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PASSION 第6章 つかみどころのない大国、歴史の深さ ブラジル

二度目のブラジル ~帰国まで40日間~


  1月29日、イグアス移住区から41キロ離れたシウダー・デル・エステからバスに乗って17時間後、ブラジル・サンパウロに着いた。二度目のブラジル入国だ。

 私はここからアマゾンをめざす。アマゾン河をフェリーで旅したかったのだ。
   アマゾンのまっただ中にある都市・マナウスから河口のまち・ベレンまでの1400キロをフェリーで下るというもの。サンパウロからマナウスまでは、直線距離にして3000キロ近くあり、長距離バスは走っていない。
   カーニバルシーズンを迎えていて混雑している空の便。マナウスへのフライトが予約できたのは6日後だった。

 翌日、土曜日の朝。東洋人街に続く坂道を下って信号を渡ろうとしたら、付近で朝市が開かれていた。
 驚いた。魚も野菜も果物も、丁寧に積み重ねて売られていたのだ。今まで見てきた市場とは全く違う。これまでの市場は言葉で表すなら“雑多”。だがここは“整然”である。まるで日本のスーパーの陳列のようだ。売り子はブラジル人が多いのだが、日系人を意識しての陳列なのかもしれない。
朝市が開かれていたそばにある日伯文化協会(通称・文協)には、ブラジル日本移民史料館が入っている。
 入館するときに配られた縦長の小さなリーフレットを開くと、真っ赤な日の丸が顔を出し“ブラジルに移民してきた日本人の人生の記録がここに残されています”と書かれていた。資料館の展示物は5千点、文書類が2万8千点、写真は1万枚と資料が非常に充実している。展示も年代ごと、テーマごとに分かれていてわかりやすい。90分くらいかけてじっくり歩いた。
 ブラジルで暮らす日系人はもちろんだが、日本で暮らす日本人に、移民の歴史に興味を持ってもらいたいと改めて思う。
 いや、それをしたいがために私は南米を歩いているのだ。
 9階の受付にいたおじいさんが私の腕をギュッとつかんだ。
 「来てくれて、ありがとう」


毎週日曜日は東洋人街の中心・リベルダージ駅の広場で、東洋市が開かれている。紅白の幕で統一された露店がぎっしりとあり、たこ焼きの匂いが漂っていた。ブラジルのみやげ物なども売られているが、「武士道」「平和」といった文字の入ったうちわやTシャツなどが数多く売られていた。
 飲食ブースは大混雑だ。今川焼、たこ焼き、うどん、やきそば、天ぷら、かき氷。縁日で売られているようなものが何でも揃う。
 東洋人街は、かつては“日本人街”だった。それが今や中国系の店がどんどん増えてきて、いつの間にか“東洋人街”と呼ばれるようになってしまった。日本語以上に中国語が聞こえる日もあるという。それでも文協では日本語しか聞こえてこないし、日本食材を売るスーパー・丸海を訪れるのは日系人がほとんどである。ちくわ、うどん、しょう油などが入れられて、買い物かごは満杯だ。
 「食事、何にする?」
 「お寿司、食べたいね」
 そんな会話も聞こえてきた。




 一方で、私がこのとき宿泊していたペンション荒木に住んでいる日系人女性はほとんど日本語が話せない。日本人の血を引いていても、彼女らはブラジル人として育っているのだ。そんな彼らを“日系ブラジル人”と呼ぶらしい。私が会った人のなかには「日系ブラジル人は信用するな」と言った人もいた。日系人は真面目、お金持ち、信頼できる…そんな言われを利用した犯罪が起きているのも事実である。
 日本人移民が入植して100年が過ぎ、ブラジルには150万人ほどの日系人がいると言われている。そのほとんどが“ブラジルに同化している”といったほうが正しいのかもしれない。日系人とブラジル人の差はほとんどないのかもしれない。
 それでもだ。
 文協では日本語教室も開かれていて、ブラジル人が日本語を学ぶ姿が多くある。
 「アリガトウゴザイマシタ」
 「サヨウナラ」
 こんな挨拶が聞こえてくるだけで嬉しい。
 「ワタシハ ニホンガ スキデス」
 こう言ってくれたらさらに嬉しい。
 だから、これまでの移民が大切にしてきた“日本人”としての誇りや民族性を、現代の日本で失われたくはないのである。

 

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