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分断を超えるため、複数のコミュニティに参加する-「私とは何か 『個人』から『分人』へ」を読んで

 コルクの佐渡島さんがたびたび紹介されていることで気になった「分人」という言葉。
 この「分人主義」が詳しく書かれている書籍は、小説家 平野啓一郎さんが2012年に出版された「私とは何か 『個人』から『分人』へ」ということで、手に取りました。

 社会人4年目であった今から10年近く前、仕事で平野さんにご連絡をする機会に恵まれ、当時最新刊であった「かたちだけの愛」を読み終えてから、かなり緊張してドキドキしながらご連絡した思い出のある、勝手に一方的な思いのある小説家さんです。

「顔」は一つ、だけど「分人」は対人関係ごとに存在する

 「個人(individual)」という言葉の語源は、「(もうこれ以上)分けられない」という意味だけれど、たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。というまえがきから始まります。

 一緒にいる相手や、どんな集団の中にいるかによって、明るいキャラになることもあれば、暗い人になることもあり、意識してキャラや人格を切り替えているわけじゃないのにという経験は誰しもが一度は経験のあることだと思います。
 またネット登場時にリアル人格vsネット人格の真贋論争で、ウラの顔や二重人格などネガティブに詮索することが多かったことなどに触れ、つい「本当の自分/ウソの自分」というモデルを前提に考えられがちだけれども、人間にはいくつもの顔があり、相手次第で自然と様々な自分になることが書かれています。

だからこそ、人間は決して唯一無二の「(分割不可能な)個人 individual」ではない。複数の「(分割可能な)分人 dividual」である。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.36より)

 そして、色々な人格はあっても、逆説的だが、顔だけは一つしかなく、あらゆる人格を最後に統合しているのが、たった一つしかない顔であるということも。

誰にでも同じ顔(八方美人)は、誰とも仲良くなれない

 ここは今、仕事で学んでいる「マス的な考え方」と「ファンを中心にした考え方」というのにも近いと思いながら読んでいました。
 誰にでも愛されようとする万人受け狙いでは、誰にも伝わらないのは人間も同じだよなぁ…って改めて。

よく、「分人」という考え方は、結局「八方美人のススメ」なのか、と言われることがある。しかし、むしろ真逆である。八方美人とは、分人化の巧みな人ではない。むしろ、誰に対しても、同じ調子のイイ態度で通じると高を括って、相手ごとに分人化しようとしない人である。パーティーならパーティーという場所に対する分人化はしても、その先の一人一人の人間の個性はないがしろにしている。だから、十把一絡げに扱われた私たちは、「俺だけじゃなくて、みんなにあんな態度か!」と八方美人を信用しないのである。
 分人化は、相手との相互関係で自然に生じる現象だ。従って、虫の好かない人といると、イヤな自分になってしまうことだってある。場合によっては、”八方ブス”にだってなり得るのだ。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.80−81より)

 本の中で平野さんがフランスの語学学校で「暗く・大人しい人」だけど、友人と飲みに行くと「饒舌で明るく」なったエピソードなどが紹介されています。これはかなり私もよくあります。
 慣れて心を許せる場所ではよく喋るし、こうした文章で自分のペースで書くことは好きだけれど、アウェイと感じる場所では大人しくなることも多いし、言葉がすぐ出ない場面も多いので、相対的にいる場所でどのポジションか変化するものだという感覚はすごくあります。

誰とどうつきあっているかで、あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体が、あなたの個性となる。十年前のあなたと、今のあなたが違うとすれば、それは、つきあう人が変わり、読む本や住む場所が変わり、分人の構成比率が変化したからである。
個性とは、決して生まれつきの、生涯不変のものではない。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.89より)

 そして、改めてどんな環境にいるかで、その人の個性も変わるんだなということも。

「本当の自分」は他者との相互作用の中にしかいない

 大学時代に八方塞がりになり、悩みすぎて自信のかけらもなくなった時、「自我が強いのが悪いんだ」、「無私になればいいんだ」と人と会うのが本当に辛くなったことがあります。すっかり忘れていましたが、その頃、禅宗のテレホンダイヤルに電話をかけて法話を聞いてた時があったことを思い出しました。今思い返すと結構、病んでいる…笑。
 そこからしばらく(いや、今も多少)人と話をする時に自分を出すことにブレーキをかけたくなる感覚があります。だけど、みんなに好かれようと八方美人でいる必要ないなと最近より思えるようになりちょっと心が軽くなってきました。
 私たちは、生きていく上で、継続性をもって特定の人と関わっていかなければならないから、であれば好きな「分人」を生きられる時間を長くする方がいいなと思っています。

 私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。常に他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない。
 他者を必要としない「本当の自分」というのは、人間を隔離する檻である。もしそれを信じるなら、「本当の自分」を生きるためには、出来るだけ、他者との関係が切断されている方が良い。しかし、「最後の変身」の主人公のように、結局そうしてみたところで、「本当の自分」という幻想を痛感させられるだけだ。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.98より)

育児の中での「分人」と、私が子育てで意識していること

 育休中、里帰り出産から東京の自宅に戻ってきた当初、生後2ヶ月の息子と二人きりで一週間くらい毎日泣いていたことがあります。
 実家ではまったく問題なく過ごせていたけど、引越したばかりで家の近所もわからず、知り合いもいない。誰も話せる人がいない孤独と社会から切り離され取り残された感じが辛かったのです。
 その後、子どもを連れて地域の子育てコミュニティなどに色々出かけていたのだけれど、それはそれで仕事とまったく違う世界とまったく別の付き合いがあって割と楽しかったです。そこにどっぷりも嫌ではあるものの「○○くんママ」という私を主語にしない関係というのもちょっと面白かったのだけど、それがなぜかというのも「分人」という概念でしっくりきました。

 私たちは、日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。会社での分人が不調を来しても、家族との分人が快調であるなら、ストレスは軽減される。逆に、どんなに子供がかわいくても、家に閉じこもって、毎日子供の相手ばかりしている(=子供との分人だけを生きている)と、気分転換に外に出かけて、友達と食事でもしたくなるだろう。専業主婦の育児疲れを理解するには、その分人の構成比率に対する配慮が必要だ。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.115より)

 また子どもの生育環境への見解も私はとても共感しました。この本を読む前に、ふとこんなことを数週間前に思ったのですが、自分の経験からもできるだけいろいろな人がいる場所を経験したり、子どもの頃から複数の場を持っていることがとても大事だなと感じています。
 同質性の高すぎる場所にいると、「普通」が偏りすぎるから、その意味でできるだけ多様性を知って、その中で自分で考えて生きる力がある事が大切なんじゃないかと思っていたりします。

 結局のところ、子供の生育環境を考えるというのは、その子にとって、どのような分人の構成が理想的なのかを考えることなのだろう。育ちの良い、恵まれた人間ばかりに囲まれているのがいいとは必ずしも言えない。社会そのものが、もっと複雑な、多種多様な人間によって構成されているからだ。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.122より)

自分を好きになれる分人を引き出してくれる人と付き合う時間を大切にしたい

分人から考える「愛」について説明されているパートも納得感がありました。
いい言葉がありすぎて、本がページの折り曲げだらけ。そして引用だらけに…笑。

分人は、他者との相互作用で生じる。ナルシズムが気持ち悪いのは、他者を一切必要とせずに、自分に酔っているところである。そうなると、周囲は、まあ、じゃあ、好きにすれば、という気持ちになる。しかし、誰かといる時の分人が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.125より)
 愛とは「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。つまり、他者を経由した自己肯定の状態である。
 なぜ人は、ある人とは長く一緒にいたいと願い、別の人とはあまり会いたくないと思うのだろう?相手が好きだったり、嫌いだったりするからか?それもあるだろう。しかし、実際は、その相手といる時の自分(=分人)が好きか、嫌いか、ということが大きい。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.136より)
 愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして、同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。その人と一緒にいる時の分人が好きで、もっとその分人を生きたいと思う。コミュニケーションの中で、そういう分人が発生し、日々新鮮に更新されてゆく。だからこそ、互いにかけがえのない存在であり、だからこそ、より一層、相手を愛する。相手に感謝する。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.138より)

 これは、パートナーに限定されることでなく、両親との分人、子どもとの分人、友人との分人、師の前の分人と、そこが心地良ければ愛しているということと表現されています。
 私はここから、自分を好きになれる分人を引き出してくれる人と付き合う時間を大切にしたいと思いました。
 できるだけ人に嫌が気持ちになるようなコミュニケーションはしたくないという気持ちがある一方で、とても嫌な気持ちになる人に無理して合わせなくていいんだなとも思いました。(以前の職場でメンタル不調が起きるまでを何度か見ていて、必要以上のモラハラ発言などで他人を征服し、貶めようという人も実際存在すると思うからです。)
 かといって最初から他責もよくないとは思うけど、ものはバランスで、心が不調になるような攻撃をされ、本格的に病む前にそこから離れるのが一番だと思っています。(職場という1日の大半の時間を過ごす場所で、否定をされ続けると状況によっては、大部分を占める分人が破壊されることになるのかもなと想像。)「何をするかより、誰とするか」もこういうことかもと思いました。

複数のコミュニティへの多重参加で分断を超える

 最後の章で、分人を通じた社会コミュニティ間の分断をどのように乗り越えていくことが可能かが書かれています。

 もし一人の人間が、分割不可能であるなら、帰属できるコミュニティは一つだけとなる。それが彼のアイデンティティだ。しかし、私たちは同時に、たった一つのコミュニティに拘束されることを不自由に感じる。コミュニティの重要性は否定しないが、この不自由を嫌って、どこにも属したくないと感じている人は少なくないだろう。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.171より)

 ここで書かれている郷土愛への感情は、まさに私自身、村意識に縛り付けられるような不自由さに高校時代は反発を感じていたけれど、別の場所にもいるようになり、故郷に対して好きだと素直に感じられるようになりました。

 今日、コミュニティの問題で重要なのは、複数のコミュニティへの多重参加である。そして、それを可能とするためには、分人という単位を導入するしかない。
 一人の同じ人間が、全く思想的立場の異なるコミュニティに参加していたとする。個人として考えるなら、それは矛盾であり、裏切りだ。首尾一貫しない、コウモリのような人間だと見なされるだろう。
しかし、分人の観点からは、これが可能となる。それぞれのコミュニティには、異なる分人で参加しているからだ。そして、むしろまったく矛盾するコミュニティに参加することこそが、今日では重要なのだ。
(平野啓一郎(2012),『私とは何か』講談社 p.172より)

 私自身、若手社会人の頃から井の中の蛙になるのが怖くて、必要に応じて外に学びに行ったりしていたけれど、思い返せば子どもの頃から複数の場に身を置く状態が好きだったことがなぜなのか最近、ふとこの本を読む前に自分の中のバランスをとりたい、一箇所に偏るのが怖いという感覚が常にあるからなんだろうなと気がついたところだったので、すとんと理屈がつながる感覚がありました。
 最近は自分軸でない子どもを介したコミュニティもあれば、地域ボランティア、プロボノなど会社以外の複数の場に参加する事で、多少は考え方の幅が広がり、少なくとも想像する事ができるという感覚があります。
 自分を大事にしながら、自分の好きだと思える状態を増やしていくこと、そして複数のコミュニティにいること。たまたま最近読んだ「これからの生き方。」でも複数の場所にいることを別の観点から勧められていたけれど、やっぱり大事だなと改めて思えました。

#読書感想文 #平野啓一郎 #分人主義

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