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プロテスタントの起こり (90)

資本主義が出来る土台として、「プロテスタント」の存在が大きいことは、マックスヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にて知られている。

では、その「プロテスタント」は、どういう経緯で成り立ったのか?

事の起こりは、マクデブルグ(現在のドイツ・ザクセン=アンハルト州)の大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(当時23歳!)が

「兄のように、私も『選帝候』になりたい」と言い始めたことが発端。

彼の兄は、ヨアヒム1世といい、マクデブルグ選帝候である。選帝候とは、ローマ王を選ぶ権利を有する凄い人。

そこで、アルブレヒトは、選帝候を有する「マインツ大司教」を狙った。しかし、大司教には一人一つしかなれないという原則がある。

その原則を曲げてもらうため、アルブレヒトは、当時のローマ教皇「レオ10世」に多大な献金をして頼み込んで、マインツ大司教になった。

普通に考えると、聖職者のトップであるローマ教皇が金に目がくらむなんてと思うかもしれないが、

レオ10世の本名は、ジョヴァンニ・デ・メディチ

そう、あの「メディチ家」ロレンツォ・デ・メディチの次男なのである。ちなみに、彼は贅沢が好きで湯水のようにお金を使い、「レオ10世は3代の教皇の収入を1人で食いつぶした」と言われている。

ですので、彼は、お金で転んででしまう人なのです。

アルブレヒトは、めでたく選帝候になれたのですが、多大な借金を抱えてしまうわけです。でも、返す当てがない。

そこで、借り先の「フッガー家」に相談します。フッガー家は、ローマ教皇の御用達銀行でもあり、じつは湯水のように浪費する教皇から再三お金の工面依頼があった。

フッガー家は、お金の工面、借金を返してもらう方法として、思いついた。

「贖宥状」を売ろう。

ローマ教皇のお墨付き、フッガー家の独占販売ということで、アルブレヒトの教区を中心に売りまくった。

贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える

つまり、この紙さえもっていれば、天国に行けると。

その状況に怒りまくった人がいる。

マルティン・ルターその人である。

彼は、カトリック司祭であり、ヴィッテンベルク教会の神学教授でもある。

彼にはその当時、彼なりの真理を見出していた。

パウロの『ローマの信徒への手紙』に出る「神の義」の思想というのがある。

「いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義である、すなわち正しいと確実に言うことはできない。」

いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義である、すなわち正しいと確実に言うことはできない。

この現実を直視していたルターは、苦しみ続けた。

悩みぬいた結果、「人間は善行でなく、信仰によって義とされること、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みである」という理解に到達。

そういう真理に到達していたので、贖宥状によって罪の償いが軽減されるという文句は「人間が善行によって義となる」という発想であり、

煉獄の霊魂が、本来罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって償いが軽減されるというのは贖宥行為の濫用であると認識した。

よって、ルターは行動に起こす。

「論じようじゃないか!」

ヴィッテンベルクの教会の門に「95か条の論題(ラテン語)」

を貼りだし、討論会を通知した。(贖宥の効力を明らかにするための討論)

ラテン語で書かれているので、ドイツ市民向けに訴えたものではなく、ルターは、同じ神学者と議論したかったのである。

しかし、この「95か条の論題」は、ドイツ語に翻訳され、

しかも、当時発明・普及されたばかりの「活版印刷機」により、多数部本となり、ドイツ国内を駆け巡り、

また各国語に翻訳され、ヨーロッパ各地で読まれた。

こうして、カトリックに疑いを感じていていた人達は、ルターの信念に応じ、ルター派=後のプロテスタント派になっていった。

(ちなみに、ルターが呼びかけた討論会は開かれなかったようである)

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