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『精一杯の嘘』第三話-手をずっとこうしていたいの-

車窓からの景色に家がほとんど見えなくなって来た。
気付いたらバスは緩やかな坂道を登っている。
だいぶ山の方へ入って来たようだ。

バスはインターチェンジに入った。
大きい緩やかなカーブを曲がる。
バス停のカーブの先に彼が立っていた!
青い車の隣に腰が隠れるくらいの丈の緑色のTシャツを着て
黒いスパッツに足元は素足にスポーツサンダルで
サングラスをかけた画面越しに見ていたまんまの姿で私を待っていた!

彼の元に駆けつけたくて焦る気持ちを押さえて呼吸を整えてバスを降りた。
彼は想像していたよりずっと細くて小さかった。

バスの運転手さんが運転席から降りて走って来て
トランクルームを開けて中からスーツケースを出してくれた。
「ありがとうございます」と受け取ろうと手を伸ばした瞬間
彼の手が横からすっとスーツケースを持ち上げた。

「あっ、大丈夫、自分で持てるから」と彼に運ばせてしまうのが
申し訳なくて持ち手を持とうとした瞬間私と彼の手が触れた。
ビクッとして手を引っ込めてその場に立ちすくんだ。

彼は気にせずそのままスーツケースを引っ張っていく。
手が触れたのはほんの一瞬。

さらっとした感触のその手にもう一度触れたい、そう思った。
彼の荷物を運んだりする何気ない仕草が
高い所から背中を下にして落ちても
直ぐに体を反転させ着地する猫の柔らかくしなやかな動きを連想させ
思わず見惚れてしまう。
二次元で見ていたものが急に肉体を持って動いて立体的に見えて
本物だと主張し始める。
ようやく彼は実在する人物なのだと実感が湧いてきた。

彼はスーツケースを左側の後部座席に積み込んで私の方を向いた。

「よーきんさった」

一瞬彼の言葉が判らなくてポカンとしていた。
山陰地方の方言でよく来てくれたねと言う意味だった。
顔を合わせるのが恥ずかしくて俯く。

緊張するとも違ってどう振る舞ったら良いのか判らない。
地に足が着いていない不思議な感覚。
彼は何も喋れず動けずにいる私にドアを開けて
「どうぞ」助手席に乗るように促した。
私がシートに座るとドアを閉め
運転席に座るとすぐにエンジンをかけ車を走らせた。

私は彼に出会った。
それだけは判るのに。
一体何が起こっているのだろう。

隣の彼の横顔を覗き込んだけどサングラス越しの表情はよく判らない。
私の視線に気づいてちらっとこちらを見たけど
運転をしているから直ぐに前を向く。
ふと足元に視線を落とすとマットが砂だらけだった。
ダッシュボードの下の灰皿にはセブンスターの吸い殻が沢山入っている。
コーヒーの空き缶がそのまま置いてあった。
ダッシュボードの下の小さな棚の奥に
新品未開封の0.01mmと大きく表示されたコンドームの黒い箱が
袋にも入れずそのまま置かれているのを見て
ドキッとして思わず彼の方を見た。
そして目の端でも良いからずっと彼の顔を見ていたいと思った。
彼の額から鼻、口元、顎を人差し指で線を描く様にそっとなぞりたくなる。白髪まじりの髪の毛も、伸びたままの顎の髭も
血管の浮き出た細いけれど筋肉質な腕も抱き締めたら折れてしまいそうな細い体もサンダル履きの素足も、頭のてっぺんからつま先まで
愛おしくて抱き締めたい衝動に駆られる。
今から二日間は私だけのものだよと
誰かに言いたくなる気持ちをぐっと堪える。

モノなら盗まれてしまう、壊れてしまう。
私の中にある記憶なら誰にも盗まれない。
彼と私だけの秘密の時間。
でも誰かに自慢したくなる。
そんな私はきっと意地悪だ。

道路沿いに大きな川が流れているのを助手席の窓から眺めていた。
なだらかな山の麓に建てられた家々の屋根が
赤く茶色がかった色をしている。
私の住んでいるところは比較的新しい住宅が多く
スレートの屋根や色とりどりの洋瓦がほとんどだから
こんなに同じ色の瓦屋根が並ぶ光景を見るのは初めて。

「瓦屋根がみんな茶色だね。」

「石州瓦と言うんだよ」

夏の勢いにあふれたすごい青空と山の深い緑と
石州瓦の茶色がかった赤い屋根が優しく調和する風景が
どこかで見たように懐かしく感じる。
裾野が夏の強い陽を浴びて燃えるように青い。
右の耳から何も通さないそのままの彼の声がすうっと入ってくる。

煙草の匂いは好きじゃないのに
彼の吸うセブンスターの甘い匂いはなぜか許せる。
隣にはずっと会いたかった彼がいる。
まだ自分の置かれた状況を上手く理解出来ていない。

「初めて見る風景に感動して胸がいっぱいということあなたに会えて
とても嬉しい」ということを伝えようとするけれど
言葉に詰まり上手く喋れない。
頑張って喋ろうとすると何故か代わりに涙が出そうになる。

「ねぇ、○○さん、私ね、まだぼうっとしてる」

やっとのことで言葉を絞り出した。

「いいよ、ぼうっとしといて」

うん、と頷いて少しの沈黙が流れる。
その時間を許してくれる彼の優しさが嬉しくて泣きたくなる。

さっきからずっと、車は坂道を登っている。
周りに見えていた家が無くなって来て気付いたら周りを山に囲まれている。彼の住む町の隣町の近くまで来たらしい。
登ってばかりだった道が緩やかな下り坂になり少し開けたところに出た。日本家屋の中に比較的新しい家が建っているのが見える。

その町は若い人が地元にUターンやIターンして
ずっと住み続けたくなるような町づくりや
新しい仕事の創出に力を入れているよう。
ここ数年で町の人口特に若い家族が増えていると教えてくれた。
彼は自分の住んでいる町のことを指して
「それに比べて○○町は頭が固い」と言う。
今までのやり方に囚われて新しい事に挑戦することをしないから
いつまでたっても変わらないし三十年前で時間が止まっていると。
進学や就職で一度地元から出て都会で過ごして、また地元に帰ってくる。
ずっと地元に残っていると当たり前に見えて気づかない様なことも
違った角度から見ることが出来るからこそ気づくことがある。
そんな人たちがよく口にする言葉と同じだった。
彼の様な仕事は才能豊かな若い人がどんどん出てくるだろうから
常に新しいことに挑戦して努力し続けないと
仕事が無くなってしまうのだろう。
彼は東京を引き払って地元に帰って来た。
これからここで生活して仕事をしていくのだから
あまり地元のことを悪く言ってはダメだよ。
「あなたはこの地元に愛される存在にならなきゃいけないのに。」
彼の口を塞いでしまいたくなる。
もっと優しい言葉を口にしようよと。
「それは違うよ、それは直した方がいいよ」
反対意見もぶつけてしまうだろうから長く一緒にいたら喧嘩になる。
でも、お互いのことを分かり合えるなら、たくさん喧嘩もしてみたい。
そうやって、彼の傍にいたい。

集落を抜けるとまた坂道が続いている。
進行方向の右手には山が連なって
左側には覗き込むと落ちてしまいそうな崖。
その上を走っている。
窓から見上げると雲を掴めそうなくらい空が近い。
このまま登ったら、天空のお城に辿りつけそうな気がした。

トンネルを抜けると崖の上の高い場所へ出た。

彼は道路脇に車を止めると、ひとりでさっと車を降りて
すたすた崖の淵まで歩いて行き上から川を見下ろしている。
そして笑顔で振り返り「こっちにおいで」と手招きする。
車を降りて小石がごつごつした上を歩いた。

近くまで行きたいのに
あと二、三歩という所で怖くて足がすくんで動けない。

簡単な柵しかなくて、あと一歩踏み出したら
崖下へ落ちてしまいそうなぎりぎりのところに立って谷底を覗いている。

「もう!こっちにおいで!」

彼は動けずにいる私に痺れを切らしたかのように大きく手を縦に振った。
それでも、怖くて近づけなくて
首を横に振りながら怖い、怖いと後ずさりをした。
本当に高い所が怖い。
彼の元に行きたいのに足が動かない。

柵を乗り越えて落ちる床が崩れ落ちる手すりが外れる窓ガラスが割れる
普通に考えて起こりえないような事態を想像し
自分が落ちてしまう様な恐怖を感じてしまう。
高い場所でも自分が安全だと分かっているのに
落ちてしまうのではないかと不安になる。
高所恐怖症は人一倍怖がりで想像力が豊かな病気みたいなものだと思う。

だから「助けて!」と思い切って左手を差し出した。

彼はその行動に戸惑ったのか、一瞬ためらったような表情をしたけれど
左足を一歩踏み出し右手で私の手を握ってグイっと自分の方に引っ張った。その拍子に体が前のめりになりながら足がつつっと前に出た。
彼の大きな手が私の手を強く握る。
初めて手を繋いだ瞬間。

さっき、ほんの一瞬触れた時よりも、もっともっと強く彼を感じた。
痛いけれど優しい胸の痛み。
細い腕なのに力強くて頼もしくてその腕に全身を預けたくなった。
そのまま抱きしめて欲しい。
でも、彼は繫いだ手を解いて
両手を頭の上にあげて「わぁっ」とふざけて崖から落ちる真似をした。

「やだ!やめてよ!」

悲鳴にも似た声を上げ「もうっ!」と言って怒る振りをした。
なんてベタな展開。

「ほら、これ見てよ!なんでここに、こんなのがあると思う?」

崖の側に建っている供養塔の様な物を指して笑った。
背筋がぞわっとして本当に怖くなり涙が出て来た。

「ごめん、ごめん」

彼はさらに崖に近づき手すりに両手を着いて
今にも吸い込まれそうな断崖絶壁の溪谷に立っている。
魚の遡上も遮るということから名前がつけられたこの渓谷。
眩暈がするほど高い。
たぶん20mはあるかもしれない。

心配し過ぎ。
彼は崖から落ちたりなんかしない。
ほっと安心して軽いため息を吐くと
にこりと笑ってサングラスの奥の彼の目を見つめた。
彼はすぐに私の視線から目を逸らした。
何か変なことをしたのだろうか?
自分の行動や言葉を振り返るが何も心当たりはない。

もしかして恥ずかしい?
まさか、恥ずかしくて目も合わせられないの?
勝手なイメージだけれど、もっと女性に慣れていると思っていた。
意外だなぁ。
そんな45歳の男性に初めて出会った気がする。
それなら、もっと彼の目を見つめよう。
きっとどこかのタイミングでしっかり見てくれるはずだから。

つい先ほど、上から覗き込んでいた崖の下の川沿いの道を車で登って行く。木々の葉を通り抜けた太陽の光が辺り一面を薄っすらと緑色に染めて
私の肌も緑色に染まっていくみたい。
春先の生まれたての淡い緑の木漏れ日よりずっと力強い夏の深い緑。

「熊が出たのは、このもうちょっと上くらいのところ」

明るい声で教えてくれるけれど熊という言葉に怖くなり固まった。
ここで遭遇したら、車ごと倒されて窓ガラスを破られ襲われる。
どうして、彼はそんなに笑っていられるの?
いつものことで慣れているから?

道なんてあって無い様な山の中だから、車がガタガタと揺れる。
砂利道の小石が巻き上げて車体に当たりバシバシと音がする。
こんなに飛び石が当たったら車が傷だらけになってしまう。
そんなことお構いなしに車は走って行く。
ぬかるんだ地面に車のタイヤがはまってそのまま横転しそうで
怖くてビクビクしていた。
怖くてドキドキするのになぜか楽しくてどこか懐かしい。
あっ、あの時と同じ。
子どもの頃のお父さんとドライブしていた時だ。

お父さんも渓流釣りに嵌っていたことがあった。
山奥を走っていると大きな石が当たって
オイルタンクに穴が開いたことがあった。
「あーやっちゃった早く帰るぞ」と言ったけれど特に慌てた様子もない。
そのうちにオイルの匂いが車の中まで漂って来て気分が悪くなってきた。
車が爆発したら?そんな怖い想像が頭の中をぐるぐると駆け巡り
ひとり後部座席で縮こまっていた。
後ろを振り返るとオイルがアスファルトにポタポタと垂れて
黒い水玉模様を作っていた。
でもお父さんは平然と運転している。

お父さんは普段から「車なんて、ただの道具だから」と言っていた。
少しくらい汚れても気にしない、
そんなところがあった。
休みの日となると必ず洗車して車内に埃ひとつ残さないくらいに
念入りに掃除機をかける旦那とは違う。
靴の底を払えとか小さな繊維がシートに付いたくらいで
テープで取れと言われるといい加減うんざりする。
旦那の車に乗ること自体が緊張するからあまり一緒に出かけたくない。

彼の「多少の傷が付いても、車は道具なんだから気にしていられない」
と言っている様なところがお父さんと同じに思える。
こんなにリラックスできるドライブは久しぶり。

途中で一台の車とすれ違った。
彼が左に車を寄せて、通過を待っているときに
その車に乗っているおじさんがちらりとこちらを覗いた気がした。

「知り合いなの?」と聞くと
うんと頷いて「近所のおじさん」と気まずそうに答えた。

「○○ちゃん、女の子連れていたって噂されるなぁ
うちの親にも言われるなぁ。子どもを連れて来たことにしている。
子どもいなかったじゃんって言われたら後ろに座ってて
見えなかったことにしておく。
だって、女性一人で来て、今日は泊ってくるからと言ったらね」

両親には言えないことなの?誰にも見られたくない秘密なの?聞かれたら
友だちと言えばいいのに。
この恋の現在地が少しだけ判ると胸がちくちくと痛んだ。

彼はいつも釣りをしている沢の上流まで行きたかったようだけど
道の真ん中に木が倒れていて、それ以上前に進むことが出来ない。
まるで倒木に恋を邪魔された気がして思わず苦笑いした。

ここはさっきの崖のちょうど真下。
車を停めると後ろのハッチバッグを開けて鮎釣りの準備をし始めた。

「今日は鮎がいっぱい釣れたんだ、さっき、塩焼きにして食ったらめちゃくちゃ美味しかった、君にも、この鮎を食わせてやりたかったなぁ」
そう言ってくれたことがあった。

ライブ準備で忙しいと言っていたのにその合間を縫って
釣りの用意をしてくれた彼の優しさと心遣いに胸がいっぱいになった。

針を出して釣糸に付けていく指先の動きが
流水の様に綺麗でずっと見ていたくなる。

突然、釣り糸にガブリと噛みついて
ハサミを使わずに歯で糸を嚙み千切った。

「歯は大丈夫?」

びっくりして彼の顔を覗き込んだ。
あまりにもワイルドで思わず笑ってしまった。
なんだか、お父さん見たい。
お父さんも釣り糸ではないけれど同じ様なことをしていたな。
お菓子の袋が開けられなくてハサミではなく歯で破いたり。
もし、これが旦那だったら
「ハサミは?何で持って来なかったの?まったく気が利かない奴だな
そんな仕事が出来ない奴はいらん、嫁失格だ」
と嫌味のひとつやふたつ言われるだろう。
楽しいはずの釣りがひたすら小言に耐えるだけの我慢大会になる。

お父さんの共通点を見つけると
体を寄せ合って縁側で日向ぼっこをしている猫みたいに
あったかい気持ちになる。
彼と一緒だととても居心地がいい。

彼は針を付け終えると
ひょいっと竿を持ってスタスタと岩の上に歩いて行く。

「待って!」と思いながら早足で追いかけた。

慣れた手つきで岩の上から竿を投げると
竿の先が川の中に吸い込まれて行く。
竿の持ち手を下に向けて、岩に擦りつける様に動かしている。
直ぐにビクンと竿の先が曲がって当りがあった。
リールを巻くと本当に鮎がかかっている。
餌も付けていないのに鮎から針に寄って来るみたい。
竿を川の中に入れただけなのに面白いくらい鮎がたくさん釣れる。
鮎の体に針が刺さって血が出ている。
彼は針を外して、私に鮎を投げて渡そうとしたけれど
鮎の体の表面は粘液でヌルヌルして滑ってキャッチできなくて
川に逃がしてしまった。

「ごめんなさい」

「いいよ、いいよ」

彼は釣り竿を渡して「やってみて」と言う。

釣り竿の先を川の中に投げると
すぐにビクンと何かに引っ張られる感覚が伝わってきて
びっくりして手を離そうとした。彼は慌てて私の手を捉まえて
自分の手を添えて一緒にリールを巻いてくれた。

「次は自分でやってみて」

彼はリールから手を離した。
すぐに引きがありリールを巻こうとしたが
手首がガクッ、ガクッとぎこちない動きでスムーズに巻くことが出来ない。隣で見ていた彼がまた私の手を取り一緒に巻いてくれた。
ふたりで体を寄せ合ってお互いの手が触れる。
そのまま彼の手を握ることも出来るのに、それすら出来ない。

彼は針を外し、私の手を優しく包み込むようにして鮎を渡す。
鮎が跳ねて、パシャっと水が顔にかかる。

「冷たい!」

驚いて鮎を地面に落とした。
鮎はそのまま地面を滑って川に戻っていった。

「魚って人間の手の体温は火傷するくらい熱いんでしょ?」

「そうかな?あれって嘘じゃないの?魚に聞いたことないし」

彼の素直な答えにそうだよねと納得した。

「ずっと触ってると、手冷たくない?」

彼の手に触れるとひんやりしていて冷たかった。
思わず彼の手を包み込んだ。

見上げると彼の顔は息がかかるくらい近くにある。
目を閉じたらキスしてくれそうな距離だ。
でも、ここで「キスして」なんて言う勇気はないから
彼のサングラスの奥の目を見つめて微笑むと彼も笑い返してくれた。
こんな風にふたりで笑っていられたらいいのにぁ。

釣り道具を片付けて車に戻る準備をしていると
「この景色とか、撮らなくていいの?見上げる感じで撮るといいよ」
と崖を指さしている。
崖を見上げて空と雲が入るようにすると
誰かに見せたくなるくらい綺麗な写真が撮れた。
そしてスマホをバッグにしまった。

彼は川沿いに草が茂って少し広い広場みたいな所で車を停めた。

「ちゃんとシートベルトしてる?」

「うん、してる」

悪いことを企んでいるような子どもみたいにニヤッと笑った。

何するの?と不安に思った瞬間
シフトレバーをSに入れアクセルを思いっきり踏んだ。

車は加速しながら回り始め
後輪が浮き上がり前のめりになり凄い速さで回り始めた。

「やだ!やだ!怖い止めて!」

車を止めてくれたけれど体がガクガク震えて怖くて涙が出て来た。
そんな危険な運転をされたのも自分の意志と関係なく
グルグルと凄い速さで回されたのも
遊園地のコーヒーカップに乗ったとき以来。
泣き顔を覗き込みながら「怖かった?ごめん、ごめん」と言った。

「もう!」彼の左腕をぱしぱしっと叩いた。
彼は「ごめん、ごめん」とけらけらと笑いながらこんな質問をした。

「車って安全になったはずなのに、なんで事故が多いと思う?」

「えっ?何で?」

そんなこと考えたことも無い。

「安全過ぎるから事故が多いんだよ。車って昔の方が危険だったでしょ?
みんな気を付けて運転していた。だから事故が少なかったんだよって
〇〇君が言ってた」

〇〇君とは彼のバンドのメンバーの人。

「〇〇君、言っていることとか考えてる事とかカッコいいいよ大人だし
俺なんかと違って」

俺なんか、、そんなこと言わないでよ。
私はあなたが好きなのに。

「ううん、私は〇〇さんがいいの、〇〇さんがいいんだけどなぁ」

小さく呟いたけれど聞こえたのかは判らなかった。
彼は何も言わなかったから。

彼の住む町へ到着した。
緑色の屋根に大きな建物が配信でも登場した道の駅。

「ここは知り合いに見られるとまずいから」

私を車の中に残して買い物に行ってしまった。
待って、一緒に行きたい。心にすっぽりと穴が開いた様な空虚さ。
何だろうこの疎外感は。

荷物を取りに彼の実家へ立ち寄った。
彼の家は道の駅から少し坂道を登った直ぐ近くにあった。
赤茶色の瓦屋根の可愛らしい家。
駐車場には白い車が一台だけ停まっていて
停められるスペースは十分にあるのに道を隔てた畑の脇に車を停めた。

「おいで、こっちこっち」
とバジルやパクチーが植えてある畑を案内してくれる。
YouTubeやライブ配信で見せていたあの畑。

「こっちだよ、これがバジル」

バジルは胸の高さ位に大きく育っていた。
私が植えたいと言った自分の分身のようなバジルを大切に育ててくれた。

彼は畑を一通り案内し終えると
「待ってて」とひとりで勝手口から家の中へ入って行った。

私がひとりで来たら
もしかして彼女を家に連れてきたと両親を驚かせてしまう。

だから理由を説明しているのに違いない。
しばらくしたら「おいで!」と家に呼んでくれるかもしれない。
だから、ここで少し待っていよう。
彼の両親に挨拶できるはず。

車の横に立ってひとりでぽつんと彼を待っていた。
家の中から彼とお父さんが喋っている声が聞こえた。
何を話しているのかまでは聞き取れなかったけれど
「ファニコンの人」それだけははっきりと聞こえた。
不倫相手を両親に会わせるわけにはいかない
そうか、だから、家の前ではなく道を挟んだ畑の方に車を停めた。
でも、私もひとりの人間だよ。
せめて挨拶くらいはしたいよ。
あんなにふたりで笑い合って、距離が縮まったと思ったのに
両親に会わせられない人間という烙印を押されたように感じた。
ここに居てはいけない人間なんだ。

実家から少し離れた小高い丘の上におばあちゃんの家が立っていた。
石の小さな階段を登り上がり切った先に庭がある。
裏にも山があって木に囲まれている。
古いけれど庭先の草も刈ってありきちんと手入れされている印象。
彼が大切に守っている場所だと一目で判る。

玄関の引き戸をガラガラと開ける。
玄関を入ると廊下があって左側に和室が二間続いていた。
奥は仏間になっていてパソコンが広げてあり彼の仕事部屋のようだ。
手前の和室には真ん中にテーブルがあって
玄関の右側に彼が寝室として使っている部屋があった。

「お線香あげてって」

仏壇の前には新しい菊の花。
おばあちゃんの少し若い時の写真が飾られていた。
笑みを蓄えた可愛らしいおばあちゃん。
お土産の海老せんべい箱を仏壇に供え手を合わせた。

和室の裏にキッチンがあった。
台所は一段ほど畳の部屋より低くなっている。
おばあちゃんの家のキッチンは
キッチンと言うより台所と言ったほうがしっくりくる気がする。
流しは水色のタイルで作られていてレトロな雰囲気が可愛らしい。

「ばあちゃんちで料理することないから、どこに何があるのか分からない」

彼は食器棚の奥のお皿を取り出して天ぷら鍋を探している。

私も流しの上やその隣の棚を見まわして探してみたけれど
どこにも見当たらない。
食器棚をがさごそと覗いていた彼が奥に丸いものを発見した。

「あった!」

でも出して見たら全然違う木の丸い器だった。
ふたりで必死に探していたてんぷら鍋に違いないと思っていたから
想像と全く違うものが出て来たことが可笑しくて仕方ない。
ふたりで顔を会わせて笑った。
誰かが私たちの様子を見ていたら
「何がそんなに可笑しいの?」と不思議がる。
ふたりで一緒のことをしていてふたりにしか分からない笑いのツボ。
まさにそれがぴったりハマった瞬間。
もっと長く一緒にいたらもっとこんな瞬間がたくさんあるはず。
彼と一緒にその瞬間をいっぱい作っていきたい。

彼は鮎を氷水に入れて洗いてんぷら粉を水で溶いた。

「あっ、そうだ!こっち来て!」

彼が思い出したようにコップを手に取り着いて来てと言った。
慌てて後を追いかけて庭に出た。
流し台の蛇口を捻り勢いよく水を出してコップに水を汲んで
「飲んでみて」と差し出した。
コップを受け取り一口ごくりと飲んだ。

「どう?」

感想を聞かれても何と答えたらいいのだろう。

「うーん、何かね、喉に引っ掛からないですうっと入って行く感じ?」

「えっ?それだけ?」

彼は首を傾げる。

「これって沢の水を引いてきたとか井戸水なの?」

「違うよ。普通の水道水」

彼の返事を聞いて更に困惑した。
もう一度水を飲んでみるが塩素臭があまりない水にしか感じられない。
市販のミネラルウォーターの硬水か軟水かの違いは判るが
水道水の味を比べたことも無いし何より比較する他の水道水が無い。

「うーん、判らない」

「ま、いっか」

蛇口を捻って流れる水に手を浸す。
冷たくて心地良く夏の日差しに目を細めた。

テーブルに鮎の天ぷらと糠漬けを運んだ。
おばあちゃんちのご飯みたいでそれがとても新鮮だった。

今までお付き合いしてきた人は
みんなそれなりにお金をもっていたりする人が多かった。
高級なお洒落なレストランに連れて行ってくれることもあった。
そんなお姫様扱いされるとほんの一瞬は気持ちが満たされた。
でも、すぐに気持ちが空っぽになった。
私の欲しいものは本当にそれなんだろうか?と。
ここには無理して背伸びをしなくてもいい
等身大の幸せがあるような気がした。

朝はコーヒーだけでお腹も空いているはずなのにあまり食べられない。
憧れの彼と向き合って食べるという状況。
それで緊張しない訳がない。

ご飯が終わると彼はキッチンの裏にある洗面台で髭を剃り始めた。

「髭伸びたままでもいい?」

「キスするときに、チクチクするの苦手だなぁ」

「わかった、剃っておく」

そんな電話での会話をちゃんと覚えていてくれた。

「アイちゃんは、髭が好きって言ってた。
でも髭伸ばしたら付き合ってくれるって聞いたらそれは違うって言われた」

アイちゃんとは彼が一緒に仕事をして来た女の子で
年齢は私より一回りくらい下だったと思う。
その子に少し嫉妬する。
自分より若くて可愛いから?多分それもある。
それより彼がその子を親友だと言う事に嫉妬する。
長く彼と一緒に居て彼の笑ったり怒ったり泣いたり喜んだりする姿を
真近で見てきた人のひとりなのだから。
私がどんなに見たくても決して見ることが出来なかった彼の姿。

それを思うと私と彼は
決して交わることの無い世界で生きてきたのだと改めて感じる。
だからその子に無駄に嫉妬してしまう。

「仕事するって言ってたのに、いいの?」

「うん、今日はいい」

そう言ったけれど、少し心苦しかった。
私が居ることが仕事の邪魔になっている。
こんな時あの子ならアイちゃんなら彼を助けることが出来る。
何も出来ない自分の存在が心底情けない。

ずっと山の中の道を通って行く。
なだらかな山の麓に赤茶色の石州瓦の家々が立ち並び
空の青と山の緑のコントラストが際立っていた。
どこかで見たことのある風景。
実家とも旅行先で出会った風景とも違う。
どこで見たのだろう?あっ、これは昔見た夢に出て来た光景だ!

「ねぇ、○○さん、私ね、昔見た夢にこんな家並みが出てきたの
茶色い屋根のお家が並んでいて、誰かに抱かれて空を飛んでいたの
すごく安心しきって気持ちが穏やかで心地よくて
そうしたらここはあなたが住んでいたところだよって誰かの声がしたの」

とても印象的で未だにその夢を思い出していた。
こういう感覚をデジャブや既視感、前世の記憶とでも言うのかな。

「その話のオチは?」

「ないよ!」

本当にオチが無いのだから明るくそう答えた。

「中国のえくぼの伝説って知ってる?
人は亡くなったら前世の嫌だった記憶も嬉しかった記憶も全て忘れて
穏やかに生まれ変わるの。でも来世でも会いたい人がいて
その人の事を絶対に忘れたくなくて前世の記憶をどうしても残したくて
穏やかに生まれ変わるのを拒んだ人に付けられるのがエクボなんだって。
エクボを付けられた人は冷たい川底で千年耐えて生まれ変わって
忘れられない恋人を探しに行くんだって。ほら、私にもあるよ」

両手の人差し指で口元のエクボを指した。

どうしても埋められない孤独感。
それは逢わなくてはいけない人に出逢っていなかったから?
その人が彼なのだろうか。
彼なんだと信じたい。
無理矢理にでも彼といる理由を探しているのかもしれない。

〇〇くんは足が速いから、〇〇くんはカッコいいから、好き。
小学生みたいに単純な理由で人を好きにはなれない。
好きになるにも理由が必要。
大人の恋愛は面倒。
そんな気持ちを、上手く言葉にして彼に伝えることが出来なくて
もどかしくて涙が出そうになった。

「どうしたの?大丈夫?」

「今がすごく幸せ」

涙を指先でそっと拭った。

琴ヶ浜は本当に真っ白な砂浜。
太陽の光を反射して一層白く輝いて見える。彼は私が一度だけ言った
「歩くときゅっっきゅと鳴る砂浜も行ってみたい」を覚えてくれていた。

運転席から降りて来た彼を「早く行こう」と急かした。
彼は裸足で砂浜を歩いて行く。
追いかけて歩いた。

素足をさらさらと撫でる砂は足が埋もれてしまうくらいフカフカしている。サラサラと落ちて行く砂時計の砂になった気分。
裸足で蹴るように歩くとキュッキュッと音がした。
楽しくなって何度も繰り返す。

ふと気が付くと彼はずっと先を歩いている。
走って彼を追いかけた。

「待って!置いていかないで!」

彼は私の声に気づいて振り返った。

「ごめん、ごめん」

そう言って左手をほらっと差し出した。

彼の左手を右手で摑まえる。

体の力が抜けて足元が覚束なくてその場から動けなくなった。
お願い、このままこうして、ずっと一緒にいて。
彼はどうした?と私の顔を見る。
涙が溢れそうになっているのを見られないように顔を背けた。

「どう?綺麗だろう?たまにひとりでここに来るんだ」

そのままふたりで波打ち際を手を繋いで歩いた。

この恋が赦されるのならこの先もずっとこうして
手をつないで歩いて行きたい。
彼とずっと一緒にいたい。
どうしたらそれが叶うのだろう。

「ちょっとこっち向いて座って」

助手席に砂だらけの足を投げ出して座っている私に
車の後部座席からポリタンクを持って来て水をそっとかけて洗ってくれた。
こうなることを予想して用意してくれた水だった。
彼の優しさや心遣いに感動して何も言葉が出てこない。

「ありがとう」

やっと一言だけ喉の奥から絞り出した。
彼は私をお姫様の様に大切に扱ってくれる。
こんなこと四十四年間生きて来た中で生まれて初めて。

私は窮屈で息苦しい宮殿の毎日から
こっそり抜け出して大好きな人に出逢ったお姫様になったみたい。
彼が王子様に見える。
熱が出たみたいに頭がぽわんとして何も考えられない。
自分の頭をコツコツ叩いて確かめたくなる。
夢じゃない、夢じゃない、現実なの。

宿泊先の旅館は温泉街の中にあった。
駐車場に車を停めた。
車からスーツケースを降ろし左手で引っ張る。
彼は青いバッグを右肩にかけ、空いた左手で私の右手を捉まえる。
門を入るとフロントの受付の人が出て来た。
私たち以外に宿泊客は見当たらなかった。

フロントで名前を告げる。

「予約していた月島です」

「月島様ですね。お待ちしておりました」

彼がチェックインカードに住所と名前と電話番号を書いていく。
そして自分の名前の隣に「しずく」と書いた。
夫婦みたい、嬉しくて彼の顔を見上げてニコッと笑った。

離れの部屋は本館とは別の建物になっていて緩やかな坂道の上にあった。

玄関の鍵を開けて部屋に入ると八畳の和室引き戸を開けると
右側にお風呂と左側にトイレ真ん中に洗面台があった。

「まさに、セックスのためだけの部屋だ!」

彼の言葉に俯いたその瞬間
堪えきれなくて思わず彼の細い首に両手を回した。
彼の痩せた肩に頬を寄せると鎖骨に当たってゴツゴツした。
抱き締めてキスをして欲しい。
彼は私の背中に腕を回すのでもなく私が自分から離れるのを待っている。

「オレ、シラフだとそういうの出来ないし
ドキマギしちゃうから覚えといて」

お姫様は迎えに来てくれたはずの王子様に
「ごめんちょっと無理」と断られた。
そんなお姫様が出て来るお伽話は世界中の何処を探しても無い。

何も言わずに彼からそっと離れた。

「釣りと夕陽を見に行くのどっちがいい?」

「夕陽見に行きたい」

彼の問いに迷わず答えた。

「早くしないと、陽が沈んじゃうよ」

「よし、行こっか」

くねくねと曲がった海沿いの山道を登って進んで行く。
坂道を下ると視界がぱっと開けて小さな港に出た。
海に近づけるギリギリの岩場で車を停めた。
湾のようになっていて向こう側に海に出っ張った小さな半島が見える。まだ海からの風が吹いている。
もう少ししたら、陸からの風と入れ替わる夕凪の時間かな。
ふたりで釣り竿を持ってコンクリートの防波堤の上を歩いて行く。

防波堤の外側の向こうには家らしい建物が数軒建っているだけで
何かを取り壊したような跡地もあり
が住んでいる気配があまり感じられない。

「昔はそのへんに高級旅館もあったんだよ。潰れちゃったけどそこに〇〇〇〇が泊まっていった、世界遺産に登録された頃は流行ってたんだけどな
みんな潰れちゃった」

「何もしなくても、お客さんが来るからね」

「だって、みんな努力しないから。その状態に胡坐かいちゃったんだな」

彼の口から彼女の名前が出て来たから
ずっと気になっていた事を思い切って聞いてみた。

「ねぇ、付き合ってた?」

「うん」

「どのくらい?」

「一年くらい」

そっかぁ、やっぱり、そうか。
崩れ落ちそうな彼女を抱きかかえているCDジャケットを思い出す。
密着度の高さから彼女との親密感を覚える一枚だった。
お腹の底からふつふつと湧き上がってくる嫉妬の感情
思わず彼と彼女を引き剥がしたくなった。

今更、彼女に嫉妬するにはあまりにも遠い昔。
もうどうだっていい。
彼の隣にいるのは私なのだから。

平らな防波堤が終わるとゴツゴツした岩場が続いていた。
午後6時を過ぎた夏の夕暮れの空は
薄い水色と淡いピンク色の雲が混ざり合った綺麗な色に染まり始めている。この時間が一日の中で一番ロマンチックな時間だと思う。
その時間に彼は慣れた手付きで海に向かって一投目を投げる。
竿の先はひゅっと大きな半円を描いて海に吸い込まれていく。
投げてすぐ引きがあったらしい。
釣り竿を持つ上半身にぐっと力が入り背中を後ろに反らして
竿にかかる力を受け止めている。
次の瞬間急に走り出した。
滑って転びそうな岩の上を
スイスイと走り服が濡れるのも気にせず水の中へ入って行く。

「カメラ回して!」

彼は振り返って叫んだ。
慌ててバッグからスマホを取り出し撮影を始めた。
彼はもっと近くまで来るようにと手招きする。
足を踏み出した瞬間ズルっとサンダルが滑って
スマホを岩の上に落としそうになった。
怖くて遠くから彼の姿をズームアップして撮った。
画面に指が映り込んでしまった。

「ねぇ、釣りもいいけど、私、あなたの隣で夕陽を眺めていたいの
何にもしゃべらなくてもいいよあなたと一緒にいたいの」
そんな声、彼に届かない。

「これYouTubeにアップするの?」

「するよ、そのうちにね」

そう言った彼に寂しさを感じた。

夜ご飯を食べに入ったお店は古民家を改装した居酒屋。
テーブル席の真ん中を案内された。
店員さんもまわりのお客さんも誰も彼が◆◆◆◆だと気付いていない。テーブルにつくと彼は
「そうそう、これこれ」とメニューの赤天という文字を指差した。

「決まった?」と聞く彼に、うんと返事をする。
彼は店員さんを呼んで
ビールと牛すじ煮込みと赤天とマルゲリータのピザを注文した。

「私もビールください」

すぐにプラスチックのカップに入ったビールが2つ運ばれて来た。
彼はそれを見て笑いを堪え切れずにいる。

「えっ?どうしたの?何がおかしいの?」

「だって、プラスチックだよ。屋台じゃないんだから」

プラスチックのカップでビールが出て来たことが
可笑しくて仕方ないらしい。
確かにそう言われればそうかもしれない。

「ほら、コロナとか色々あるし、使い捨てがいいのかも」

店員さんの目が気になりフォローのつもりで言った。

「おかしいよね」と小さな声で同意を求められたけど
そうだよね、とは言わずに、ふふっと笑って誤魔化した。

頼んだ料理がテーブルに運ばれて来た。
赤天とは、魚のすり身をフライにしたものだった。
一口食べるとピリッと辛かった。

「これ、好き」

「そう?良かった」

彼は私が二切れ目に手を伸ばすのを見てにこりと笑った。
彼は高校を卒業して専門学校へ行って
仕事を始めたばかりの頃の話を話してくれた。

「卒業してからいろんなことやったよ、これ聞いたことない?
~やさしくされると切なくなる~」

どこかで聞いたことのある歌のフレーズを口ずさんだが
タイトルが思い出せない。

そして彼の過去を全く知らないことに改めて気付く。
どうしても知りたいことがあった。

「〇〇さんと私は歳も二つしか離れてないし
同じ位の時期に関東圏内にいたのにどこをどうしたら
私は〇〇さんに出会うことができていたの?」

テーブルに両手を付いて前のめりになって聞いた。

「面白いこと聞くね。たぶん出来なかったと思うよ」

そうなんだ。
十九万を持って御茶ノ水でリッケン620を買っても
銀座で警官ごっこをしていても
後楽園で税理士になっていても
池袋で終電を逃しても
あの彼女のように彼に出会えなかったということ。
彼の出来なかったよ、という台詞は
そもそも生きている世界が違うのだからと
一瞬で心のシャッターをガラガラと降ろしたように聞こえた。
それ以上は何も聞けなくて彼から視線を外して
すっかり泡が消えて温くなったビールに口を付けた。
彼は砲杖をつきながら私ではないどこかを見つめて呟いた。

「こんなことなら、ちゃんと親に事情を話して家でおもてなししたかった
でも、セックスは出来ないけどね」

言い終わると私を見てニコッと笑った。
そんなことよく言うよ。
私のことは外でひとりポツンと待たせて
親には会わせられない人間扱いだったのに。
よく言うよ、って。
彼から視線を逸らしてぽつんと呟いた。
「もうちょっと早く出会いたかった。」

私の少し前を歩いていた彼は振り返ってこう言った。

「猫を釣りに行こう!」

「猫?猫ってあのニャーって鳴く猫?それとも、ネコザメとか?」

猫を釣り竿で釣るなんて。
そんな可哀想なことを猫好きの彼がする訳ない。
何のことか分からなくて真顔で尋ねた。

「まあ、行けば分かるよ」

詳しいことを教えてくれない。

車のハッチバックを開け釣り竿と
ビールが入った重たいクーラーボックスを降ろして
私は布製のバケツ彼はクーラーボックスを肩にかけて釣り竿を持った。

ここから歩いて十分くらいのところに小さな港がある。
緩やかな坂道が続いていて少し息が上がった。
ビーチサンダルの鼻緒が足の親指と人差し指の間に食い込み
サンダルの底が薄くて地面からの衝撃が足裏に伝わって痛かった。

「重いでしょ?私も持つよ」

息を切らしながら彼に言った。

「大丈夫だよ」

彼はそう言って歩き続けた。

道の途中に街灯はひとつだけしかなくて足元も見えない程真っ暗。
いつもなら、暗い夜道は怖くて歩けないのに
彼と一緒なら全然怖くなくてもっと歩いて行ってしまいたくなる。
好きな人が傍に居るだけで何でも出来そうな勇気が湧いてくる。

漁港は深い入り江になっている様で
外からの明かりが遮られるからか一層暗く感じる。
目を凝らして暗闇を見つめると
防波堤の先に灯りの付いていない小さな灯台が見えた。

彼は先にすたすたと防波堤を灯台の方へ歩いて行ってしまった。
バケツを抱えて歩いていたから、よく足元が見えない。
しかも辺りは真っ暗だから海に落ちてしまいそうでとても怖かった。
でもその先には彼がいることが判っていたから
彼がいる方へ怖くても歩いて行ける。

彼はおでこにヘッドライトを付けて明かりを取り灯台の下で
小さなかごに餌を入れていた。

「ごめん、ごめん、オレ、先に行っちゃって」

彼は私の姿を見つけるとごめんと謝った。

「大丈夫だよ。ここにいるの分かったから」

オキアミを水の中に入れて
寄ってきたアジを引っ掛けて釣る「サビキ」という方法。
釣り竿を引き上げるとかごのオキアミはもう無くなっていた。

「釣れないな。餌のアジが釣れない」

餌のアジ?何のことか判らずにいた。

コンクリートの防波堤の上に腰掛けて足を海へ投げ出すように座った。
7月なのに夜の海は寒くて自分の両腕を抱えて震えていた。
おしりがゴツゴツと痛くて足元からヒンヤリとした空気が這って
きてつま先が冷えて寒くなってくる。
半袖の薄いブラウスに足元はビーチサンダルという格好で来て
「しまった」と思っていた。

「寒い?寒いのか?」

「○○さんは寒くないの?」

「オレは大丈夫。でもおかしいな、釣れない、釣れない」

袖を通すと柔軟剤のいい香りはしなくて
汗臭いでもタバコの匂いでもなく彼の匂いがした。
切なくて泣き出しそうになり自分の両腕をギューっと抱え込んだ。

いくら待っても何にも釣れなかった。
さっき来た防波堤をふたりで歩いて帰る。

歩いていると冷えた体が少し温まってきた。
岸に着くと、彼は戻る方向とは反対へ歩いて行こうとする。
こっちを歩く方が近道なのだろうかと思いながら彼の後を付いて行った。

「見て!」

彼は急に立ち止まり夜空を指さした。
見上げた夜空は真っ黒ではなくて
群青色とでもいうのだろうか青みがかった濃い紺色をしていた。

「あれが夏の大三角で、向こうに見えるのがカノープス
りゅうこつ座ってやつだね」

彼は空に大きな三角形を描きながら教えてくれた。

「わぁっ!カノープス!」

思わず声が出た。
山の向こう側に赤味がかった星が見えた。
私が生まれ育ったところはカノープスが見える北限だけど
周りに高い建物があったら見えない。
初めて見た!

「今日はちょっとガスが出ているな。こっち来て天の川が見えるよ」

彼は道の上にごろんと横になった。
そして地面を手のひらで叩く真似をして私も横になるようにと仕草をした。暗くて何があるか見えない道の上にふたりで仰向けになった。
ふたりで寝転んで天の川を見上げた。
アスファルトで背中がごつごつした。
薄いブラウスから伝わってくるアスファルトの熱は
夜の海で冷えた体にちょうどいい温かさだった。

「天の川って英語で何ていうんだっけ?」

「ミルキーウェイ、牛乳を零したみたいに白く見えるからだよね」

ここまで星を敷き詰めたような白い空を見たのは初めて。

「ここに来たら本物の星空をふたりで見よう」
彼はあのときの約束を覚えていてくれた。
胸がいっぱいになり手を伸ばして彼の手に触れたくなった。
そのとき彼がぼそっと呟いた。

「子どもに地べたに横になるなとか、猫を触らせるなとか怒るんだよな
猫はウィルスを持っているからダメだとか」

「え?誰が誰に怒るの?」

「姉ちゃんに言われた」

「お姉さんていくつ年上なの?子どもは何歳?女の子?男の子?」

「オレより二歳上で子どもは五歳の女の子」

「じゃあ、遅くにできた子どもなんだ、お姉さんはなにやってるの?」

「社会福祉士やってるよ」

「そうなんだ」

彼は帰省したお姉さんに怒られて逃げる様におばあちゃんへ行き
それからずっとそこにいることを教えてくれた。
でも怒られた詳しい理由を話してくれなかった。

私にはひとつ年下の弟がいる。
弟は三十八歳のときにできた息子を溺愛している。
家族のグループラインに毎日の様に公園で遊ぶ動画や
幼稚園の参観日の様子などの動画を送ってくれる。
遅くにできた子どもは可愛くて仕方ないらしい。
弟を見ていると彼のお姉さんの気持ちが分からない訳でもない。
でも彼の話を否定も肯定もせずに、そっかと聞いていた。
それ以上は何も言えなかった。

「流れ星を三回見たら帰ろう、あっ、そこにひとつ見つけた!」

彼は一つ目の流れ星を見つけたようだ。

夜空は広くてどこか一点を集中して見ないと流れ星は見つけられない。

「ほら、また、あった!」

彼は直ぐに二つ目を見つけるが私は見つけられない。

「えー、全然見つけられない」

そう言った瞬間視界の右上をさっと流れ星が横切った。
一秒もないほんの一瞬。
帰りたくなくて、わざと見つけられないふりをした。
手を伸ばして彼の手に触れたかった。
でも、できなかった。

「あった!三つ目見つけた。よし、帰ろうっか」

彼は立ち上がった。
私もゆっくりと起き上がった。

少し歩くと背丈の低い木が茂っている藪から
「ニャァ」と二匹の猫が現れた。
白い猫とその猫より一回りくらい小さい黒い猫だった。
母猫と子猫だろうか。

「ごめんね、君たちのご飯のアジが釣れなかったんだ」

彼はしゃがんで猫の親子に話しかけた。
そこでようやく私は猫釣りの意味を理解した。

「猫釣りって、アジで猫を釣ること?」

「正解!」

彼は遅いよ!という顔をしながら正解と言ってあっ!と思い出したように
クーラーボックスを開けてチーズを千切って
猫の親子に向かってほらっと優しく投げた。
猫の親子はチーズに走り寄って来た。
アジをもらえると思っていた猫の親子は
たぶん初めて見るだろうチーズに戸惑っている様子だ。
くんくん匂いを嗅いではちょろっと舌で舐めるだけ。
でも「ここで食べないともう何も食べられないかもしれない」
猫の親子は観念したようにチーズを食べ始めた。

「ごめんね、アジじゃなくて。チーズは初めてなのかな」

彼は猫の親子に話しかける。

「この子たちは野良猫かな?」

「たぶんね、ほら、顔のところ病気している」

母猫は鼻の上にぷつぷつと出来物のようなものがあった。

「可哀想、連れて帰る?」

彼は猫好きだからこの子たちも飼って貰えるかもと期待した。

「いや、もう家にはクロっこがいるし」

クロっことは飼っている猫のこと。

「猫って長生きする子だと十五歳とかオレ、そのとき六十歳だよ
そんな長生きしたくない」

彼はもう猫に限らず生き物は飼いたくないと言った。
そんなに自分は長生きしたくないからと悲しくなる理由から。
彼の言葉に不安になる。
なぜなら、彼の子どもを産もうとしているから。
産まれてきた子どもを目にしたら、
もう少し、この子のためにこの世界にとどまっていたい。
でも、その思いが彼をさらに苦しめるのではないか。

一台の車が入って来た。
猫の親子はライトに驚いて逃げていった。

帰り道は下り坂。
荷物を持っていると前につんのめりそうになる。
私はバケツを持ち彼は釣り竿とクーラーボックスを肩にかけている。

「クーラーボックス半分持つよ」

持ち手に手を伸ばそうとした。

彼は「大丈夫だよ」頑なに拒んでいるけど
肩の負担を減らそうと持ち手を左手で持ち上げた。

持ち手の片方をひょいと彼の左手から盗んだ。

「ほら、ふたりで持つと軽くなるでしょ?」

「ほんとだ、軽くなった」

あなたの抱える重い荷物を半分持ちたい。
ひとりで抱えることないんだから。
そうやってふたりで半分こして生きていこうよ、そう思った。

部屋に入り荷物を畳の上に降ろした。

「お風呂行こうっか、何時までだっけ?温泉に来て入らないで帰るとか
セックスだけしに来たようなもんだからね」

「十一時までだって、今、何時?」

はっとして顔を上げ時計を探して部屋中を見回した。

「十一時十五分だ、あー、閉まっちゃったな」

「じゃあ、明日の朝、早起きして行こうよ
朝九時から開いているみたいだから」

そう言って浴室に向った。

彼は浴室から出て来たすっぴんの私を見てこう言った。

「おまえ、すっぴんの方が可愛い、嘘っぽくなくていい」

そして「セックスする?」と。
その一言に堪えていた気持ちが溢れ出す。
彼の首元に手を回してキスをした。
ねぇ、好き、好きなの。彼の薄い唇に自分の唇を何度も押し当てる。

「こらこら、強すぎるよ」

彼は立ち上がって部屋の照明を落とし、こう言った。

「脱いで、自分で脱いで」

そして畳の上に腰を下ろして煙草に火を付けた。

ワンピースを脱ぎ捨ててブラジャーとパンツだけになった。

「今まで、何人と、そうやって不倫して来たの?」

彼は煙草を吸いながら少し意地悪な笑みを浮かべて聞いた。

下着を脱ぐと、彼も自分でパンツを脱いだ。
次の瞬間、息を吸い込みながら両腕を大きく広げて私をきつく抱き締めた。娘の顔が浮かんだけれど無理矢理に振り払った。

ふたりの吐息が触れる。
彼は強引に舌をねじ込ませてくる。

彼の髪をクシャっと掴んで、今度は私の舌を強引に入れた。
お互いの中へ交互に入りながら
舌で粘膜を辿りざらりとした表面を撫であう。
いきなり左手の長い中指を膣の中に差し込んだ
驚いて「痛い」と言おうとしたが
何の抵抗もなくするっと指を飲み込んでしまう。

彼の唇が私の唇をこじ開ける。
その隙間から彼の生温い液体がトロっといやらしく私の中に入って来る。
気持ちいい。
舌も吸い取って注がれた液体を飲み干す。

彼は右手で足を広げようとした。
足を閉じて抵抗する振りをした。
「ダメ、開いて」指先に愛液を塗り
入口に沿って丸くつっとなぞるとまた中から溢れ出てくる。

「あっ、あっ、」

溜まらず声を上げる。
クリトリスを摘みあげた。
身体がビクッと反応して「あ、はぁっ」と吐息まじりの声が出る。

「こら、声、隣に聞こえるだろ?」

口を手で塞ごうとしてもはぁはぁという熱い吐息と一緒に零れる。
いきなり立ち上がり、口に熱く屹立した性器をねじ込ませた。
苦しくて涙目になった。

「もっと奥まで」

さらに奥まで性器を突っ込んだ。

そして急に私を押し倒して
腰を持ち上げると陰部に顔を埋めてクリトリスを吸い上げた。

足の付け根が激しく痙攣した。
私を下に組敷いて膣の入口に性器を当てがって囁く。

「ねぇ、見て」

私が視線を下腹部に落とすと彼は一気に私の中へ入ってきた。

絶妙な振動でゆすり立てその度に全身が溶けていく。
背中に腕を回してもっと深く彼を感じたいともどかしさで腰が揺れる。
もっと、ねぇ、もっと、あなたが欲しいの。
ずっと、こうしていたいの。
私の手をシーツに付かせてより深い結合を求めた。
後ろからこれでもかと責められると
性器が子宮を破り心臓を突き抜けて
もう、このまま殺されてしまってもいいと思う。

彼の陰部に顔を埋めて性器を口に含む。
つるりとした感触の亀頭を唇で包んで
透明でヌルヌルした液体を口に含むと舌がピリッとした。
性器を膣の入り口に当てがり一気に腰を落とした。
この騎乗位の格好がいちばん好き。
子宮の奥まで突き抜ける甘い感覚がふわっと体に響く。
挿れただけなのに「はっはっはっ」と息が上がり
子宮がキュッと縮んで精液を絞り取りたくなる。

「気持ちいい あ…あっ。いっちゃう、いっちゃう。ダメ、だめっ」

「いやらしい奴だな」

私の腰を掴み下からさらに強く強く突き上げる。
好き、あなたが好き。涙が頬を伝う。

「好き、ねぇ、好き」

「ダメだ」

彼は顔を横に向けて拒絶した。

どうして?こんなに一番近くにいるのにこんなに繋がっているのに。
身体は熱いのに心だけが冷静になっていく。

「オレ、イけないんだよね」

私を見上げながら彼が呟いた。

「〇〇〇〇とやってたとき
イッた後で気づいたらコンドームなんて奥で外れて
精液まみれだった。中で出したのにできない、オレは種無しだから」

どうしてそんな話するの?そんなの聞きたくない。
次の瞬間、彼は信じられない言葉を私に投げつけた。

「オレ、みいちゃんじゃないとイケないんだ!」

誰なの、みいちゃんて?

「好きな人なの?」

「みいちゃんは飲み友達で学校の先生やってるんだ
だからすごく真面目なんだ」

「お互いに好きなの?」

「うーん、どうだろ?酔ってるときは
それっぽいこと言ってくれるんだけどなぁ」

見たこともない様な穏やかな笑顔でそう言った。

なんで今言うの?あなたが今抱いているのは私なんだよ。
どうしてそんなこと言うの?

頬を思い切り引っ叩きたい。
腹の底から湧いてくる、どす黒い感情を必死で抑えた。
肩にしがみついて腰を思い切り前後に振りながら喘いだ。
喘ぎ声が虚しく響くだけ。
彼は私の腰を両手で持ち上げるような仕草をした。
離れろ、という合図。
そっと腰を浮かせると、彼はするっと私の中から出て行った。

「今何時?二時か寝るか、終わり!」

彼はバッグをごそごそとして白い袋を出した。
青い文字で「内服薬」と書かれているのは病院で処方される薬の袋。
十種類程の錠剤を口に放り込みビールで流し込んだ。
横になると一分も経たない内に鼾をかきながら眠ってしまった。

オレが抱きたいのはお前じゃない、みいちゃんだ。そう言われたのだ。

今日一日一緒に過ごしたこの幸せな時間は一体何だったのだろう。
涙が堪えきれなくなって
一粒の涙がぽろりと頬を零れ落ちるのと同時に激しく慟哭した。
深い眠りについている彼は泣き声に気付く様子もない。
寝顔を覗き込むと悲しいのか悔しいのかよく判らない感情が湧いてくる。
みいちゃんを二度と抱けないようにその腕を切り落としてしまいたい。
彼を殺してしまえば最後に抱いたのは私になる。
両手を彼の首に回して喉ぼとけに触れた瞬間
彼はすうっと大きく息を吸った。
そんなことできない。
涙が彼の頬にぽつりと落ちた。

額にキスをして眉間から鼻と口そして顎へと唇を這わせた。
左隣に横になり、白髪交じりのごわごわした髪を撫でた。
すうすうという寝息が聞こえる。
彼の右隣によこになると眠れないと思っていたのに
体はとても疲れていたようですぐに眠ってしまった。

はっと目を覚ました。
ここはどこだろう。
見慣れない和室の天井が目に飛び込んで来て薄明るい部屋を見まわした。
隣には裸で寝ている彼。
昨夜の出来事は現実なんだ。
寒い、窓が開いていた。
窓を閉めてどこかに脱ぎ捨てたワンピースを
テーブルの下に見つけ頭から被った。
テーブルの上のスマホで時間をみると午前四時だった。
二時間も寝ていない。

彼の隣に横になり、もう一度眠ろうと目を閉じたけれど眠れない。
彼の肩に触れてみると冷たかった。
布団を肩までかけ直して髪を撫でた。
愛おしい、でも憎い。
朝日が差し込んで部屋を明るくしていく。

寝入った時と同じ右肩を下にした横向きの姿勢で
微動だにせず眠り続けている。
時々すぅっと大きく吸い込む息が苦しそうに感じて
仰向けの姿勢にしてあげるとふうっと大きく息を吐いた。

胸に触れると心臓の鼓動が手のひらに伝わってくる。
肋骨の浮き出た脇腹からお腹下腹部へと手を這わせていった。
性器に触れるとそこだけ少し芯が残っているように硬かった。

右手で包み込み上下にそっと動かすと更に固く屹立していく。

彼の精子が、どうしても欲しい
その衝動を抑えきれずに上に跨り腰を深く沈めた。

「もう、何してんの?もう!レイプだ、レイプされてる」

言葉とは裏腹に嫌がる素振りは無い。
腰を掴んで下から突き上げた。
性器を膣に何度も何度も擦り付けひとりで勝手にイッた。
「彼の精子が欲しい」ただ、それだけ。

彼は私のことを好きなのだと信じていた。
でも、完全に私の一方的な片思いだった。
悲しさと寂しさを体が空っぽになるくらい世界にぶちまけたかった。
胃が痙攣するような気持ち悪さを感じた。

急に、彼がごそごそと動き出した。
眉間に皺を寄せて口をパクパクさせて何かを言っている。
聞き取れなくて、彼の顔を覗き込んだ。

「どうしたの?」

「肩が痛い、ぎゅってして」

右手で左肩を押さえて痛いと訴える。
目には涙が浮かんでいた。

「大丈夫だよ、大丈夫だよ」

彼の左肩を包み込むように優しく撫でた。
この手のひらで痛みを吸い取れたらいいのに。
何度も何度も撫でた。
表情がふっと穏やかになり安心したようにまた眠りについた。
また直ぐに「肩が痛い、ぎゅってして」また肩を撫でる。
「大丈夫だよ、大丈夫だよ、私が傍にいるから」
彼の表情が穏やかになった。

「ソロはやめて…」

うわ言の様に呟くと目からつぅっとひと筋の涙を流した。
一体何を抱えているのだろう。
武道館のステージに立って輝いていた彼が
今は弱々しく泣きながら眠っている。
ずっと彼の傍にいた。
目を離した隙に彼が消えてしまいそうだったから。

「私があなたの傍にいるよ、大丈夫だよ」何度も心の中で繰り返した。
こんなに誰よりも彼の傍にいるのにどうしてこんなに寂しいのだろう。
やっと手に入ると思った彼が砂のように私の指の間からすり抜けていく。
止めどなく流れる涙が頬を伝い、彼の肩を濡らしていく。
このどうしようもない気持ちを誰かに聞いて欲しい。

「お薬を飲んですぐに寝てしまう彼 夜中に何度も魘される彼の髪を肩を背中を撫でると安心したようにまた眠りにつく 私がずっと彼の傍にいたい」

一気に文字を入力しツイートした。
「ここであったことは誰にも話さない」という約束は破ってしまった。
このツイートが取り返しのつかない事態を招くなんて。

チェックアウトの十時が近づいても起きる様子がない。

「もうすぐ十時だよ」

肩を優しく叩いて起こすとはっとして上半身を起こした。

「今、何時?」

「もうすぐ10時になるよ」

立ち上がってふらふらとした足取りでトイレへ行こうとして振り返った。

「オレ、何でこんなに疲れてるの?夜中にセックスした?」

「うん、したよ」

出来るだけ明るく答えた。

温泉街を抜けて少し道なりに進むと
港の近くに土蔵造りで町家風の観光案内所がありそこに車を停めた。
彼は車を降りて煙草を吸いながら海の近くまで歩いて行く。
防波堤ギリギリのところに大きな木が一本立っていて
心地良い日陰を作っている。
すぐ下を見ると、潮が引いていて小さな魚が泳いでいるのが見えた。

「オレ、ここの海好きなんだよな」

彼と一緒の時間がもうすぐ終わってしまう。
涙が出そうになる。
海を見ながら言った。

「○○さんは、私のことは本気で好きにならないでしょう?」

「ならない」

言い終わらないうちにはっきりと言った。

「私が独り身になって、ここに来ても受け入れない?」

「受け入れない、次にそんなこと言ったらオレ
おまえのことブロックする、旦那にバレたら激怒する」

そう吐き捨てて私を冷たく引き離した。

「じゃあ、思っているだけならいいでしょ?
結婚とかできなくたって思っているだけなら」

彼に涙を見せないように背を向けた。

「そうだ、オレもそうだから」

そうだね、あなたの愛する人は、みいちゃんだから。
私はあなたが好きで、でも、あなたには好きな人がいて。
ふたりとも一方通行の恋なんだね。
寂しいね。
どんなに身体を重ねても届かない。
瓶の底の残り少ないマニキュアを
刷毛で取ろうと必死で瓶を左右に揺すっても、決して届かない、そんな恋。私たち似たもの同士なんだね。

彼は広場の入り口にある自動販売機で缶コーヒーを買った。

「オレ、毎日こういうの4.5本は飲んでるんだよな」

「私、缶コーヒーが苦手だから毎朝ちゃんとドリップコーヒー淹れてるよ
私と結婚したら、毎朝淹れたてのコーヒー飲めるのに
〇〇さん、残念だね」

わざとそう言ってミネラルウォーターのボタンを押した。

帰る前におばあちゃんの家の納屋に入れてもらった。

「それは取らないの?彫ってあるから?」

右腕のサポーターを指さして聞いてみた。

「彫ってたら見せるだろ?」

少し投げやりに「ほらっ」という感じにサポーターを剥ぎ取って見せてくれた。

タトゥーなんかではなかった。
十本くらい蚯蚓腫れの様に赤くぼこっとした線があった。
アームカットと言われる自傷行為の跡。
やっぱりと納得して驚かない自分がいた。
自傷行為を否定も肯定もしない。
それで心のバランスが取れるのなら
お酒や煙草やセックスと同じくらいにしか感じない。

「〇〇さん、今日はちゃんと目合わせて話してくれるね」

「そりゃ、1日一緒だったし」

彼は恥ずかしそうに笑った。

「暇だ、暇だからセックスする?」

何、それ。
私の事は受け入れないと言っておきながらセックスする?なんて。
わざと聞こえない振りをした。

「無視?無視か?」

「えっ?何て言ったの?聞いてなかった」

「暇だからセックスする?」

「もう!」

そう言って彼に背を向けた。
彼は家の中に入ろうと言った。
畳の上に仰向けに寝転んだ。

「暇だー」

「じゃあ、する?」

彼の顔を覗き込んで目を閉じて唇が触れるくらいの軽いキスをした。

彼も目を閉じてキスを受け入れると
「ちょっと待って、こっち来て」と言った。
玄関を入って右側の部屋。
敷布団の上の雑誌や漫画を畳の上に押しやると
「おいで」と甘えた声で私を呼んだ。
冷たく突き放したのに今度は優しい顔をして抱こうとする。

狡いよ、あなたのそんなところが狡くて嫌いよ、でも、大好きなの。

向かい会って座り彼の肩に顔を埋めて甘えると
私の背中に手を回して優しく抱きしめた。
彼の腕の中で大きく息を吸った。
ずっとこうして抱き合っていたい。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。

彼はワンピースの裾を捲り上げると
下着の間に左手を滑り込ませて下着を脱がした。
彼はTシャツを脱ぎ捨てて私を腰の上に座らせた。
するっと性器が入っていく。
彼の肩にしがみつきながら「あっ…あっ…あっ…」と短く喘ぐ。
子宮がキュッと収縮して甘い感覚が身体と脳を突き抜けた。
四つん這いにさせて
これ以上入れないというところまで突き上げて射精した。
熱い精液が脈打つように子宮に注がれるのを感じながら
彼の全部を受け止めた。

「シラフでセックスしたのなんて高校生以来だ」

そんな明るく言わないでよ。
彼にとってセックスはそれ程深い意味など持たないらしい。
セックスがその後の人生を変えてしまうなんて思っているのは
きっと私だけなんだ。

「私ね、〇〇さんの横顔が好きなの、すごく綺麗だと思うな」

右手の人差し指で彼のおでこから鼻そして口元のラインを宙でなぞった。

「正面から見ると不細工だから?」

「だって、横顔の写真が多いんだもん」

「ドラム叩いてるからな」

そうだよ、あなたのその横顔をもっと見ていたい。

彼のスマホのアラームが鳴った。
ここを出る時間を知らせるアラーム。

「十二時だ、そろそろ行くか、昨日のバス停のひとつ手前でいい?」

「うん、いいよ」

Tシャツを頭から被る彼の背中に言った。

後ろを振り返らずに一気に階段を下まで降りて
車のドアを開けて助手席に座った。

昨日は登って来た坂道を今日は反対方向に下っている。

「そう言えば、あれ書かなくていいの?」

ここでのことは誰にも話さないことを約束する念書のこと。

「いいよ、書かんで、お前のこと信用してる」

胸がチクリと痛んだ。

車が高い橋の上を通りかかった時だ。

「ここから高校の同級生が飛び降りたんだ、、死ぬのはここって決めてる」

本気なのか冗談なのか判らないことを口にした。

「私はまだ生きていたい、せめて孫の顔は見なきゃ」

「そんなに長く生きたいの?」

「うん、私は生きたい、でも、どうしてものときは私も誘って」

「嫌だ」

「私はあなたの力になりたい、困っていたら直ぐに駆けつけたいなのに
物理的に距離が遠くてどうすることもできない」

「君には助けて欲しいなんて思っていない」

「もう私は○○さん以外の人に抱かれたくないし
もう一生分のセックスはしたよ、○○さんが人生最後の人で良かった」

彼は何も言わなかった。
ふたりともしばらく何も喋らなかった。

高速バス停のあるインターに近い道の駅に着いた。
隣にあるカレー屋さん、お店の外までスパイスのいい香りがして来た。

「お腹空いたね、カレー食べよう」

私は夏野菜カレー、彼はカツカレーを選んだ。
お腹が空いているはずなのにあまり食べられなかった。
隣の産直市場で、彼がお土産を選んでくれた。

「これこれ」と言いながら板わかめと白い蒲鉾と赤天を選んでくれた。
車に戻り、シートベルトをしながら彼が言った。

「やっぱり、大朝のインターまで送る」

「いいの?」

「うん」

「ありがとう」

一緒にいれる時間が長くなった。

「田んぼの稲見てみる?」

車を降りてふたりで風にそよいでいる稲を見ていた。

「あの人たち、稲がそんなに珍しいかって思われているだろな」

彼が稲の尖った葉っぱを撫でながら言った。

山が近くにあって田んぼが広がる田舎の風景。
私の実家もこんな感じだった。

「うちの実家も震災前はこんな感じだったよ、でも、原発で
田んぼはやめちゃって、家が建ってるの。
あとね、家のおじいちゃん飛行機の整備士だったんだ整。
備士って最後の方まで招集されないんだよね。
でも人がどんどんいなくなって招集命令が下って
一週間後に終戦迎えたんだ空襲の時は品川に飛び込んだみたい。
もし一週間早かったら私〇〇さんに会えていなかったんだね」

懐かしい風景に安心したのかおじいちゃんのことまで喋ってしまった。

「うちのじいちゃんは原爆が落とされたとき実の妹が広島にいて
連絡も取れないから心配でここから歩いて広島までいったらしい
昔の人って凄いな」

彼も自分のおじいちゃんの話をしてくれた。

あと三十分後には別れなくてはいけない二人がする会話なのだろうか。
老夫婦みたいだ。彼の顔を見つめる。
彼は「どうした?」と顔をした。
今なら「あなたが好きだから一緒にいたい」と本当の気持ちを言える。
でも、彼が好きなのは、みいちゃん。
そう思うと、もう、何も言えなくなった。

大朝インターのバス停まであっと言う間だった。
車から降りたくない。
「帰りたくない」と我儘を言ってこのまま車を降りないでいたら
「仕方ないな」とまたおばあちゃんの家まで連れて行ってくれる?

スーツケースには二、三日分の着替えが入っている。
お財布には少し多めの現金とキャッシュカードも通帳も印鑑や
運転免許証や健康保険証の身分証明書も揃っている。
それに離婚届けの用紙も手元にある。
このまま彼の元に居ついてしまう事も出来る。
でも彼は本気で好きにならない受け入れないと言った。

彼が助手席の窓をコンコンとノックした。

「どうした?降りんの?」

「ごめん、バス来ちゃうね」

「嫌だ、帰りたくない、あなたと一緒にいたい」そう言おうとした瞬間

「バスに乗ったら、ここでのことは全部忘れろ」

彼は私の目を見ないで言った。
伸ばした手をバサッと振り払われた気がした。
彼がどんな顔をして言ったのか、怖くて見ることができなかった。

「分かってるよ、忘れる」

私も彼の目を見ないで答えた。

「ありがとう」

バスに乗った途端一番後ろの席まで走って
手を窓にくっ付けて彼に手を振った。
最後まで彼の姿を見ていたかった。
彼はバスが見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。
バスがカーブを曲がって高速道路に入った瞬間
彼が背中を向けて歩いて行く姿が見えた。

『シンデレラは24時の鐘が鳴るまでのたった2時間で
王子様に自分を強烈に残していきました。
慌ててお城から帰る時に偶然にガラスの靴が脱げた訳ではありません。
王子様に自分のことを探して見つけて迎えに来て欲しいから
わざとガラスの靴を落としていったのです。
私は一日彼と過ごしてシンデレラよりたくさん時間があったのに
彼にきちんと自分の気持ちを伝えることも出来なくて
そして身体でも彼を魅了することが出来ませんでした。
ガラスの靴も用意していなかったから
これじゃ、彼は追いかけて来てくれるはずもありません。
とても残念なお姫様が出て来るお話しです。』

バスの一番後ろの席に力なく座り込だ。
涙が出そうになるのを、息を止めて必死に堪えた。
ここで泣いてしまったら
彼の元に戻りたい気持ちを止められなくなってしまう。
帰りのバスの中で何をしていたのだろう。
今でも思い出せない。

バスはいつの間にか広島市街地へ入り、広島駅へ到着した。
エスカレーターで新幹線ホームへ上がり
ベンチに座ってひとりで新幹線を待っていた。
バッグから封筒に入った離婚届けの用紙を引っ張り出した。
ここぞと言う時に使うとっておきのカードを使う事は無かった。
半分に折ってホームにあったゴミ箱の中に捨てた。
東京行きの新幹線がホームに入って来た。
シートに座り目を閉じた。
何も見たくなかった。
何も考えたくなかった。
いつの間にか眠ってしまったようだった。
新幹線が岡山や新神戸、新大阪、京都と停まる度にはっと目を覚まして
ここはどこかと見回して確認した。
そして帰りの新幹線の中だと判るとそのたびに絶望した。

最寄りの駅のロータリーに旦那の車を見つけた。

「ただいま」

「お帰り、楽しかった?」

「うん、留守中ありがとう」

家に帰ると、娘が笑顔で「ママ!お帰り」と出迎えた。
娘の笑顔に安心した。
私の居場所はここで、ここに、居るしかないのだ。

彼に「ありがとう」のラインを送れなかった。
会いたい気持ちが止められなくなってしまうから。
そしてスマホを抱える様にして眠った。


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