人生最後の仕事 『美術館を作る』
どうも、note界隈の皆さん、お久しぶりです。なぎさです。名前を変えてから半年近くですが、最近お給料をもらうような仕事をしまして、それの封筒に『なぎさ殿』と書いてあってついにどんどん浸透してきてて楽しいなと思っています(偽名を使って働いているわけではありません。ちゃんとその人が尊重してくれているのです、、)
今回は最近やってることについて自由にふらふらと書いていこうと思います。
改めて『言語化』を定義した
教育系の仕事をしているからか、言葉にさせる機会が多い。やれ問題を解け、やれ本質を探せ、色々言ってますが、言葉にするというのはある種の自分フィルターみたいなものを通してしかできないので、全く同じことに対して輪郭も全く同じ言語化をすると言うのは不可能である。
そして、それに関しては自分でさえも気付けないことの方が多くて、地方の子が東京に行って、『あ、これって方言だったの』と言われるまで気づけないそれと全く同じ。自分が普段使っている言葉は自分が意味を変えてしまっていると言うのに気づけない。だから人は揉めるし、勘違いというものが発生する。
僕がこうやって書いた言葉も、これまで生きてきた中での経験で作られたフィルターを通しているから、きっと全ての脳内を表現することは難しいし、なんならできない。だからこそ、それは言語化ではなく、自分化でしかない。つまり、言葉を発するということは、自分を定義することと等しい。
じゃあ言語化とはなんなのか。それはフィルターを通す前の言葉である。日本語とか英語とかそういう次元でなくホモサピエンスとしての本能のようなものが存在する。何も考えずに話してみて〜と言われると「ウェ〜〜〜」とか「ポゥ〜〜〜」とか実際言っちゃう人の方が多い。しかし、それはあくまでも言語化ではなく、本能的なものだ。脳も使ってない。だから動物はきっと、変な声しか出せないんだろう。知らんけど。
となった時に、言葉を作るというのはとても人間的な営みの中で人間が人間たらしめるために重要なことである。だからこそ、僕は人間的に生きて生きたいので、改めて言語化の定義をした。言語化とは、“1次元“ である。
僕らは脳内で勝手に、網膜に移った世界を積分して、空間にしている。それを積分ではなく微分することで、言葉というものが生まれてくる。見える平面をチョキチョキ切っていくのだ。それを細分化し尽くしてバラバラになったものが、言葉だ。
目に映るもの、それをありのまま言葉にする。ただそれだけでいい。言語化とはそういうものである。勝手に変な解釈を入れるのではなく、流れている時間、空間、色、世界、そう言ったものただ、切り取って言葉にする。それだけでいい。2次元ではないから、自分にしか伝わらない。でもそれが言語化。あくまで伝える手段ではない。自分を理解するためにある言葉だ。
昔自分は、言葉にしないことについてとある人と揉めたことがある。自分のフィルターを通してそれらを伝えるには、どうもその言葉が、なかったからだ。愛を受けてこなかった人は愛を伝えることができないし、怒りをぶつけられてこなった人は、他人に怒りをぶつけることができない。フィルターの育成ができてないと今の世界の言語化では、言葉にできないシーンが増えていく。
そんなことはさておき
こんなことをつらつらと書いていると余裕で日が暮れていきますので、この辺に。言語化という概念と向き合ったこの5年間だったと改めて感じ、その思考に一旦蓋をして次のフェーズへ進みます。
改めて 『アート』 を定義した
本題はこちら。実は、この数年間、いろんな絵を思い立って書いてきた。あまり人には見せてこなかったかもしれないが、それはもういろんな絵。
実は、家庭環境が複雑なわりに親が頑張ってくれて文化資本的なものを構築するために博物館に連れて行って来れたりしていました。そこでその博物館のデッサンとかをしてたことを覚えています。当時から絵が好きだった。
それを現在の僕はアートというものとして何か意味づけをしようとしている。理路整然とした言葉にしようとしなくても湧き出てくるものがそこにある。なぜあの絵の題名は、涙 なのか、呼吸なのか、僕でも到底理解することはできないが、そう名づけてしまったのだから仕方ない。
現代アートとかいう腫れぼったいアイテムが僕をそうさせているのかもしれない。現代アートは受け取り手によって決まる。とはよく言ったもので、それは受容ではなく諦めもどこか感じてしまう。現代アートに漂う哀愁はまさにそういうことだったのかもしれない。最初はとても現代アートが好きだったが
そこから作者の人生がなかなか透けてこない。作者がいないような感覚。メッセージがこちらに委託されている、こちらのフィルターを使ってどう感じるかだけを考えろ!と突き放されている感覚がある。それは果たして、アートを楽しんでいるといえるのだろうか。僕らはきっとまだアートという大きな概念の手のひらの上でコサックダンスを踊らされている状態だ。
だから僕はアートも定義しようと思った。アートを定義することで、フィルターがまたひとつ、薄くなるのではと思った。
アートとは『目的であり手段である』
ほとんどの場合、手段と目的は、同値関係にないことが多い。それぞれが包含し合うなんてことがないからだ。目的という集合がそこに存在するなら、手段は行列の概念に近くて、今の現状に手段という行列を掛け合わせる演算をすることによって。目的に到達できる。 みたいな感覚だ。(わかる人に分かれ!)
もっと簡単に表現すると、目的が2階に上がること だった時に梯子を使う人もいれば階段を使う人もいればパルクールをする人もいる。それのどれがいいかを選択することが手段を選択する みたいなこと。
しかし、アートは面白くて。目的も手段の役割を果たすし、手段も目的になる。これは僕もなぜかわからない。最終アートに人間が求めることは手段でも目的でもなく、ただ佇むことだった。だから自由に楽しめたのだが、実はそれは人間が、アートに対して手段と目的、両方に対してアプローチさせようとしているから、手段でも目的でもなかっただけで、手段でもあり目的でもあるのです。
人間は、人生をアートするために生きているし、人生をアートするために、アートを使う。じゃないとそれが成り立たないのです。非常に面白い概念だ。多分面白がってるのは僕だけ。。。
美術館を作る
この“言語化“と“アート“という言葉二つが僕の中では今超ホットで、二つの定義について話しましたが、これが僕の今の人生最後の仕事に繋がってきます。
これまで毎月美術館に行くというルールを設定して上半期いろんな美術館に行ってきた。それはそれは、どこの美術館も非常に面白かったが、どこか不完全感が全ての美術館にあった。なぜか没入できない。なぜか邪魔が入る。
人がそこにいるからかもしれないが、どこか、鷹の目になれる自分が存在する。置きに行ってしまう自分が存在する。だからとてもエゴイストかもしれないが、自分が美術館を作ることによってそれを解決するという算段だ。それには莫大なお金が必要だし、莫大な時間が必要だし、建築家やデザイナーを入れないとお話にならないかもしれない。でも
美術館を作りたいんだ!と叫ぶことは誰からも邪魔されないことだ。誰がなんと言おうと自分が作ると決めたからやりきる。ただそれだけのこと。まだまだ解像度は低いが、こういうときは、美術館の定義からスタートする。美術館とは一体どんな空間なのか、下半期も毎月美術館に足を運んでいろいろ検証して見ようと思う。
それが僕の人生の使命であり、やらなくてはならないことだ。
これからもnoteに進捗を上げていくので、皆さんご高覧ください。。
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