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re:本 『宙ごはん』町田そのこ

 宇宙の「宙」の字を人の名前として「そら」と読む、というのに違和感がなければ、あなたは十分に若い。
などというのはただの独り言だが、この本は大雑把に言えば、「宙という名のひとりの子の目を通して描かれる、成長物語」である。(この一文を「女の子の目」「彼女の成長物語」と書かないのは、この性別が特定されなくとも、おそらくこの物語は成立するだろうから)

五つのパート、それぞれの成長段階で構成される物語は、宙の幼い日から始まって、小学校入ってすぐと、小学校高学年の、そして中学生、高校を終えようとする頃の、宙のまわりに起きる出来事と、そこにまつわる料理がキーになって進んでいく。(これを町田その子らしい、と言っていいのかわからないが)心が痛む場面が多い。目をそむけたくなる、見なかったことにしたい、聞かなかったことにしたい場面もある。だが現実には「どこにでもある」話、日常の積み重ねだ。そこには人の死も含まれる。日常の中に、多くの「死」があることが、息をするように当たり前のこととして描かれる。
そんな中で気持ちを和らげてくれる役割を果たしているのが、料理だ。各パートのタイトルには料理名が含まれる。食べることそのものにも十分な癒し効果があるのだが、より強く現れるのは、その創造の過程にある。
ちょっとドラマティックすぎでは!?と思う場面が、ないでもない。そもそも宙の境遇が「わけあり家庭」ではある。だが果たして、「わけあり」でない家庭、というのはどれほどあるのだろうか。とりわけ日本の社会は「理想とする家族像」を前提に、教育も社会保障も、成立している。あるいは、前提通りの家庭を築き、次代にまで難なく存続していけている方々にはこの物語の背景にある事情が想像できず、まったく別の捉えられ方をするかもしれない。(おそらくそういった、いわゆる勝ち組が「いるに違いない」と考えることこそが、幻想なのだろうけれど)
だからこそ、日本人は「家族/家庭」を強調する宗教団体に翻弄されやすいのだろう。彼らの教義に異を唱えることが、社会批判に、ひいては自身の「わけあり」を露呈することになるのではないか、という不安が先に立つからだ。そんなことはないと、憲法までをも持ち出して個人の権利を説明できるにもかかわらず、漠とした不安にかられ、口をつぐんでしまう。彼らの主張は社会規範の中では十分まっとうなのではないか(わたしはそんな家庭には居ないけれど)、批判するに値しないのではないか、と。結果、彼らの教義が社会的に支持され(ているように見え)てしまう。ひとたび「事件」になるまでは。

話を戻すと、宙は子どもの視点で、けれどもひとりの人間として、自身の物語を紡いでいく。生来の素直さで「まず受け入れる」ことから始める。かかわる人の優しさを時に受け入れ、時に諦めて黙り込む。こと、「学校」という枠の中では、頼られる場面も多いし、ある程度のことは従順に(成績で言えば良好に)こなすことができる。成長する中で、我慢が過ぎて爆発する場面もあり、それを指摘する友人もいる。結果を見越して、他者との関係性を築いてみようという(彼女は無意識なのだが)野心も持つ。その折々に、自らの手で生み出せる「料理」がひとつずつ増えていく。
大げさに言えば、この話は、宙の、それぞれの登場人物の、ひとりひとりが持つ独自の宗教(それは親をはじめとする生育者との関係性や生育環境の中で、自分だけが紡いでいく物語)を少しずつ披露しあっていると言えるのかもしれない。宙の、花野の、風海の、それぞれの思いを吐露する場面では、読者は自身の傷をえぐられたり、かさぶたを剝がされたりもするが、なにがしかの「落ち着き先」に降り立つことができるだろう。「成長」が宙だけのものではないように。

 そして、自分に照らし合わせていえば、日々触れる悩みを言語化されるようなタイミングで(滅多に行かない商店街のフリーマーケットで!)、こんな本と出会ってしまうのだ。そう、だからわたしたちは、いや、少なくともわたしは、今日も本を読み、「わたしの」物語を紡いでいく。 2023.11.20

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