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毒親育ちで辛い人へ


{2023.12.24の記事}

私はこれまで、何回も毒親にまつわる話やエピソードを書いてきました。

書いていた頃は本気で腹立たしい気分になったり、辛過ぎてやり場の無い思いに苛まれたり、悩みの渦中でもがいていました。

ところが最近、

『もう、どうでも良いんだな。』

って、
【悩んでいる当事者意識の自分】
から抜け出た感覚が強まりました。

なので、これが最後の毒親関連の話題になるかもしれません。

断言はできない部分もあるのですが、
【悩んでいる当事者意識の自分】
だったところから、今はもう

【その過去をただ眺めるだけの自分】

の意識の方が強くなってしまったので、以前のような強い気持ちでこの手の話を書くことは、恐らくもう無いんじゃないかと思うのです。

なので、かろうじて
【悩んでいる当事者意識の自分】
にもアクセスできる内に、いくつか書いておこうと思います。


世の中には
「親は子供を選んで産まれてくるんだよ。」
「親を通じて、学びを得るためにあえて辛い家庭環境の元に産まれてくるんだよ。」

などの言葉もよく転がっています。

↑これ、全部シカトで良いですよ。


世の中には、
「闇の勢力による、理不尽な契約によって、酷い親、家庭環境に産まれさせられた。」
「闇の勢力との不利な契約によって、辛い経験をさせられた。」

という話もあります。

私個人的には↑こちらの方がしっくりきています。


人それぞれ、どちら側の意見を信じたいか[自身がしっくりくる方を選べば良いだけ]だということは念頭に置いておいてください。

同時に、毒親育ちによって本気で苦しくて辛いときは、[全力で自分が自分に寄り添ってあげられるよう心掛けることが一番大事]であることも忘れないでください。

本気で辛くて苦しいときに[わざわざ自分に説教を重ねるような意見ならば全て聞かなくて良い]ということは、絶対心に留めておきましょう。


以前別の記事でも少しずつ触れてきたように、
【悩んでいる当事者意識の自分】
から
【その過去をただ眺めるだけの自分】
へと切り替わることができたときに初めて、
『まぁ、あの体験も大事な要素だったのかもしれないな。』と感じられます。

無理してその考え方になろうと踏ん張らなくても、自然と腑に落ちてくるんです。


なので、
「親は子供を選んで産まれてくるんだよ。」
などの言葉が仮に真実であったとしても、[それらの言葉を押し付けること]は確実に間違っているのです。

自分で気付いて初めて
『そういうものなんだ。』と理解すれば良いだけなので、他人が訴えている言葉に不快感を感じている間は、自身が感じる不快感を絶対に大事にしてあげてください。


自分だけは、絶対に自分に賛同してあげるということが大切です。

『自分を大事にできるのは、自分だけなんだ。』

改めて自覚するように心掛けた方が、はるかに救われた感覚を感じられやすいでしょう。

悲しいことに【辛い感覚】や【苦しみ】は他人に理解されない場合の方が多いんですよね。

そういう点も含めて、
自分が自分を理解してあげよう。』と努めることが大事です。


私個人の経験では、辛くて苦しくてどうしようもなくなっているときは
『どうせ私は誰にも理解なんてされないんだ!』という気持ちでいっぱいになっていました。

だからずっと盲点だったのですが、
自分が自分を理解してあげよう。』って思ってあげて良いんですよね。


【『理解されない』と考えている側の自分】
という意識状態から
【【『理解されない』と考えている側の自分】を観察する自分】
という意識になった上で
『じゃあ、自分が自分を理解してあげよう!』という風に切り替えていくことがとても大切でした。

この一連の流れは頭の中で順番に起こるので、一見自問自答しているだけのような感覚です。

しかし実は、
【『理解されない』と考えている側の自分】

【悩んでいる当事者意識の自分】
であり、
【【『理解されない』と考えている側の自分】を観察する自分】

【その過去をただ眺めるだけの自分】
に当たります。

これは、同じ自分でありながら、グラデーションで異なる自分へと切り替わっていることになる訳です。

この意識の切り替えが完了してようやく、毒親育ちという状況に対して
『そういう経験をしたな。』という風に明らかに眺められるようになる訳です。

なので、ただただ
『辛い、苦しい。』と感じている間無理矢理自分の考え方を達観している側の意見に合わせようとするよりも、
『辛いよね、苦しいよね。』と自分に並走している感覚になれることを目指す方が、意識を切り替える流れになりやすい人が多いのではないでしょうか。

人それぞれ、意識が切り替わるルート、切り替えやすい方法は異なるとは思いますが、私のようなパターンもありました、と書いておきます。


今回、「毒親育ちなら…」という切り口から入ってるのですが、自分の価値観や精神レベルをステップアップさせるためには必ず
【嫌な感情の最中の自分】

【【嫌な感情の最中の自分】を観察する自分】

『じゃあ、自分が優しくしてあげよう!』と自分をケアする自分
という風に自愛できる自分に変わっていくことがとても大切でした。

これはどんな感情であっても同じことが言えて、
『自分が抱えている不足感を最終的に補えるのは自分でしかないんだ!』と、気付く瞬間が、あるとき訪れるはずです。

この気付きも、無理矢理達観している意見に自分を合わせにいくのではなく、ひたすら自分に共感、寄り添い続けた方が結果的に早く訪れる気がします。


幼少期や、これまでの人生においてあまり辛くて苦しい経験をせずに育ったタイプだと、かなり早い段階から
『自分が自分にケアしてあげよう!』という意識が強かったり、備わっている人が多いようです。

なので、
「自分が自分に優しくしてあげてね。」
という風に
【辛い自分】

【慰めている自分】
へと一足飛びに変化を促すような言葉が出てくることも多いと思います。

ところが、苦悩のどん底を経験したことが多いタイプであれば、
【苦悩のどん底の自分】

【【苦悩のどん底の自分】を観察している自分】

【慰めている自分】
という形で細かくステップを踏んだ方が楽になりやすいと思うので、よかったら参考にしてみてください。


冒頭にも書いた通り、今の私はもう、
【悩んでいる当事者意識の自分】
状態になることがほとんどなくなりました。
【『かつては本気で苦しかったよなぁ…。』と思いながらも、そういう経験をした、それだけのこと】
という意識が強くなっているのです。

もうしばらくすると、全ての辛かった過去に対して
『それは、ただの経験でしかなかった。』という心境の自分に変わりきってしまうような気がしています。

その私に変わってしまったら、私もきっと
「毒親育ちなんて、そーゆー経験しただけなんだよ☆」
などと言い出しかねないので、最後に書いておきたいのです。


【当事者意識】

【【当事者意識】を観察する意識】

【【当事者意識】を慰める意識】

【慰め終えた意識】

という流れで、私と同じように、辛くて苦しくてどうしようもない経験をしたにも拘わらず、
【苦悩のどん底の自分】をほぼ忘れてしまう流れを経験する人
も多いと思います。

その際、
『【苦悩のどん底の自分】を忘れてしまっては、自分がこれまでに苦しんだ経験が何だったのか…折り合いがつけられないから、忘れたくない!』と過去の自分に執着し、未練を残したまま幸せになるになりきれない状態になってしまう可能性があります。

それを防いで、正々堂々と幸せになるためにも、このブログを役立てて貰えると良いかと思います。


内容が重複し続けるのですが、私たちが知るべきプロセスというのは

【当事者意識】

【【当事者意識】を観察する視点】

【観察者の意識】

この変化の過程部分です。

この部分を学ぶ上では、当事者意識が【辛いもの】である必要が一切ないはずなのです。

それなのに、わざわざ辛い思いを強いられる…言うなれば
「体験を経て学びを得るために酷い親の元に産まれてくる。」
という理屈がまかり通る訳がないと、私は考えています。

【一生懸命の意識】

【一生懸命の意識】を観察する意識】

【観察者の意識】
というプロセスを経ても得たい学びの本質は得られるのです。

だから、安直に
「体験を経て学びを得るために酷い親の元に産まれてくる。」
という思想は信じる必要はありません。

自身が
『その考え方…何か違和感…。』と感じた際は、確実に自身の感覚が正しいのだと、自信を持ってください。


私はかつて、私に無自覚に嫌がらせを続けてくる母親から
「子供は親を選んでくるんだって☆」
と、脳内お花畑発言を繰り返された経験があります。

[子供が親を選んで産まれてくる]
この部分が仮に事実だったからといって、【闇の勢力】などという概念が存在している以上、
・闇の勢力によって選ばされた可能性
・その親のことが好きで産まれてきたのではなく、その経験を自分への負荷とすることを選んできただけであるという可能性

などがあるため、

「それは大好きだからあなた方を選んだとは限らないのですよ。」

という話になってきます。

何にしても、
◆親側の人間
◆親子関係で悩んだことがほとんど無い人間

「子供が親を選んで産まれてくる。」
言及するのは無神経だと私は思います。


[子供が親を選んで産まれてくる]
という思想を自分で信じる分には一向に構わないのです。

ただ、それが上記の立場の人間が、毒親育ちで苦しんでいる人間に対して発言するにふさわしい言葉ではないということは心に留めておける人が増えると良いな、と思っています。

この思想は愛の証明でも何でもなくて、

【当事者意識】から抜け出すきっかけの妨げにしかならない

と、冷静に捉えられる人の人数が増えることを私は祈っています。


これもまた今までに何度も触れてきた内容なのですが、
【悩んでいる状態】
から、
【悩みが解決した状態】【悩むことを忘れた状態】
どちらに変わっても同じことであると理解しておくことも大切です。

【自分の親が毒親で辛い】
から
【自分の親が変わってくれた】【自分の親は変わらないけどどうでも良くなった
同じことになります。

だから、毒親育ちによって苦しい人は、現状が変わることを強く望む方向性よりも、

〖自分が毒親に対して何とも思わない自分へと変化すること〗

を重点的に意識した方が、楽になるのが早いのではないかと思います。

その方向性になるためにも、
『まずは自分が自分に絶対に寄り添う!』という心掛けが役に立つので、ピンときた人はやってみてくださいね。


最近私が気付いたことなのですが、何かに対して深く傷付いた経験があると、仕事やボランティア、ブログなどの発信を通じて
○○な人□□な考え方で助けたい!』みたいな思いになることも少なくないと思うんですよ。

けど、実は
○○な人=自分のこと
□□な考え方で救われるはずの人=自分

っていう側面が物凄く強いんです。

私自身、これまで色んな人に向けて
「XXな人は、YYしてみてください!」
「ZZな人は、AAを心掛けてみてください!」
って色んなことを発信してきたのですが、今になって思うと、その発言が最も届くべきだった人物って、他でもないだったんですよね。


勿論、
『他者を救いたい!』という気持ちも真実ではあるのですが、
まず真っ先に届けるべきは自分の心の深い部分だったんだ…。』と感じる経験を繰り返していて、自分を最優先にすることの大切さを実感し続けているんです。

それで、私以外のあらゆる人に対しても
「もし、他人に対して「△△したら良いよ!」と感じたら、まず自分が△△にしっかり取り組めているか振り返る作業が一番大切ですよ!」
って伝えておこうと思いました。


[他者に対して「△△したら良いよ!」と訴えること]を否定しているのではなく、
[自分を振り返ってみる機会をしっかりと設けることを優先してあげること]が何よりも大切だと言いたいのです。

この部分は本当に、かつて傷付いた経験が多いタイプほど概念すら無い感覚なのではないかと思います。


私自身は、気付いたことを理解して、腑に落ちたつもりで実践が足りてなかったものがとても多かったです。

もう少し言い方を変えると、実践しているつもりでもあったのですが、心の深い深い部分にまで自分のケアが届いていなかった、とも言えます。

なので、この話に出会った皆さんは

『徹底して、自分をケアする!』

と、強く思っても良いかもしれません。

『自分を大事にする。』だけでは足りない、
『徹底して、自分を最優先する!』位強く考える必要がある人が、一定数存在すると思うのです。


大事なことなのでおさらいです。

【苦しくてどうしようもない、当事者意識の自分】

【【苦しくてどうしようもない、当事者意識の自分】を観察している観察者の自分】

【【苦しくてどうしようもない、当事者意識の自分】を慰めてあげる自分】

【自分を徹底的にケアしてサポートしてあげる自分】

【慰め終えた自分】

この位、細かいステップを踏むのだということを念頭に置いていた方が、本当に辛くて仕方ない人にとっては取り組みやすいはずです。

こうして書き出すと果てしない道のりのように見えるかもしれませんが、これは階段の段差をそれぞれ低くして、沢山の人が登りやすくなるために分解しているだけなのです。


【苦しくてどうしようもない、当事者意識の自分】

【自分を徹底的にケアしてサポートしてあげる自分】
と、一足飛びに登ろうとしてしまうと、
・自分をケアするポイント
・自分をサポートするポイント

見誤る結果になることもあります。

こうなってしまったとき、自分が心の底から求めているケア、サポートが得られないことで結局苦しみから抜け出しきれずに拗らせ続けるパターンもあり得るので、ご自身で見極められるように、細かく自分を観てあげるようにしてみてくださいね。


これまで、ポジティブキラキラ系の発言が意味不明過ぎた経験も少なくなかった私なのですが、これから私がそういう系になりそうで、少し怖い気持ちがあるのが現状です。
(まぁ…そこまでにならなさそうとも思うけど…)

その自分に片足を突っ込んでみて分かったのが、

[過去を昇華させてしまうと、辛かった感覚も結構忘れる]

っていう部分です。

忘れきった方が幸せになるだろうし、忘れてしまった方が絶対良いに決まってるのも分かるんですけど、完全に忘れてしまったら、
【苦しくてどうしようもない、当事者意識の自分】が無くなる→それを観察できなくなる→観察する意識というステップに関することが分からなくなるんじゃないか…
って、ちょっと思っちゃったんですよね。

先程書いた通り、別に辛い経験じゃなくても【当事者意識】を観察することは可能だから、そのプロセスの説明自体をできない状態にはならないとは思います。

けど、より【苦しい人】寄りの目線でこの話が書ける内に書いておこうと思いました。

必要な人はお受け取りください。


どんな人にも光明は差すものなんだと、信じてみる人が1人でも増えますように。

諦めずに対峙してきた私の苦悩が他の人の階段になりますように。


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