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PASSION ~砂漠で教えられたこと~

 ペルーに来たらぜひ会いたい人がいた。加藤マヌエルさん(パドレ加藤・84)だ。パドレ加藤はエマヌエルホームという孤児院の代表で、エマヌエルホームは佐藤道輔先生が特に気にかけていた施設である。先生は個人では考えられないほどの寄付をしていたという。ペルー野球を支援する会も、過去に指導者たちが孤児院を訪問するなど、なじみ深い場所だ。
 エマヌエルホームのチャリティイベントが日秘の劇場で行われた日、大森さんがパドレとペルー野球連盟会長であるヘラルド丸井さん(79)に会わせてくれた。
 日系人が大勢訪れたイベントは満員で、あちこちから日本語が聞こえてきた。パドレはイベントの代表者として、丸井さんはイベントの司会者として大活躍している姿があった。

日系人としての誇り、芯のある優しさ
ペルーに愛を与え続ける日系人初の神父・パドレ加藤

 9月23日、パドレが日秘で話を聞かせてくれた。

 1924年、リマで生まれたパドレ。ちょうど排日運動が起きていた時代。
 “ペルーで生まれても、自分は日本人なのだ”
 日本人ということを常に意識させられながら生きてきたという。
 「ペルーでは神父になろうとする人があまりいない。貧しい国だから、真面目になろうと思わない。なぜ日系人が各分野で活躍しているかというと、真面目さ、根気強さ、一生懸命さがあるから。そこで信頼をつかんでいくんだね。教育も大事にしていた。両親をはじめ、一世の日本人は、どれだけペルーで苦労を重ねたか。子どもには教育をしっかり受けさせたい。日本人は集まるとすぐに学校を建設したんだよ。日系人が各分野で活躍しているのは一世のおかげ。感謝がやまない」

 そう語る。
 後に、カナダで修道生活をしながら哲学と神学を学び、日本にも滞在。勉強しながら事務や幼稚園の園長など、様々な仕事に就いていたという。ペルーへ帰国するつもりはなかったが「ペルーでは初めての日系人神父なのだから帰ってきなさい」と言われ1976年に帰国。
 帰国後は一世の世話をしながら過ごしていたという。日本人が60人ほど収容されている老人ホームを訪ねたときだ。あるおじいちゃんがおばあちゃんを指して「ドロボー」と言ったという。その中身は、タバコが欲しくておばあちゃんがおじいちゃんから4ソル盗んだというもの。日本では、高齢者は年金をもらって最低限の生活ができるが、ペルーでは何も保障がない。貧しいうえに、スペイン語が話せなければ病になっても適切な処置が受けられないという現実があった。
 そんな実情を知り、パドレは食料援助や寄付を集める活動を始めた。そして1981年、身寄りのない子どもたちの自立援助を行うエマヌエル協会を発足させ、83年にエマヌエルホームを設立した。日系人団体や関係者、カトリック関係者から3万ドルの寄付が集まった。リマ日校時代のなじみであるヘラルド丸井さんも先頭に立ち、動いてくれたという。
 エマヌエルホームはリマ中心地から車で一時間ほどの砂漠地帯・ベンタニーヤ地区にある。ここは開拓するなら無償の土地。貧しい人々がどんどん家を建てていった。ホームの周りには家が立つばかり。このままではホームが孤立してしまう恐れが出てきた。周囲は砂漠地帯。水がないということは何もないということ。70人もの地域住民におやつや昼食を与えることもあったという。
 こうして、地域社会も応援していくことで孤立を避けた。
 ホームでは、子どもたちの自立をめざし、家庭菜園のほか、動物の飼育、パン屋、パソコン教室などがあり、靴の修理やレストランの給仕をさせるなど実習に重みを置いている。
 1990年に診療所を、2000年には日系人のための老人ホームを開設した。診療所は常にパンク状態であるという。
 子どもたち、老人たち、地域社会にとっても今やエマヌエルは欠かせない存在になっている。
 パドレは人としての倫理、道徳心を何よりも大切に説いてきた。それは、佐藤先生が求める甲子園の心と同じである。だから、先生はエマヌエルホームを献身的に援助していたのだろうと私は感じた。

「すごい」、ただそれだけを発した時間~エマヌエルホーム訪問~

 翌週には、パドレが車でエマヌエルホームに連れて行ってくれた。
 リマ中心部を離れると、少しずつ景色が変わっていった。都会的な建物は消え、乾燥しきった茶色の大地が続いていくようになる。荒地には埃が舞い、空は灰色。大西洋がかすんで見えた。
 どこもかしこも荒涼とした砂漠地帯に入る。地形に沿ってびっしり広がるバラック小屋。寄せ集めの材木を組み合わせて作られたような箱型の家。山の上へ、上へ隙間がない。土台など一切ないから地震が起きたらすぐに崩れてしまうだろう。山の上にある家ほど貧しい人たちが住んでいると聞いた。


 そんな地にあるエマヌエルホーム。
 ここにいる子どもたちは、親に虐待されたり、愛情を十分に受けられなかったり、何かしらの家庭問題を抱えていることがほとんどだ。JICAの青年海外協力隊として、子どもたちと一緒に生活しているMさんが案内をしてくれた。
 エマヌエルにいる34人の子どもたちのうちの5人が、両親がいないという。
 最初に私が出会った幼い兄妹。正確な年齢は書類がないからわからないが、名前はジャスミンとガストン。4歳と2歳半くらいだろうか。2ヶ月後、迎えに来るからと言い、と母親がこの二人を預けていったという。


 2ヶ月後、果たしてきちんと迎えにきてくれるのか、誰にもわからない。エマヌエルに来た当初は笑うこともなかったが、今や他の子どもたちに囲まれて、元気に遊んでいる姿があった。
 エマヌエルの基本は、自分のことは自分でやるということ。年齢は関係ない。掃除はもちろん、洗濯は各自手洗い。自分の家に帰れば洗濯機などないからだ。乾いたら丁寧に畳んでたんすにしまう。シスターのチェックが入るほど厳しいという。
 正午前、Mさんと子どもたちを迎えに学校へ向かった。
 学校の門でしばらく待つと、真理子さんの姿を見つけた子どもたちが駆け寄ってきた。Mさんが「彼女は友達」と私を紹介するなり、子どもたちは次々と自分の名前を教えてくれる。あっという間に子どもたちと打ち解けられた。
 全員で昼食を食べた後、子どもたちと遊んでいた。バレーボール、折り紙、歌。そこに言葉の壁はない。「翼をください」「世界中の子どもたちが」「世界にひとつだけの花」。これらは子どもたちのお気に入りで、元気よく一緒に歌った。
 私はこの日、隣接する老人ホームに宿泊させてもらうことになった。
夕食後、入居者のおばあちゃんやおじいちゃんと話をしようとするが、日本語がほとんど通じず驚いた。日本人同士なのに、スペイン語で会話を交わしているのだ。
 日秘の先駆者センターでも同じような光景があった。
 排日運動後、ペルーの日系人たちは同化の流れを辿っていく。ペルー社会に溶け込むことが成功する要素でもあった。スペイン語も必死に覚えたのだろう。日本語を忘れていても無理はない。苦労の故だ。そんな一世の苦労があったから、日系人はペルー社会で大いに認められているのだ。
 ―きのうの苦労は明日への希望
 日秘の資料館に貼ってあったポスターの言葉を思い出した。

シスターが私のために一部屋用意してくれていた。ベッドのそばには紅白まんじゅう、バナナ、冷えたビールが置かれていた。シスターのそんな心配りが身に染みる。


 老人ホームから夜景を見れば、山の形に沿って点々としたオレンジ色の灯りが何百個とあるのがわかる。砂漠の山が大きなクリスマスツリーに見えた。霞みのかかったオレンジ色。砂漠の夜は、オレンジ色の空だった。昼間に見た砂漠の光景、オレンジ色の砂漠の夜景。ただひたすら「すごい」としか言えなかった。
 ペルーに来て良かった。
 私は南米に来たことを後悔さえしていたのだ。いきなりATMにカードを食われ、ショックを受けた。スペイン語は話せない。外に出るのが怖くて仕方ない。そんな自分が歯がゆかった。だが今は違う。とても大切なものを感じることができ、満足感に包まれていた。

 翌朝は、おじちゃん、おばあちゃんの間に座って食事をとった。マグカップに入れられた飲み物が飲みきれず、残そうとしたら「残しちゃだめね!全部、飲みなさい」と言われたが、こんなこと、久々だ。
 周辺は砂漠に囲まれていても、老人ホームの内部は花畑や野菜園があり、陸ガメやインコなども飼育されていて素敵な環境が広がっている。散歩をしていたらパドレが現れた。
 「もう一泊ゆっくりしたらどうですか」
 私は迷うことなく頷いた。もっとここにいたいと思った。
 午前中、Mさんと近くの市場に買い出しに出かけ、昼前にエマヌエルに戻ると、ジャスミンとガストンが私たちの姿を見つけて走ってきた。子どもたちが学校から帰ってくれば「ミス!!」と私のそばに寄ってくる。
 「オゲンキデスカー?」
 覚えた日本語でにっこり笑う。昼食後、子どもたちは宿題に取りかかった。私は砂漠地帯を写真に収めたく思っていた。それを話すと、Mさんが一緒に歩いてくれることになった。


 この地区にある家のほとんどから、針金のような棒が空に向かって飛び出していることに気づく。それは「建設途中」の意思表示だそうだ。「完成」では、税金を取られるというのが理由らしい。電気は公共電気の配線を自分の家へつなげて電気を盗む。それがここの現実だった。

 施設に戻ると、昨日と同じく子どもたちとバレーをしたり、歌をうたったり。私のカメラが気に入ったようで、楽しそうにいじっていた。だが、時折私の体に寄り添って甘えてくる。元気いっぱいの子どもたちだが、親がそばにいないという寂しさがいつも心にあるのだろう。親はどこへ行ったのか。また会えるのか。親の愛情はこのまま受けられないのだろうか。
 この子たちの未来はどうなっていくのか。だが、自分より小さい子のめんどうをきちんとみるとか、カメラの使い方をすぐに覚えるとか、子どもだけのパワーをたくさん感じた。それはきっと無限大。
 どうか未来が拓けることを。
 切に願った。


 砂漠を歩いていたときに、写真を撮らせてくれた少年たち。彼らと出会ってふと思う。
 貧しいからとか、先入観で人を見てはいけない。境界線を作ってはいけない。「私たち」なのだ。生きていること、助けあうこと、微笑みあうこと。人はつながっているということ。
 それがあれば「幸せ」なのだと。
 子どもたちには良い教育を受けてほしい。そうすれば、未来は必ず拓いていける。
 そんな手助けを惜しみなくするパドレ、シスター、Mさんの存在はとても大きい。


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