「共感」の内側にあるもの。

今まで生きてきて、何度か言われたことのある褒め言葉に、「人の話を共感して聴く」みたいなものがある。実際に私の態度のなにかに、癒やされたり救われたりした人もいたのだろうと思う。でも、私にとってそれは、言われて嬉しいというよりも、モヤモヤ複雑に感じることで、

唐突な喩えになるけど、「お葬式の途中で自分がいきなり笑い出すんじゃないかと不安で、必死で周りの人に合わせて悲しい顔をしていたら、深く悲しんでいると思われた」みたいな感じというか、「こんな場面では人はこんな気持ちになる」という共通感覚みたいなものが自分には欠けていて、それを全力で取り繕った結果「ひとに共感する人に見えている」んじゃないかという気がしている。

「感情には個人差がある、どう感じるかに正解はない」というレベルを超えて、自分には人として大事なものが欠けているんじゃないかと思っていて、でもそれを認めたくないし人に知られたくなくて、常に葛藤している感じ。

回路がおかしくなったロボットみたいな自分を、変なアクションを起こさないように監視しつづけているような。

そして私にとって、その、壊れたロボットの制御がうまくいっている形と、"接客のルール"は、重なるんだと思う。

相手の立場に立って。相手の目線から見た自分を意識して。不快感を与えないように。いつも笑顔で。自分を下げて、相手を上げて。

自分の人生のルールと重なるからこそ、ある意味では簡単にできたし、でも、だからこそ違和感も深いのかもしれない。

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