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君たちは時間をどう使うか

「これは、ちょっと、今すぐサインはできないんですが…」

目の前に置かれた願書を凝視しながら、私は苦笑いした。これぐらい当然ですよ!と言わんばかりにガンガンにぶち込まれた講座は、我が家にとってはあまりにも高額だというのに、一通りの説明を受けた後にこれまた当然のように、

「さぁ、長男くん。ここにサインしよっか!」

と、長男に願書を向けて誓約書の生徒指名欄に署名を促した校長に、私は今すぐ厳島神社の大鳥居にタッチできるくらいの勢いで引いたし、「えっ、いやぁ…」と椅子に仰け反ってあははと笑って誤魔化す長男も間違いなく大鳥居まで行けるほどの干潮だったと思う。あぁ、宮島に行きたい。

大学受験をしていない私は、受験の大変さやスケジュール、あと費用に関してびっくりするくらい無知なものだから、「塾の体験に行きたいんだけど」と言った高2長男に、「行っといで。入るかどうかは自分で決めたらええから」と渡りに船とばかりに答えていたのだけど、実際に入学に関しての説明を聞きにやってきたその日、それは『入学』を前提とした説明であったことに驚いた。

もちろん入学に対して前向きであるのは間違いない。だから説明を受けたいと思ってやってきた訳で、ここで二の足を踏むのは事前に提案書をきちんと検討してこなかったうちにも非があると思う。でもね、提案書だけでは内容が複雑過ぎて分かりにくいんですよ。そして料金が高いんですよ。べらぼうに。

提案書をもとに作成された願書に書かれた金額は87万超。入学金や担任指導料、模試代金と10講座映像授業のセット。講座は「1講座ずつ取るより10セットの方が割引されてお得ですよ〜」とのことであれもこれもと追加され、「入金確認された翌日から授業が受けれますから!」と笑顔で言われたところで、ほんの数分前に提示された87万円を「了解です!」と二つ返事できる程の余裕はうちには無いのです。

「今日は説明を聞くだけのつもりだったので、サインはちょっと…」

チラリと隣を見ると、ほっとした顔の長男が見えた。そりゃそうだろう。まだ17歳の未成年であってもサインをするという行為の重大さは理解している。戸惑うのは当然だし、むしろ勢いに呑まれずに差し出されたペンを受け取らなかった息子を私は賞賛したい。

「今、次男が受験生なんですよ。第一志望の公立が微妙で、もしかしたら私立に行くかもしれないので、一度検討させて下さい」

そもそも長男が10講座も希望していない。彼は最初に1〜2講座とって自習室を使いながら自習し、足りないと思ったら講座を増やしていきたいと話していて、私もそれでいいと思っていた。しかし校長は、あれが足りていない、これも足りていない、早く進めないと間に合わない、この講座数は必須です、という。

そうかもしれない。

ほぼ運で受かった進学校の底辺にいる長男の成績では、第一志望大学を受けるのに足りていないものばかりだろう。しかも受験まであと一年ちょいしかない状態では、手遅れになる前に一日でも早く補わなければいけないのも分かる。

でも…

なんか違うと思う。足りていないからといってガンガン詰め込んで、自分の時間が無くなって、勉強だけの日々になるなんて違うと思う。本人がそうしたいと言うならこちらも腹を括るけど、そんなことは私も長男も望んでいないのだ。

「主人とも相談させて下さい」

校長の「次男君の入試はいつ終わりますか?」「ご主人とは帰ったらすぐに話せますか?」「22時まで僕はいますので、いつでもご連絡下さい」という滝のような言葉をどうにかすり抜けて席を立った。

「疲れたね」

「疲れた」

混み始めた電車のドア付近の手すりを掴む。少し離れた場所で軽く足を広げてバランスを保った長男は、リュックから単語帳を出してページを捲る。そのスムーズな動きから、いつもそうやって単語を暗記しているのだろうと思った。

あれこれも足りていないのだろうか…

頭の中で校長の言葉がグルグル回る。
受験に関して無知な私でも、今のままで長男が第一志望に受かるとは思っていない。かなり努力しないと難しいことも分かっているつもりだ。

それでも…

それでもやっぱり私は単語帳を捲る長男を見詰めながら、今日サインをしなくて良かったと思った。



夫は校長の強引さに腹を立てていたものの、最終的には本人に任せると言ったのでしばらく様子を見ることにした。長男は残りの体験に通いながら「どうしよっかなぁ」と悩んでいた。

「他の社員さんに相談したら、少ない講座でもいいって言ってくれて」

校長とはどうにも合いそうになかったが、講座の内容や自習室の環境、高校の最寄り駅前という立地は気に入っていて、どうにか自分の希望に合うよう模索していた。

「でも高3になったら、5講座以上じゃないと自習室が使えないんだって」

家ではあれこれと誘惑に負けてしまうから自習室で勉強をしたい、そして通いながら自分に必要な講座を増やしたい、それが最初から言い続けている彼の希望だ。

「もしさぁ、5講座も必要じゃなかったら通う意味ないんだよね。自習室使えないから。それだと今ここに入っても、もったいないんだよね」

そう悩む長男に「別にもったいなくないけど?」と言うと怪訝な顔をされた。その顔を見て、あぁお金の心配をさせてしまったと反省しながら告げる。

「お母さんはな、あんたが『やりたくないこと』に対して払うお金はもったいないと思うけど、あんたが『やりたいこと』に対して払うお金はもったいないとは思わへんねんな」

「うん」

「だから通ってみてやっぱり違うなと思って辞めても、別にもったいないとは思わない。やってみないと分からんことってたくさんあるから。そこは気にしなくていいんやで」

「うん」

「あんたはな、ただ自分の時間をどう使うかだけを考えてみ。勉強はもちろん大事やけど、まだ部活もあるし、高校生活も楽しみたいやろうし、その中でどれだけ勉強に時間を費やすべきかを考えたらいいと思う」

「うん」

「お金よりあんたの時間の方が貴重やからね。すぐ終わるで、高校生活」

長男は少し間をおいて「はい。分かりました」と言った。なんで敬語?と笑いそうになったけれど、親としてここは笑う場面ではないと必死に堪えた。



そこから彼の行動は早かった。

翌日、スタディサプリをダウンロードして欲しいと言い、同時にテキストも注文した。それから自分で別の塾を探して体験申し込みと資料請求を行い、三日後には実際に授業を受けてきた。

「僕の話を聞いてくれるんだよね」

新しく体験に行った先の校舎長は、まず長男の希望を詳しく聞いてくれたようだ。それを軸に無料冬期講座を勧めてくれ、その後で講座を決めていけばいいと言ってくれたという。

「全然違うやん」

「そうなんだよ。基礎や先取りはスタディサプリで進めたいんですって言っても反対されなくて。それに見てよ、これ。映像授業が1000講座ぐらいあってさぁ、必要な単元だけとれるから時間の短縮にもなるしね」

早口で喋る長男は本当に嬉しそうだった。そして私も、その日のうちに校舎長が「今日は息子さんが体験に来て頂いてありがとうございました」とお礼の電話をくれたことが嬉しかった。


結局、最初に体験に行った塾には夫から断りの電話を入れ、今は自分で探した塾の無料冬期講習待ちとなっている。まだそこに通うかどうかは分からないけれど、ダウンロードしたスタディサプリは「めっちゃいい!」と満足しているようだ。

「やっぱりさぁ、あそこの大学に行きたいんだよね」

夢は膨らむ。その為に頑張らなくちゃいけないことがたくさんあるけれど、私は目標を見つけた長男は最強だと思っている親バカなので、きっと乗り越えていくと信じている。


限りある時間を大切に。
残りの高校生活も充実した日々になりますように。



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前回の記事で100週連続投稿を達成してから、すっかり燃え滓となっておりました。また自分のペースで投稿していきますので、よろしくお願いします。



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