの字句解釈でどのように説明しているのか、ボクは調べていないから、学者さんたちの説明とは全く違うことを、書いているかもしれない。ただ、ここで行う修行法の目的、趣旨、阿含経でブッダが伝えてきた縁起論の基本原則を考え合わせてみれば、遠く的はずれな事を述べているとは思えないので、読んでいただければと思います。

内身とは、自分自身のことです。あまり深く考えることなく、自分のことと認識する。

内外身とは、自分の中の他人、つまり深い心の奥底にいる自分の意志の力では制御ができない深層意識の自分、或いはトラウマのことです。
わかっちゃいるけどやめられないという心の奥底からの突き上げ、好きになってはいけないと理性ではわかっているのに禁断の相手を好きになってしまう制御不能な心、そういったものを、ここでは内外身として認識します。

外身は範囲が広くて、自分以外のあらゆる事柄です。
人として捉えるならば、自分の家族、職場の同僚、実際に会ったことは無いけれどいくつもの死線を一緒に乗り越えてきたネトゲの仲間たちや、ライブ会場で知り合って仲良くなった推しのファンクラブ仲間だって縁があって知り合った人達で、こういう縁ある人達を全て外身として捉えることができます。

場所という観点で考えれば、自分自身が住んでいる家、地域、職場の場所。なぜかその場所に縁があって住んでいて、働いている。これらも立派に外身の範囲に入る。
もちろん国家も範囲に入ります。我々は日本人として日本に生まれてきました。国民が飢餓状態にあるのにミサイルを連発するような、政治も経済も人民教育も何もかも失敗している東アジアのごみ溜めのような国家に生まれるのではなくて、今の時代の日本に生まれることができた。これは日本という国、国土に何らかの深い縁があるからで、それは自身と縁のある重要な外身としてみなすべきでしょう。

念根の目的は【世間の貪憂を調伏】すること

書き下し文を改めて、よく見直してみてください。
「慇懃に方便し正念正智もて世間の貪憂を調伏し」とあります。
この「世間の貪憂とんうを調伏し」という部分は述語です。

つまり五根法の念根の目的は【世間の貪憂とんうを調伏】することであって、その手段として四念処の瞑想が語られていることになります。
ここは重要なポイントなので、しっかり認識して欲しいです。
四念処法の瞑想は目的ではなくて手段です。

また調伏する対象は「自分自身」の貪憂とんうではなく、【世間】の貪憂とんうです。対象範囲が広いことに着目する必要があります。

この世間については念根2のnoteで説明します。

思索、思惟をしてみましょう

念根では、四念処法(四念処観・四念住)を行います。四念処法はくうを悟るための4つの深い瞑想法から成り立っています。その4つの瞑想法とは、身観・受観・心観・法観です。

雑阿含経「分別品」
仏陀の真実の教えを説く 阿含経講義【上】P.347

四念処法が瞑想用の項目として挙げている身観は、身体は不浄なり、我が身は不浄なりというイメージからスタートして深く瞑想していくという阿含宗開祖の解説を冒頭に引用して紹介いたしました。たぶん学者系の方たちも似たようなことを書いていると思う。そして受観と心観は、まとめて大雑把に言ってしまえば心を何とかしようとする修行法のことです。

「我が身は不浄なり」とは、お風呂に入っていないから臭くて汚いという意味ではないです。大丈夫ですよね?
人間の体と心(内身と内外身)、そして自身の置かれた人間関係や外部環境(外身とそれに紐づく個々の内身と内外身)、そういった諸々の事象は、悪因悪業、カルマによって魂や深層意識のレベルで不浄な状態にあり、カルマ由来の悪縁で複雑怪奇に絡み合っていて、まさに「苦」の状態にあるのだ(身観・受観・心観)という概要を理解することが第一歩です。

この置き換え、わかるでしょうか?

もしかしたら「自分は苦である!不浄である!」と脳内絶叫しながら瞑想するのが四念処の瞑想だと説明してる人がいるかもしれない。
もし、そういう説明をしている人の文章を見かけたら、もうその人の文章は読まなくてよいです。
このような瞑想方法の説明は、例えば仕事でトラブルが発生した時に、トラブルの原因究明も対策も再発防止も何もしないで、「トラブルが発生した!大変だ!やばい!」と大声で叫びまわれ!と指導しているのと同じです。こんな人は、何の役にも立たないし、邪魔ですよね。

やるべきことは「苦」や「不浄」の原因究明と問題解決の対処方法を思索・思惟し、やるべき対処法がわかったならば、それを実行することです。

ということで、次のステップとして、この概要を自分自身の現状、現実に落とし込んで考えてみましょう。

例えば・・・

・今、自分は仕事がうまくいっておらず、肉体的にも精神的にも追い詰められている。
これを四念処観的な言葉に置き換えれば、今、自分は仕事がうまくいっておらず、内身を身観・受観・心観して考えると「苦」である。

・具体的にどのような仕事の状況かと言えば、ブラック企業に勤めていて、ブラック上司やブラック顧客に無理難題を突きつけられているからだ。
これを四念処観的な言葉に置き換えれば、ブラックな職場や顧客は外身で、身観・受観・心観して考えると、彼らも不浄の存在そのものである。不浄な自分が不浄な人達に囲まれて無理難題が山積みで「苦」なのだ。

・そのような状況にあって、もう、うつ病になりそう。
これを四念処観的な言葉に置き換えれば、不浄全開の内外身を制御できず、「苦」の状態そのものです。

仏教は抽象的な概念や理屈を理解したつもりになって終わりにするのではなくて、ちゃんと自分自身や家族等々の現在の状況に落とし込んで考えなければ意味がないです。
職業がエンジニアの人ならば、抽象的な概念、設計を現実に落とし込んでソフトウェアシステムや、建築物、設備等を組み上げる仕事をしているはずです。そういう職業経験があるならば、仏法の理論を自分自身の現実に当てはめて運用可能かどうかを考えてみることを求められているのだな、とわかるはずです。

そして、このように現実に落とし込んで一生懸命に考えてみることが、実は具体的な四念処観の実践そのものであると気づいてほしいです。これらは別に瞑想をしなくてもできますよね?

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