ワイン造りにおけるイノベーションのジレンマ
皆さんは「イノベーションのジレンマ」という本をお読みになったことはあるでしょうか?
ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授が著した本で、世界中でベストセラーとなった著作です。
この本では「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」という2つの軸から企業の栄枯盛衰を分析しています。
実はこれと全く同じことがワインにも言えます。
ワイナリーでは世代の交代や醸造責任者の交代によって、時としてそれまでになかった新しいチャレンジに挑みます。それまで試したことのなかった造りやコンセプト。内容は様々です。
こうしたチャレンジは時として大きな実を結びます。それまでにやってこなかった全く新しいコンセプト、そしてそのために採用した全く新しい醸造手法が評論家に高く評価され、好意的なテイスティングコメントと共に高得点を得るのです。
しかし大概の場合、そうしたワインは売れません。それはもう、有名評論家の方の点数って何だったんだとびっくりするくらいに売れ残ります。
それが分かっているので、ワイナリーはそもそもそうした新しい試みのワインを小型タンク1つ分、バリック1樽分程度しか仕込みません。言ってしまえば評論家と一部の愛好家に出すためだけに仕込むようなものです。
なぜ売れないのか。簡単です。新しい試みに価値を認められないどころか、忌避されるからです。
新しいコンセプトや新しい醸造上のアプローチは、これまでに造ってきたワインとは味も香りも変わります。それが評論家から高く評価された理由だったにも関わらず、ワイナリーの顧客からは嫌厭される最大の理由となるのです。
この反発は時としてワイナリーが想定する範囲を大きく超えます。
気に入らなかったその1本のワインだけを避けるのではなく、その1本のワインからワイナリーで造っているすべてのワインの味と香りが今までとは変わる、もしくは気に入らないと想像し、ワイナリー自体から足が遠のいてしまうところまで過剰な反応をされてしまうのです。
少し思い出してみてください。
毎年買っているお気に入りのワイン。ある年に飲んでみたらそれまでと味や印象が違う。不味いわけではないけれど、自分が期待していたものとは違う。そう感じたとき、今後買うのは控えようかな、と思った経験はないでしょうか?
一度そうして離れた顧客を取り戻すことは非常に困難です。また一般的には評論家の高い評価によって獲得できる顧客の数は離れてしまう顧客の数に及びません。つまり、ワイナリーとしては固定顧客数の純減リスクに見舞われます。
ある程度の歴史があるワイナリーほど固定客に占める販売割合は高くなっていきます。ドイツのように規模がそこまで大きくないワイナリーが数多く存在する場合にはこの傾向は特に顕著です。
人気商売と呼ばれるビジネスや、ファンビジネスと呼ばれる形態のビジネスを想像してください。そうしたビジネスではファンの期待を裏切ることは致命的です。ワイナリーも同じです。ワイナリーもファンと呼ぶべき顧客の存在のおかげで毎年安定した売り上げを得られています。
固定客は基本的には守るべき顧客です。しかしそうなると、ワイナリーは売り上げを守るためにも大きなチャレンジ、つまりファンの期待を裏切る破壊的イノベーションは極めて採用しにくくなります。
一方で若いワイナリーや新しく始めたワイナリーはそんなことにはお構いなしです。まだ守るべき頑固な顧客がついていませんので、自分がやりたいことをやりたいようにやり、その結果を持って顧客を開拓していきます。そこに古参のワイナリーが抱えるような困難はありません。
ワインにはその時々によってブームがあります。分かりやすいところでは、樽の利いたシャルドネ、オレンジワイン、ビオワイン、自然派ワインなどの単語から思い浮かぶものなどです。つまり、ワインも時代によって変わっています。もちろん、消費者の嗜好も変わります。
そうした中でワイナリーが生き残っていくためには何が必要なのか。
ワインが積み上げてきた長い長い歴史とそこに出来上がったクラシックや正統派という考え方だけで足りるのか。
そもそもワイナリー関係者はこのジレンマに気づいて、もしくは気づけているのか。
そして飲み手としてのあなたも、頭ではワイナリーは挑戦すべきと思いつつ、飲んだワインの味や感想がそれまで考えていたものとは違った時、買い控えてしまった経験がどれほどあるのか。
ワインをめぐるイノベーションのジレンマは、きっと思っているよりも根深いところにあります。
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