『嫌われる勇気』第三夜🌙~他者の課題を切り捨てる~
『嫌われる勇気』
(岸見一郎、古賀史健/ダイヤモンド社)
ウザイ企画が始まった!
私は本を読むときに、線を引いたり、感じたことを余白に書き込むタイプです。今回はそれをnoteに書き込んじゃおうというウザイ企画を思い付いてしまったので、実行させていただきます。
この記事をお楽しみいただくために…
この記事は、実際に今この本を読んでいる方に向けて書いています。イメージとしては、「あなたは『嫌われる勇気』を読んでいる。その隣で私も同じ本を読んでいて、事細かに感想を言ってくる」という感じでしょうか。
そのため引用はごく一部分だけとなっております。実際に本を片手に読み進めながら、まるで一緒に読書しているかのような感覚をお楽しみいただけたら幸いです。
では、まいりましょう。
『嫌われる勇気』第三夜🌙
子どもがなにをしているのか知った上で、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。(p142)
「え、難しい…」というのが私の第一印象。笑
本人の課題であることをどう伝えるか。そこが大事ですよね。
私の友人で、いろんな意味でとても頭が良い人がいるのですが、子どもに何か注意する時に「そういうことをしたらどうなると思う?」と問いかけ、子どもに答えさせて「そうだね。じゃあ、それはしちゃダメだよね」という伝え方をしていて、しつけ方もしっかりしてるなぁと感心したのを覚えています。
この伝え方のポイントは2つ。
①ダメな理由を伝えている
②理由をそのまま言うのではなく、まずは子どもに考えさせる
注意されたことに対して、ちゃんと納得していることが大事。これは子どもに対してだけでなく大人に対しても同様ですけどね。
納得していなかったら、親の目がなくなった途端に行動は元に戻ってしまうはずなので。
あと自分で理由を考えさせる効果としては、応用がきくようになることがあげられると思います。
そうなると、あと大人が考えなければいけないのは「理由」。たとえば勉強なら「なぜ勉強しなければいけないのか」ということ。
普段からちゃんと考えて行動していれば、改めて今考える必要はないんですけどね。
「親にそう言われて育ったから」「みんながそうしているから」みたいな感じで行動していたら、子どもにちゃんと伝えられないですよね。
そう考えると、普段からいかに「自分で考えて行動しているか」というのは、自分の人間力を高めるだけでなく、子育てにも影響してくるんですね。
「私も自分の行動について、改めて考えるいい機会になりました」という文章で締め括ろうと思ったのですが、多分このままでは私は改めて考えないな、と気付いてしまったのでその理由を考えてみましょう。(自分を追い詰め過ぎでしょうか…?)
面倒だからというよりも、「なんか嫌」という感じがするのです。なぜ嫌なのか…。
それは、今までの自分を否定することに繋がるからかもしれません。
今まで自分はそれが正しいと思っていたけど、ちゃんと考えてみたら実はそうじゃなかった、ということに気付いたらツラいですよね。
でも、気付くのが遅くなるほど後悔は増すので気付くなら早い方がいいですよね。
それに自分の行動の理由を改めて考えてみて「やっぱり私の考えは間違いじゃなかった」と自信につながることの方がきっと多いと思います。自信がつけばやる気も起きてさらに成長できますよね。
頑張れ、私!
たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。愛することができるか。(p145)
「え、難しい…」(本日2回目の発言)
ちなみに青年も、
「むずかしい、むずかしいですよ、それは!」(p145)
と言っているので、私だけじゃなくて安心しました。
別の本からも引用します。
問題は、果たして私は愛されるのだろうか、裏切られてしまうのではないかとあれこれ悩んでいると、それが相手に伝わってしまうということです。その結果、相手も何とはなしに警戒心を抱いてしまって悪循環になってしまう。傷つけたいのならば、傷つけてもいいよ。私はあなたのことを信じているよ。こんなにも好きだよ。そんな気持ちを素直に表現できる人になれれば、きっと愛にあふれる生活が待っていることでしょう」 『 茂木健一郎の人生相談』
うーん、なるほど。
(ちなみに茂木健一郎さんは脳科学者の方です)
二人の言葉を並べてみてふと思ったのは、誰のことも信じろというわけではなく、信じたい人を信じればいいんだよね、ということ。
先程のアドラーの言葉は言い換えると、「自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じたいと思える人か。愛したいと思える人か」と言えるのかな。
そう考えると、信じるのは自分の課題だから、傷ついてもいい覚悟で相手を信じる。
でも相手の反応を見て信じたくなくなったら、信じるのをやめて離れればいい。
そうすることで、お互い信じ合える人だけが自分のまわりに集まることになる。
…それにしても、
「傷つけたいのならば、傷つけてもいいよ。私はあなたのことを信じているよ。こんなにも好きだよ。」という言い方。
切なくて泣きそうになります。
こんなこと言われたら、逆に「この人を傷つけないようにしよう!」「信じよう!」って思いますよね。
良好な人間関係を結ぶには、ある程度の距離が必要です。距離が近すぎて密着してしまうと、相手と向かい合って話すことさえできなくなります。(p153)
距離が近すぎると、つい普段から寄りかかってしまう気がします。いなくなったら自分は倒れてしまうから、動かないように相手を縛りつけたくなってしまう。相手の自由(自分らしさ)を奪ってしまう。それが束縛や執着に繋がるんだろうな。
その上、自立できていない私のことを、相手は良いとは思わないだろうから心も離れてしまう。
「寄りかかる」のではなく、「寄り添う」くらいがちょうどいいのかなと思います。口で言うのは簡単ですけどね。
欲望や衝動のおもむくまま生きること、坂道を転がる石のように生きることが「自由」なのかというと、それは違います。そんな生き方は欲望や衝動の奴隷でしかない。ほんとうの自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような態度なのです。(p161)
この部分はこの本の中でもかなり重要な部分だと思います。正直、最初読んだときはよくわからなくて何度も読み返しました。
別の本からも引用します。こちらは私の過去のメモを写したので、実際の文章とは異なる可能性があります。
ホルモン自体は良いものでも悪いものでもない。要は使い方。人間社会は昔と様変わりしたけど、脳の作りはそれに追いついていない。中野信子『ヒトはいじめをやめられない』
中野信子さんも脳科学者の方です。
私たちは放っておくと本能的に行動してしまいます。人から嫌われないようにみんなにいい態度をとろうとしたり、自分を守るために「仲間と敵」を作ったり…
『嫌われる勇気』第二夜で、我々は向上したいと願う「優越性の追求」という普遍的な欲求を持っている、という話がありました。この欲求を満たすことで人は幸せになれるとしたら、本能や衝動のまま生きることでは「自分が」目指す自分にはなれないから幸せになれません。ホルモンによって感じたままに生きるのも同様。
人は幸せになるために生きる(私の持論)
↑
そのためには優越性の追求という欲求を満たす必要がある
↑
そのためには本能やホルモンに支配されずそれに抗ったり、うまく利用することで理想の自分に近づいていく。
誰かと比較・競争したくなるのは本能的なものでついやってしまいがちだけど、それでは幸せになれない、ということを理性的に理解して、他人との比較・競争という本能に抗うことが必要。努力を要することもあると思いますが、それが結局は幸せ(楽)への一番の近道なのだと思います。
すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことです。(p162)
不可能だとわかっているなら、早く諦めた方がいいですよね。どう考え、どう生きてもどうせ誰かに嫌われるなら、自分の生きたいように生きた方が得ですよね。
それに、その方が自分の好きな人がまわりに集まりやすくなると思います。
承認欲求に縛られていると、対人関係のカードはいつまでも他者の手に握られたままになります。(p169)
承認欲求に縛られるということは、他人の評価という不安定な基準で生きていくことになります。
私の人生で大事なこと
・心の平穏
・論理的
・人生に対する納得感
これらを得て幸せに生きるには、不安定な他人軸ではなく、練り上げられた自分軸で生きていかなければなりません。
「練り上げられた」というのは、自分で一生懸命考えたり行動したりして作り上げるもの、ということ。何となくのイメージや感情ではなく、ゆっくりでも確実に積み上げていくから、簡単に揺らぐことはなく安定感があります。
『嫌われる勇気』第三夜🌙をお読みいただきありがとうございました。第四夜でまたお会いしましょう。
貴方にこの記事を読んでもらえたおかげで、今日は私にとって素敵な1日になりました。貴方にとっても、今日が素敵な1日でありますように…☆
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