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いじめだらけの小学生の時の話

前置き


 正直この話は、ずっと胸中に秘めているべきというか、自分で消化すべきというか、あまり口に出してはいけない話なような気がしている。実際小学校の同級生達が集まっても、あまり小学校の話はしないし、少しだけ話題に登っても、すぐにそれは消えていく。私が私の記憶ゆえにそう感じているだけなのかもしれないが、それでも確かに今まで「小学校の思い出話」は数えるほどしかしていない。

 今回それをわざわざ書くのは、一生消化できない塊がずっと腹の底に沈んでいるような気がしたからだ。不特定多数の見えるところでぶちまけて、私が助かりたい。そう思ったからだ。この後、できることなら、恨みを忘れて生きていきたい。


本編


 私は当時片田舎の小学校に通っていた。生徒数も少なく、誰がどんな家庭で育っていて、親がどこで働いているかもわかるような。そして、私がどこで何をしているかも全て筒抜けのような。そんな田舎。
 そこで私たちは、限られた人間関係を作って生きていた。今思えば、私たちはこの小学生の時には既に、田舎にひしめく特有の価値観に固められて生きていた。悪を許さず、和を乱さず。それだけ聞くと良い価値観のようにも感じられる。しかし田舎における悪とはつまり、力のあるものが悪と認めたもの全て、若しくはマイノリティのことであった。

 力のある親のもとに生まれた子供は子供の中でも上位の存在になる。力のない親のもとに生まれた子供は子供の中でも下位の存在になる。そうして、私たちのヒエラルキーはずっとずっと続くのだ。私は、確実にヒエラルキーの上位にはいなかった。

 そうして過ごすうちに、突然事件は起こる。

 5年生のある日、同級生のヒエラルキーの高いメンバーの集まった女子グループから一人が弾かれた。理由は知らないが、とにかくその子が一人になる時間が増えた。
 しかしそれは数日も続かない。他のヒエラルキー上位グループが、彼女を仲間に迎え入れたのだ。(彼女を迎え入れたグループをAグループとしよう。)そうして、私たちは安定を取り戻した。私の学年では、弾かれる人が入れ替わりながらしばらくそんなことを繰り返していた。
 当時、それはただの喧嘩とその収束のループのようだった。

 そしてついにある日のこと、私のグループでも突然喧嘩が起きた。そしてその喧嘩の結果、Bちゃんが弾き出された。しかし彼女のことをなかなか誰も救おうとしなかった。この時、これがいじめであると初めて明らかになったように思う。聞こえるようにBちゃんの陰口を叩く、彼女を不潔なもののように扱う。そんなことが学年全体で起こり始めていた。私は彼女と喧嘩をした当事者の一人で、何度か親を含めグループ全員で話し合いをしたが、親がいる手前の表面上の解決のみで、実情は解決しなかった。校内で彼女を含めグループメンバー全員で話し合ったこともあった。その時「名越ちゃん、変わったね」と彼女から言われ、私は強い言葉で彼女に言い返したのを今でもはっきりと覚えている。今思うと、当時家庭環境があまり良くなかった私は、彼女をストレスの吐口としていたのだと思う。

 そうこうしている間に、私のいた今までのグループはなくなり、私は新しい子と2人でつるむようになっていた。

 それから少し時間が流れ、Bちゃんはどういう流れからか、他のグループに迎え入れられた。そのグループというのがAグループだ。奇妙な感覚があった。なぜならAグループは積極的に陰口を叩き、いじめを主導するような存在だったからだ。今までに起こっていた比較的小規模な仲間外れの時もそうだった。Aグループは一番恐ろしいボス的なグループだった。

 そうして、ついにその日は来た。
 私が、みんなから避けられ始めていたことは薄々勘づいていたが、私と最後まで一緒にいた子からもある日「絶交しよう」と言われた。私はこの子からの絶交の申し入れは、当然かもしれないと思った。私が自己中心的で、優しくないことを、私が誰よりも知っていたから。そして、いじめをした人がいじめられると信じていたから。
 なんとなく、この時は焦りや恐怖より、覚悟と諦めが私の中にあったように思う。もちろん悲しい気持ちもあったが、やはりどこかそれを受け入れていた。
 そうして、私へのいじめは始まった。
  私は、今まで通りやがて収まると思っていたし、私をいじめた人が次にいじめられるのだろうと思っていた。

 結論から言うと、私へのいじめは自動的にはおさまらなかった。
 人間はされたことをより強く覚えていると言うから、ここで私が受けたいじめの内容を、少し書いていこうと思う。もしかしたら、Bちゃんも、その前に弾かれた人々も、これと同じ被害にあっていたかもしれない。

 ある日、学校に行くと下駄箱にシューズがなかった。私は焦って、全ての下駄箱の上から下まで、全部探した。その時、比較的いじめには消極的な男子生徒が登校してきたため、一緒に探してと私は頼んだ。しかし彼は「知らない」と一蹴し、すぐに教室へ上がってしまった。私はその後しばらく探し、やがて諦めて靴下で教室へ上がった。朝礼の後先生に報告し、スリッパを貸してもらうまでの、あのひどく屈辱的な気持ちを今でも鮮明に覚えている。そして、1日を終え、帰宅すると母親宛に先生から電話がかかってきていた。母親曰く、私のシューズは、学校の農園で見つかったらしい。私はそれを聞いて、「投げ捨てられたのだな」と思った。なぜなら、学校の農園は、下駄箱横の窓からすぐ下に見えるのだ。小学生がシューズを投げれば必ず届く。しかし、教師の言い分は、こうだった。「犬が持って行っちゃったのかも」小学生ながらに、アホかと思った。いや、当時私は6年生だ。6年生ともなれば、ある程度論理的に考えることもできる。

 またある日、職員室の前で、先生に頼まれたものを運ぼうとしていると、ソッと誰かが背中に触れた。振り返ると、とある男子生徒と目があった。
彼はニヤッと笑い、走り去っていった。私はその時、一瞬だけ嬉しかった。ついに誰かが私を救ってくれるのかもしれないと思った。だから、私も彼に向かって微笑み返していた。
 しかし、そんな幻想はすぐに崩れる。教室へ戻ると、とても静かなタッチ鬼のようなことをしていた。座ったままだったり立ったままだったり、タッチされた人が、タッチされたところをぬぐい、すぐに次の人にタッチしている。タッチというよりは、なすりつけだった。すぐにわかった。それは「エキスタッチ」だ。私のエキスをなすりつけ合っているのだ。
 エキスタッチは教室内で日頃から行われていた。嫌われている先生の触ったところなどにわざと触り、それをなすりつけるなどが、日常茶飯事だったのだ。
 そのために背中を触られたのだと合点がいき、悔しかった。

 そしてここからは、私が今でも一番恨んでいる話。

 ある日、教育相談が行われた。私は、それまで「心の相談室」という校内にある一室のカウンセラー的な役割の先生にしか、いじめの件を話していなかった。そしてまた、カウンセラーにも期待はしていなかった。話しても、何も起こらないから。とはいえ、それでもカウンセラーに話すのが一番マシだ。私は教育相談の相手の教諭にもちろんそのカウンセラーを指名していた。しかしカウンセラーは美人な女性教諭ということもあり、人気が高かった。私のこの日の相談相手は、担任だった。
 私はこの担任との面談をとにかく早く適当に終わらせたくて、無難な回答しかしていなかった。そして、もうすぐ終わるというところで、担任が私にこんな質問をしてきた。
「ところで、友達は居る?遊ぶ人とか。」
私はこの時、助けを求めるか、無難にやり切るか少し迷った結果「いません」と答えるつもりだった。そして、私が口を開こうとした時、担任の彼は続けてこういった。
「あ、居ないはナシで。」
 この時の彼の笑い顔はいつまでも忘れられないだろう。私はその後、とにかく号泣したことだけを覚えている。

 その後も「死ね」と書かれた紙が出てきたり、卒業文集の寄せ書きで書き込むスペースをほとんど残してもらえなかったりしながら、時は進む。
 そしてある日、突然私の限界が来た。卒業用のビデオメッセージを出席番号順に二人ずつ撮影していくのだが、この時、私とペアになるのがあのAグループの一人、Tちゃんだった。するとすかさず他のAグループのメンバーが「え〜、Tちゃんかわいそ〜」と言ったのだ。なぜだかわからないが、これが私の限界を突き抜けた場面だった。
 その日私は泣きながら帰宅した。そして母親に泣いている訳を聞かれた。私はその日の出来事だけを話した。すると母親は「なんで言い返さんの!」と私を怒鳴りつけた。(ここで少し母を救うために補足したいが、当時の母は、とにかくさまざまな要因でのストレスが尋常ではなかった。また、Aグループにいる子供達の親にも翻弄されており、とにかくその、何か母親のピンポイントのタイミングを突いてしまったのだと思うのだ。本来母親はとても優しい。)
 そして、自室に篭り泣き続けていると、どうやら母親が父親に話したらしく、父親が電話越しに担任を怒鳴りつけていた。電話の内容は詳しくは知らない。

 翌日、学校へ行くと、とても授業どころではなかった。
 一時間目から学級会議。しかし、学級会議を取り仕切る先生は、私の担任ではなかった。いじめ知らずの、1つ下の学年の担任。彼は熱血教師として有名で、私が悪いことをした時や、私が自信を無くして泣いた時も、まるで松岡修造のように熱く怒ったり励ましたりしてくれていたので、彼がここにいるのは納得だった。彼のおかげでなんだかスムーズに学級会議は進んだ。そうして終盤、ついに担任と熱血教師が交代した。熱血教師は授業のためかいなくなり、私たちと担任だけが残された部屋で、担任は多分さまざまなことを話していた、と思う。そして最後、彼は私の名前を呼んだ。そして、「いじめるのも悪いがいじめられる原因もある。前に出て、みんなに謝りなさい。」と言い出したのだ。不本意だった。ありえない。私は泣きながら前に出た。私は、私に「絶交しよう」と言ってきた女の子には名指しで謝った。私も悪いことをした自覚があったから。しかし、他の人たちには特に悪さをしていない。私がこのあとにどう言葉を続けたかは覚えていない。

 そうして、私のいじめは収束した。

 私は中学生になった。

 ここは片田舎。
 小学校と同じメンバーで、中学の門をくぐる。

 私は中学3年間、Bちゃんと、私に絶交を告げた彼女と3人で過ごした。

おわり
ーーーーーーー


心の整理の蛇足。


1.消化できたことと後悔


 正直私は、もう当時の同級生達を恨んではいない。私も誰かをいじめたのだし、私もいじめられた。あの小さな街で、一緒に過ごして、中学からは喧嘩をしつつも、比較的穏やかに過ごした。私をいじめた人たちとも、心の底から笑い合ったり、励ましあったりした。それは本物だと思うのだ。そうして、たくさん、私は彼らの感謝するような思い出もある。

 一方で私は今でもBちゃんをいじめたことを強く後悔し続けている。
 実際今Bちゃんは私が唯一全幅の信頼を置いてたまに連絡を取る、唯一の当時の同級生だ。昨年の夏も彼女に会った。その時、彼女が言ったのだ。「悪いことをして、やった側が何もなかったみたいにするのは違うよね。された側が許すかどうか決めることだよ。」
 これは、小学生の時の事件とは関係がなく、また中学で起きた別の出来事を指すのだが、私はこれに強く同意した。そして、この言葉は私とBちゃんの間には強すぎて重すぎる言葉でもあった。私たちはお互いにお互いの加害者で、被害者だ。もしかすると彼女は意図的にその言葉を選んだのかもしれない。
「あの田舎を出て、考えを変えられてよかった。ずっとあそこに住んでいて、ずっとあの思想だったらと思うと、怖い。」
 彼女はそうも言った。
 私もそうだと思った。


2.消化できない恨みつらみ


 私は正直当時の担任のことをずっと消化できずにいる。
 小学校卒業以来、私はずっと、成人式に担任と再会することをずっと楽しみにしていた。これは当然前向きな気持ちではなく、どんな顔か見てやりたい、というかなりネガティブな気持ちで。
 20歳になってもずっと思い続けた。

 そして成人式が近づいた日、幹事を任されていた同級生から、当時の担任から参加できないと伝言があった旨を聞く。当然だと思ったし、きっとそうなるとわかっていたが、とても残念だった。もう一生、私は彼に会うことができないのだろう。今でも彼はどこかでのうのうと小学校教諭をしているのだろう。そう思うと腑が煮える思いがする。

 しかしもうこれは、何年も前に終わったことだし、恨み続けていてはいけないのだ。彼にどうこうというわけではなく、自分自身として。今の人生にまったく必要でないことなのだ。

 だから私はこの恨みを捨て去りたい。

 許すことはできないが、手放したいと思う。

 ここに思いの丈をぶちまけて、この記事を保存したその時に私を解放する。


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