2002年W杯、旅、ぺんしょん、小笠原
大学を5年かけて卒業した私は、在学中からアルバイトをしていたところで、そのままフリーターとして続けることにした。週四日勤務で20万超えるのでなかなかおいしい仕事。内容はセブンイレブンの商品を仕分ける仕事、冷蔵倉庫なので寒い。が、体力には自信があったので、朝9時から夜9時遅いと11時くらいまでの仕事。
さて、2002年は日本で初めてのサッカーW杯。98年に初出場した時も大興奮だったが、日本での開催で完全にお祭り気分だった。
6月の1か月間。日本はワールドカップ一色。
チケットはとれない。高騰して買えない。
日本戦全試合を国立競技場でパブリックビューイングをするということで、全試合分チケットを買った。当時はパブリックビューイングってなんぞやだったが、いざ会場にいってみると、そこで試合をしていないのにも関わらず超満員。代表戦と同じように大合唱。臨場感、高揚感が半端なかった。
画面をみて応援だが、これでも十分と思った。
ベルギー戦。先制されたときの「あぁ、またか」悪夢の98年を思い出した。が、その2分後に鈴木のつま先ゴールで、とんでもない大騒ぎ。その10分後に稲本のスーパーゴールで最高潮の盛り上がりだった。その辺りにいる人全員とハイタッチとかハグとかよくわからない状態に。
結局試合は2-2だったが、初の引き分けで大盛り上がりの中、渋谷に繰り出すとさらに大騒ぎ。おそらくこの日が初スクランブル交差点ハイタッチ現象の始まりだったのかなと思う。何のために何往復もハイタッチしたんだろう・・・高揚感がそうさせたのかなと思う。
ロシア戦初勝利。チュニジア戦圧勝。で同じように渋谷や六本木に繰り出し、朝まで大騒ぎしたのを覚えている。
とにかく目立とうと、国旗をマントに、代表ユニ、サングラス、髪の色もスプレーか何かしてたかな。そんな恰好だったので、2回ほどインタビューを受けた。ニュースでよくみる代表戦の後の興奮したあほな姿を私も見せたと思う。
それに加えて、ロケット花火を国立競技場の門と六本木の交差点に打ち込んで、ニュースになったのも覚えている・・・意味もなくバカな行為をする酔っぱらって態度や行動が身の丈以上になる典型的なあほだったと思う。
ハロウィン、カウントダウン、W杯で渋谷で大騒ぎする若者に対して何も言えません。。。私も同じでしたから。どうぞ数年後、ご自分で気づいてください。
トルコ戦で負けた後のショックはえぐかった。え、おわり?スラムダンクの陵南戦で負けた時の花道みたいな感じ。しかも土砂降りで、帰りの足取りも重かったなぁ。
とにかくバカ騒ぎしたW杯期間でした。
W杯が終了後、何か自分も行動したい、世界に出たい欲がでてきて、旅をすることにした。世界を知る前に日本を知らないから日本を旅しようと。高校の友達と二人で青春18きっぷで西へ西へいった。
初日は名古屋駅前で野宿。ギターを持っていたので、とりあえず路上ライブ。家がない方しか来ないので、山ちゃんの手羽先を食べにいった。
2日目、神戸で少し観光。ホノルルマラソンの時の友達にあう。神戸は道を尋ねると優しく教えてくれた。そのまま野宿
3日目、広島で原爆資料館などをみつつ下関で野宿。※この頃ギターが邪魔で捨てたくなる。
4日目長崎でちゃんぽんを食べた後、野宿。そこで友達と別れる。数日後に住み込みバイトの先である群馬で待ち合わせ
5日目高速バスで京都へ。京都の幕末ゆかりの寺、場所をまわる。大阪にいる大学の先輩に会いに行く。先輩の会社のボーリング大会に飛び入り参加。確かベストスコアだしたような・・・お前誰だって言われた記憶。
数日記憶なし。群馬着。
はっぴぃぺんしょんという群馬県片品村の夏はテニス、冬はスキー、スノボーができる宿で夏の間住み込みで働くことになった。※ビーチボーイズをあこがれていて念願かなう。※海じゃないけど
はっぴぃぺんしょんは大学時代に何回かお世話になった宿だったので、サークルの名前をいうと快く働かせてくれた。
仕事はテニスコートの草むしり。これは地獄。食事の準備、ベッドメイキング、そうじ、洗濯。
部屋は屋根裏に男3人。窓も玄関も開けっ放しなので虫は入り放題。屋根裏に常時50匹くらいキリギリスがいたと思う。虫が死ぬほど苦手なのに不思議と生活に溶け込むとなんとも思わなくなり、いつも頭とか方に乗ってたと思う。今なら失神する。
1週間ほどで仕事にも慣れて、自分たちが生活してるところに友達が遊びにきて、それを世話してるみたいな感覚になり、仕事って感じはしなかった。
お客は大学のテニスサークル達。(例外なくチャラかった。そして飲みがえぐい。)大学によって色があるのを感じた。しっかり片付けまでやるところ。まったくしないところ。これまたペンションで働いてる人は、海の家にいるスタッフと同じでよく見えるのか、それなりにいい思いもした。
星がきれいで、よく見に行った。UFOも数回見えた。
当時携帯の電波も届いておらず、下界と情報も遮断され、スローライフで、このままここでずっといたいとすらおもった。村民の方も暖かく、居心地は最高だった。
夏の終わりが近づき、スローライフも終わるころ、スタッフ同士で「ここ終わったらどうする?」的な会話になり、全員一人旅にいくことにした。
一人は屋久島、一人は西表島、そして私は小笠原。
9月後半に小笠原へ向かった。
船で25時間。最初は1人で心細く、何のためにいくんだろうと船酔いも相まって後悔していたが、夜が明け看板にでると絶景の海。沖縄の比じゃない。海外だこれは。ほんとに感動したのを覚えている。
ユースホステルという相部屋の格安宿に泊まり、旅人の宿なので、旅ベテランも多く、いろんなツアーを企画してくれて参加させてもらった。非常に貴重な体験だった。戦争の跡がそのまま残ってるジャングル、夕日が超きれいな丘。透明度半端ないビーチ。ほんと楽しかった。帰りの船は東京につくまでいろんな人と話ができて向かう時の孤独とは大違いだった。
今まで誰かといっしょではないとどこにもいけない何もできないだった自分が、1人で決めて、1人で行き、何かを得て帰ってきたのは達成感があった。※一人旅に慣れてる人ならきわめて普通のことだが。
ワールドカップでのバカ野郎が旅を経て、すこし成長した3か月だったなと思う。2002年はほんと思い出深い年でした。
旅から帰った私は冒頭書いた、セブンイレブンの倉庫に戻り、フリーターとして、そこから2年働きます。ここからの2年は筋トレとフットサルにドはまりする2年です。その頃のお話を。こうご期待。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?