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「春」と呼ぶとき

今日、伊丹駅で平田オリザさんに出会った。声はかけていないので実体として存在していたのかはわからない。平田オリザさんとは以前グランフロントでのトークショウに行った際、少しお話して写真を撮ってもらった程度で一方的に知っている。間柄なんてものはないに等しい。

3月半ば、東京で舞台俳優をしている友人から冬に公演があるので脚本を書かないかと声をかけてもらった。つい最近、人生の先輩に(と勝手に思っている)自分の雑多な輪郭がぼやっとした悩みを相談をした際、演劇をしてみてはどうかと提案していただいた。

近頃の私は舞台や演劇というものについて考えることが多いように思う。

考える、けれど、いつも思考は止まり、心許ない。のはなぜだろう。
以前から演劇や舞台は好んで観ている。劇団☆新感線、シルク・ド・ソレイユ、関西の小劇団や東京へ行った際も必ず一公演は観て帰る。
学生時代は舞台音響や友人の舞台の手伝いもしていた。
ラジオを仕事に選んだのも元々はラジオドラマを作りたかったからで、もっと言えば構成作家になりたかった。(あぁ、もう過去だな。過去の出来事になっているのかもしれない)

私の人生に舞台や演劇と接点がない訳ではない。けれど自分の中でそれは観客の領域から超えない。純粋に観客にもなれていないのかもしれない。
どこか冷静に観客席にいる自分と周りの観客を俯瞰でみてしまう。

演劇映画小説/武勇伝世間話会話

ストーリー性と枠を広げれば、少し安定感はあるのに。
限定された瞬間、急に視界が狭くなる。
馴染みがないと言ってしまえばその通りだけど、舞台上にしか存在しない圧倒的な狭間や瞬間を椅子に座ったままの私が知るすべはない。
取り憑かれたようにスポットライトを浴びるあの子も、存在していないのかもしれない。

もしかしたら、もしかして、そういえば

頭の中で別のストーリーが繰り広げられる。
今、舞台を、ストーリーを、誰かの人生を、作品を、目の前で観ているはずなのに、いつも私は自分の世界から思考から記憶から時間から抜け出せない。

電車の向かいに座った平田オリザさんをみつめる。
みつめる私は何を感じたのだろう。考えてしまった私はもう知り得ない。
少しもったいなかったかな。窓の外に映る春色と実体しているか定かではない感覚を、ただ景色として目に写せばよかったのかもしれない。
このタイミングで見かけたことの意味を考えてしまう前に。

***

節々に立ち止まりはするけれど、ある程度オトナになった私は自分にとっての最適な解決策も身につけているし、周りにはもっとオトナを引き受けている人がいるから、素知らぬ顔で身を委ねることもできるけど、まだもう少しこのままでいたい。このモヤモヤした感覚を自分の中に置いてそのままにして。育てた先に体感できることがあるような気がする。思考の外に出ることができるのかもしれない。

さて、今年の4月と6月は私にとって好い月らしいので、肩の力を抜いて口角を上げていこうと思います。


写真は春と春のようなもの。
どっちがどっちかわかんないけどね。
見ているだけじゃすぐわかった気になるでしょう。

だから触れよう、「春」に。
せっかくそばに春が来ているのだから。

今年は、桜の下で流れる時間を「春」と呼ぶことにします。

みなさまも、好い春をお過ごしください。

🌸 🐢🍡

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