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『精一杯の噓』第四話-人生は嘘だらけ-

翌朝、目を覚ましてここが自宅の寝室だと分かると
帰って来てしまったという絶望感に襲われた。
すぐにシーツの上のスマホを手繰り寄せて
ラインが届いているかチェックしたが何もなかった。
ファニコンにもメッセージは無い。
あるのはもう7月23日は過ぎ去ったという事実だけ。

仕事を終え帰宅すると
彼がおばあちゃんの家の納屋からライブ配信をしているところだった。
パソコンのキーボードが使えないし
ライブは今週の土曜日なのにどうしよう、と焦っている様子。
仕事が遅れている。私のせいだ。。。
「大丈夫?」と一言コメントしたけれど
彼は私のコメントから目を逸らした。
何かいつもと違う。
気のせいだろうか。
彼の態度にザラっとした違和感を覚えた。

それから30日のライブの時に
手紙やプレゼントを渡すという企画の参加を辞退した。
発案者の「猫くん」にそのことをDMで伝えた。
何もかも終わってしまった。
そんな抜け殻状態で何と手紙を書けばいいのか判らなかった。
その日の夜も彼から連絡はなかった。
昼間に感じた違和感がずっと心に引っかかっていた。

翌朝、着替えと化粧を済ませて
会社へ行こうとした時彼からラインが届いた。

彼:「あなたツイッターに何か書いてない?」

それを見た瞬間頭からサッと血の気が引いて行くのが分かった。
あのツイートのことだ。

今直ぐあのツイートをした理由を説明したかった。
彼ならきっと判ってくれるはず。
電話をすると呼び出し音が鳴って直ぐに電話に出た。

「ファニコンの人とやっぱり繋がっていたんだね。何を書いたの?」

電話の向こうから彼の怒りと苛立ちを含んだ声が聞こえた。
怖くて体が小刻みに震えた。

「空を撮った写真を切り取ってツイッターにアップした」

嘘をついた。

「それはアウトだよね。あと、薬を飲んで寝ちゃったとか書いたよね?
ファニコンの人じゃなくてレッスン生が教えてくれた。
どちらにせよ約束は破った。終わりだ」

彼はツイートのことをすでに知っている。
ライブ配信の時に感じた違和感はこれだったのか。

「待って、私がどうしてそんなこと書いたか理由は聞いてくれないの?」

「聞かねえよ!こっちは四時から起きて仕事してんだ!
約束破っただろ?もう終わりだ!」

彼は堪えていた怒りを爆発させ激しい怒声を浴びせる。
そしてブチっと電話を切った。

頭が真っ白になった。
何てことをしてしまったのだろう。

あんなツイートなんてしなきゃよかった。。。
なぜそのツイートを全く知らない人が見ているのだろう。
でも、彼が怒っているのはそれが原因だ。
後悔で体がガクガクと震えて来た。
今直ぐにでも彼にあのツイートを説明したい、誤解を解きたい。

会社に休みの連絡を入れスマホを握り締めたままソファーに座り
どうしようどうしようとばかり考えていた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。

全身が熱っぽくてお腹が張っている気がする。
下腹部にもぞもぞと感じる痛み。
トイレへ行くと黄白色の粘液が出てきて一瞬彼の精液だと思った。
でも、三日も経っているからさすがにそれはない。
トイレットペーパーに手を伸ばした時突き上げられるような激痛が走った。「うっ」と呻き声が出て子宮周りが熱くなった。
この痛みは膀胱炎に違いない。
ソファーに横になると寒気がしてエアコンを切った。

これから更に熱が上がりそうだから病院に行ったほうがいい。
でも誰とも話したくない会いたくない。

ガチャっと玄関の鍵が開く音が聞こえて旦那が帰って来た。

「ただいま。寝てた?具合悪いのか?」

「たぶん膀胱炎だと思う」

「病院行ったのか?もう、旅行から帰って来て膀胱炎とか遊びすぎ
明日ちゃんと病院行けよ。そうそう明日から京都だ、朝早いぞ」

「ごめん、体がしんどいからご飯の用意が出来てなくて。先に寝るね」

「いいよ。隣でご飯食べさせてもうらうわ」

「ごめん、お義母さんにありがとうって言っておいて」

寝室へ上がりベッドに横になった。

誰にも邪魔されずに
深くて暗い海の底にずっと沈んで溺れて死んでしまいたい。
何もかも終わってしまえばいいのに。

「水、置いとくよ」

旦那の声にタオルケットから手を出して振った。
ありがとうのサイン。
枕元の鎮痛剤を取ろうとして止めた。
妊娠の可能性はあるのだから。

目を閉じてウトウトするけれど全身が痛くて目が覚める。
何度も夜中に目を覚まし夜が途方もなく長く感じた。

翌朝、6時半くらいに旦那をベッドの中で見送った後
ラインの通知音で目を覚ました。
彼からだ。。。
一縷の望みをかけるけれど見事に打ち砕かれた。

彼:「貴方を許したわけではありません。
謝罪というのは、祈るしかありません。
たくさんの人が裏切られたと思っています。
わかりませんか?ステージを上げて活きてください」

ステージって何のことなの?意味が判らない。

「オレの求めるレベルの女ではない」
「お前はオレと釣り合わない」
「不倫も上手く出来ない女なのかよ」

人格否定されたのは初めてだ。
心の何処かで忘れられなかった彼と
運命の糸に手繰り寄せられるように出逢った。
やっとやっと本当の愛を見つけたと思ったのに
結局こうして終わってしまう。
彼が運命の人だと信じたのに。
その糸を切ってしまったのは紛れもない自分自身。
補給船も来ない、何処へ辿り着くのかも分からないまま
たったひとりで広い宇宙の中に何も持たず放りだされてしまった。
周りは途方も無い暗闇が広がるだけ。
タオルケットをぎゅっと握り締め顔を埋めて大声をあげて激しく泣いた。

体調不良が重なって会社を三日間も休んでしまった。
こんなに休んだのは入社以来初めて。
金曜日に出社して溜まっていた仕事を必死に片づけた。

そしてライブ当日。
本当は彼に会いたかった。
会ってきちんと謝りたかった。
でも行けない。

ファニコンの一部の人には彼と私の事が知られている。
私がライブ会場に現れたらきっと周りから白い目で見られる。
彼もそんな私を守ってなんてくれない。
だから、行けない。

お昼近くに起きて来た娘は午後から美容院へ行くと言った。

「ママも美容院について行っていい?美容院代出すから」

「ほんと?ラッキーなんだけど、いいよ!」

電車の向かい合わせのシートに座っていた。

娘はヘアカタログを私に見せながら
どんな髪色にしようかな?ブルーブラックにしようかな?と迷っている。

私は彼のことが頭から離れずときおり暗い顔をしているのだろう。

「どうしたの?」

娘は不思議そうに私の顔を覗き込む。

「なんでもないよ、大丈夫だよ」

旦那は全く気付かないが、娘は私の微妙な変化に気づいているのだろう。
女の勘は鋭いから。

「じゃ、またあとでね」と言って娘が降りる駅の1つ前の覚王山で降りた。

初めて降りる駅。
新しいお店を探したりしてその間だけでも彼のことを忘れたかった。

駅を出て坂道を上ると日泰寺というお寺がある。
そこへ行く途中にお地蔵さんがたくさん祀ってあるお寺があった
吸い寄せられるように立ち止まって中を覗くと本堂は新しいけれど
中の祭壇はとても古く顔が風化してしまったお地蔵さんもあった。
四方八方をぐるりとお地蔵さんに囲まれていると
彼と行った五百羅漢を思い出した。
お賽銭を上げて目を閉じて両手を合わせていた時私の右隣には彼がいた。
でも、今は私独り。
あれから一週間経っている。
ようやく着床できた頃だろう。

「彼の子どもがお腹にいますように」そう願わずにはいられなかった。
彼が大きなお腹を撫でてくれる想像をすると雨粒がつうっと両頬を伝った。

駅に向かって歩いていると娘から「美容院終わったよ」のラインが届いた。

「カットとブリーチとカラーとトリートメントで全部で25600円です」
とにこやかに言う店員さんの笑顔に高いなと思いつつ会計を済ませた。

外に出るともう夕方なのに汗が止まらないまだ暑かった。

「遅くなっちゃったね、パパが待っているよ早く帰ろう」

「ママ本当は何があったの?私には教えて」

「えっ?何のこと?」

思わず後ずさりした。
娘には隠せていない、でも話す相手も娘しかいない。

「ママね、ここでの事を誰にも話さないって
〇〇さんとの約束を破っちゃったの
そしたら、ものすごく怒られちゃったんだ
謝ろうとしたけれど電話にも出てくれないし
どうしたら良いか分かんなくなっちゃってずっと落ち込んでて」

出来るだけ明るく言った。

「ママバカだね、なんでそんなことしたの?その人のこと好きだったの?」

予想外の娘の言葉に体がビクッと反応した。

「うーん、そうかもしれなかった」

視線を逸らして曖昧に答えた。

「やっぱりね、そんなんだと思ってたよ、あー、好きになっちゃったかぁ
パパには内緒にしとくって言えないよ。もう、ママもやるねー
てか、あいつ、ウチのママになんて事するの?ってムカつくし
私はその人のこと嫌いだよ。ママもそんなにあの人が好きなら
それはママの人生だからそれでいいと思うけどパパとは別れてあげて」

娘の言い分は間違っていない。
そして驚く様子もない。
私が思っているより大人なのかもしれない。
娘の手を繫ごうとした。

「もうやめてよ。私そんな歳じゃないよ」

でも、強引に手を繫いだ。

旦那に過保護だと叱られるし
実家の母にはベタベタし過ぎて気持ち悪いと言われる。
何でも話せる対等な関係の友だち親子と言うのだろうか。
親子の距離感というものが全く判らない。
気付いたら自分の恋愛事情まで話している。
娘には幸せな恋愛や結婚をして、不倫と縁の無い人生を送って欲しい。
自分の事を棚に上げてそんなの虫のいい話だ。

あの日から何をしていても縦横無尽に彼の記憶が蘇る。
彼に会いたい思いでこの一週間を過ごして来た。
日曜日の夕方5時を過ぎた頃。

「たまには歩く?」

旦那は少し陽が陰って来たこの時間に散歩に行こうと誘った。

「そう言えば、学校の成績表送られて来たの、7番だったの
上位3番以内だと学費が四分の一免除されるでしょ?
あと、もうちょっとなんだけどな」

「まあ、何でもいいよ。自分のやりたいことやってくれたら」

話す内容も娘のことが多い。
結婚して20年も経つとこんなものなのだろうか。
夫婦仲は特別良いという訳でも悪いという訳でもない。
日常の小さな不満は確かにあるが離婚を考える程でもない。
離婚して自活していく自信がない。
余裕のある生活は旦那がいて成り立つもの。
私は旦那の人生に寄り掛かって守ってもらって生きている。
自立も出来ていない私が彼のところへ行っても負担をかけるだけ。
彼との事は思い出にするべきと自分自身を納得させた。

旦那が「喉乾かない?飲み物買おう」と言って帰り道にコンビニへ寄った。

旦那はペットボトルの緑茶を
私はフルボトルの白ワインを手に取りレジへ持って行く。
帰宅してワインを瓶ごと冷凍庫に放り込み乱暴に冷やした。

「これ、酒を飲むためのだろ?」

旦那はテーブルに並んだ居酒屋の様な料理を見て笑った。

旦那は家ではほとんどお酒を飲まない。
飲むのは私だけ。
先に夕飯を食べ終えた旦那はテレビを観ていた。
ひとりでワインを飲んでいた。
サラダとサーモンをほんの一口、二口食べただけでお酒ばかり。
食事もろくに取らないから体を壊すのだろう。
ひとりでワインをほぼ一本空けていた。
体が気だるくて全身に力が入らない。
ムカムカと胃の辺りが気持ち悪くなって慌ててトイレへ駆け込んだ。
ワインと胃液だけの内容物をこれ以上吐けないというくらいに吐いた。
苦しくて涙も一緒に出てきて咽てゴホゴホと咳き込んだ。
トイレの床にへたり込み壁に寄りかかって笑った。
不意に泣けてきた。
私がしているのはやけ酒だ。
何をやっているのかと可笑しくて情けなくて笑えてきた。
冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのボトルを出してコップについで
一気に飲み干すとスマホを持って寝室のベッドに倒れ込んだ。
横になっても心臓がバクバクして息が苦しかった。
彼に会いたい、そう思うと止めどなく涙が溢れてきた
声を上げて思いっきり泣きたかった。
彼との事は思い出にする。
そんなことできる訳ない。
旦那に泣き声を聞かれないように
何度もしゃくりあげて肩を震わせて泣いた。

酔って苦しいのか泣いて呼吸が苦しいのかよく判らない。
ふと、死んでしまいたい、逃げたい、楽になりたいと思った。
1か月前まではクローゼットにこっそり隠れて彼と電話をしていたのに。
あの頃に戻りたい。
死ぬ前に彼の声が聞きたくて電話をかけた。
お願い出て出てと祈るような気持ちで呼び出し音を聞く。
でも出なかった。

私:「酔っちゃったからどうでも良くなって
吊りたいですごめんなさい。苦しい」

ラインも既読にならない。

クローゼットを開けてトレンチコートの布のベルトを抜き取り
ステンレスパイプに引っ掛けた。
酔っているから上手くベルトが結べない。
なんとかべルトをパイプに結べた。
低い位置に結んだ紐でも首を吊ったときにお尻が浮いた状態なら死ねる。
震えながら首をベルトの真ん中の穴に通した。
後はほんの一瞬の恐怖に勝てば楽になる。
魂だけになって彼の元へ行きたかった。
朝も昼も夜もずっと大好きな彼と一緒に居られる。
ベルトの輪っかの向こうに彼の姿を思い浮かべて微笑んだ。
もうすぐ会える。
ベルトに自分の全体重を掛けた。
喉に食い込み舌を噛みそうになった。
頭を鉄パイプで殴られたような衝撃が走り耳元で何かが爆発した。
全身の血流がドクドクと大きな音を立てて流れ始め物凄い耳鳴りが響いた。苦しい。助けて。
その瞬間、しっかり結んだはずのベルトがズルっと解けて
ドスンとクローゼットの床に落ちた。
落ちた時に脇腹を強打して一瞬息が止まった。
苦しい。失敗だ、失敗だ。
死ぬことも、まともに出来ない。

「何の音?どうした?」

リビングから旦那の声が聞こえたけれど無視してベッドの上に倒れこんだ。気持ちが悪くて、頭が痛い。
何も考えたくなくて目を閉じた。

水、飲みたい。
明け方に喉が渇いて目を覚まして時計を見上げると5時15分だった。
自分が生きているという現実に失望した。
あのまま意識を失って急性アルコール中毒で死んでいたら良かったのに。
枕元に転がったスマホを開くと不在着信の表示。
彼からだった。
胸に熱いものがこみ上げる。
私の電話に気づいて心配して後で電話をかけてくれたんだ。
彼は無視している訳ではない。
眠っていてその電話に気づかなかっただけ。
メッセージにも留守電のお知らせ。
怒っているのだろうか、再生するのが怖かった。

でも怒っている声でも何でもいいから彼の声が聞きたかった。
足音を立てないように階段を下りて
ソファーに座り留守番電話の赤い丸をタップした。
スマホを耳に押し当て息を止めてメッセージに聞き入る。
彼の声は入っていなかった。
替わりにテレビの音と彼の寝息と鼾が入っていた。

あのときと同じ睡眠導入剤を飲んで寝てしまったときの深い寝息と鼾。
それだけでも愛おしかった。
一瞬であのときの記憶が蘇ってまた苦しくなった。
朝陽が射し込むリビングで肩を震わせて口を手で押さえて
声を殺して泣いた。
彼と一緒にいたあの時間に戻りたい。
彼に会いたい。
魘されている彼の背中や肩を摩って、頭を撫でたい。
寝顔を見ていたかった。
たぶん今も彼は独り魘されているはずだから。
今直ぐにでも、彼の元に行きたい。
私の気持ちはどこへ持っていけばいい?

お盆休みの初日。
空港は人でいっぱいだった。
ここから実家までは飛行機と電車を乗り継いで約6時間。
移動だけでも疲れるのにある場所へ寄り道しようと考えていた。

「私はそんなの信じてないし行かないよ。
先におばあちゃんのとこ帰っているからママひとりで行って来て」

娘は行かないと言う。
どうしても行きたかった場所は座敷わらしに会えるという
業務用食品や梱包資材を販売している雑貨店。

「いらっしゃいませ!」

60代くらいの男性と女性の店員さんが明るく迎えてくれた。
スーツケースを引っ張った私を見るとこう言った。

「あら?どこから見えたの?」

「愛知県です」

「愛知県?まあ、遠い所から来てくれてありがとう
僕の奥さんは春日井ってとこ出身なんだよ。春日井って知ってる?」

「知ってます!私、春日井の隣に住んでいるんです
意外と近くなんですね、嬉しいです」

ゆっくりと店内を見回って商品を選んだ。
コストコとは違う田舎の雑貨店。
ディナーロールやプルコギは売っていない。
悩んだ末にローズヒップティーととドリップコーヒーを購入した。
座敷わらしに会えるという蔵に入るためには
お店で千円以上購入しなければならない。

「この前来たお客さんが宝くじ一等が当たったんだよ」

そう教えてくれる店員さんが蔵の2階を案内してくれた。

蔵と言っても土蔵の様な暗いイメージの蔵ではなくお店の中建てられた蔵
蔵というより倉庫という方がしっくりくる。
蔵の入り口にはオーブが写った写真や
お客さんの体験談や地元テレビ局のアナウンサーのサインが飾ってあった。神秘的なパワースポットという雰囲気はあまり感じられなく
有名人のサインが壁いっぱいに貼ってある飲食店という感じ。

「ゆっくりしていってね、カメラに映るといいね」

ひとりになって蔵の中をぐるりと見渡した。

お店の在庫商品である梱包資材と
座敷わらしへのお供え物のおもちゃやお菓子が所狭しと並ぶ不思議な空間。天井を見上げてスマホをビデオモードにして
右から左へぐるりと回して動画を撮った。
撮った映像を確認するが何も映っていない。
何回撮影しても何も映らなかった。
動画を諦めて座敷わらしと話してみようと思った。

彼が鮎釣りしている動画を座敷わらしに見せる。
彼と私の笑い声が蔵に響き渡った。
ついこの前のことなのにとても懐かしくて切なくなった。

「この人のこと好きなんだ、ただのおじさんに見えるでしょ?
でもねすごく優しいんだよ。私、この人と結婚したいの。
でも今は事情があって連絡取れないの。どうしたらいいのかな」

姿の見えない座敷わらしに向かって心の内を打ち明けた。

「あと、私のお腹に赤ちゃんいると思う?」

お腹を撫でながら座敷わらしに話しかけた。
生理が三日程遅れていた。

「彼に会いたいな」

自分で言ってはっとした。
座敷わらしには本当の気持を話している。
堰を切ったように彼への思いが溢れ出した。
彼の存在を初めて知った17年前の話、
彼と偶然再会して連絡を取り合うようになって彼に会ったこと
喧嘩して連絡が取れなくなった経緯など全てを包み隠さずに話した。

もし、誰かに私が座敷わらしに話しかけている姿を見られたら
頭の可笑しい人だと思われてしまうだろう。
でもそんなことはどうでも良い、兎に角必死だった。
自分の気持ちを素直に話せる人も
話を聞いてくれる人も座敷わらししかいなかった。
全てを話し終えて子どもの座敷わらしに
大人の恋愛事情を聞かせてしまったことを申し訳なく思った。

「私の声が届いていたら何か合図して欲しい」
姿が見えない座敷わらしに訴えた。
すると、後ろのテーブルの上の喋るクマのぬいぐるみが突然
「はははは!」と笑い出しだした。
はっとして振り返った。
普通なら怖いと感じるだろうが怖くも何ともない。
座敷わらしが合図を送ってくれた!と胸がいっぱいになった。
「頑張れ!」とこの恋を応援してくれているような気がしたから。

さらに、クマのぬいぐるみの隣に置いてあった
金のエンゼルが出たらもらえるキョロちゃんのフィギュアが
バタバタと動いた。
ちゃんと近くに座敷わらしがいる証拠だ!
座敷わらしが愛おしくて抱きしめるようにして泣いた。

「彼から連絡来るかな?来るよね!」

座敷わらしも応援してくれる私の恋はきっと上手く行くと確信した。
その後も座敷わらしと一時間以上喋っていた。
思い切り泣いて本音を打ち明けることで
固まっていた心が柔らかく解れていった。
気持ちを言葉にして伝えるだけでこんなにも心が楽になるものなんだ。

「また、来ますね!ありがとうございました!」

店員さんに笑顔で挨拶してお店を後にした。
最寄り駅に着いてから思い切って彼に電話をかけてみると
「もしもし!」彼が電話に出た。
機嫌のいい声。
周りに人がいるようで賑やかな声が聞こえてくる。
電話に出たことに驚いたのと怖くて声が出せずに黙り込んでいると
彼がチッと舌打ちをした。
そして私だと気付かずに出てしまった自分に
腹を立てているかの様に急に不機嫌になり面倒臭そうに言い放った。

「もう、こんなときかけてこんで」

ブチっと電話を切ってしまった。
唇を噛んで泣き出しそうになるのを堪えた。
電話をかけた自分を激しく憎んだ。
こんな冷たい彼の声を聞きたくなかった。
やっと繋がった電話で一言も話すことが出来なかった。
こんなとき、、それならいつ電話をしていいのだろう?
いつならいいのかそれすらも教えてくれない。

私の恋は上手くいくはずではなかったの?
こんなことになるなんて。
でも、座敷わらしにちゃっかりお願いしていた
サマージャンボ宝くじだけは当選していた。

帰省した翌日の朝のこと。
リビングでテレビを観ていると母が玄関から声を掛けた。

「ねえ、手伝ってくれる?榊やろうよ。
お父さん、いっぱい残してくれたんだからさ」

父が生前に家の裏山に何十本もの榊を植えてくれた。
それを産直市場で販売している。
虫除けのためにワンピースから長袖のシャツとデニムに着替えた。
母は枝を高枝切りはさみでバッサバッサと切り落としていく。
私は落ちて来た枝を拾い集める。
葉っぱに毛虫がいるなど考える間もない位に
容赦なく上から枝を落としていく。
枯れた葉っぱと紫色の実をひとつ残らず綺麗に取っていく。
洗っても取れないの紫の液体がしみ込んでいく。
榊を数本まとめカタチを整えて袋に入れる。
1時間かかって出来たのは20束。
手を動かしていると不思議と彼のことは考えなかった。

「無心でやれるのっていいね。でも、ひとりでやってて寂しくない?」

「慣れたかなあ。
人間いずれはひとりになるんだよ寂しいなんて言ってられないよ」

孤独死、そんな言葉が浮かんでくる。
もしものことがあっても直ぐに駆けつけるのは無理だ。
友だちの話題も離れて暮らす親が心配という話題が増えてきた。
話しても答えは出て来ないけれど
誰かと話していると不安な気持ちが少しだけ和らぐような気がした。

母は榊を産直市場に出荷すると言って出かけて行った。
冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを一本取り出し
サンルームで飲もうと思った。
このサンルームはおとうさんの自宅養療のために作ったもの。
床もアルミではなくてしっかりとした木材で広さは六畳くらい。
高山杉のテーブルと椅子が真ん中に置いてある。

窓を全開にして母がアンティークショップで一目ぼれして購入した
ロッキングチェアに座り体をゆらゆらさせて缶ビールをプシュッと開ける。まだ外が明るいうちからアルコールを飲んでも
何にも言われないのが実家の良いところ。

酔って気が緩んだからか
ふと彼の事を思い出して切なさに胸を掻きむしられた。
少しでも彼を近くに感じたくてファニコンのアプリを開いた。
グループチャットを覗くと彼が
「釣りのベストが欲しい」と投稿をしていた。
猫くんが「これはどうでしょう?」と画像を貼って勧めていた。
進める位ならプレゼントすればいいのに。

ヤフーショッピングを開いて検索欄に釣り(スペース)ベストと入力して
出て来たショップに電話をして
「お勧めの釣りベストはありますか?」と尋ねた。
お店の人は「がまかつというメーカーのものがお勧めですよ」
と教えてくれた。
そうだ、がまかつだ!

彼はライブ配信で「鮎釣りの竿はがまかつというメーカーの物が一番良くて高いものだと60万円もする」と言っていた。
だから「がまかつ」を選べば問題は無い!

お店の方が勧めてくれた13500円の釣りベストは安いのか高いのか
さっぱり見当がつかなかったけれどそれを贈ろうと決めた。
紫色に染まった指先で配送先の彼の住所と電話番号を入力した。
私が贈ったと知ったとしたら彼は受け取ってくれないだろう。
お店の人に「送り主の名前を伏せて送ってください」とお願いをした。
誰よりも先に彼に釣りベストを贈りたかった。
それに贈るということは彼の住所も電話番号も知っているという事。
そんな人は私だけだから。
キッチンもう一本ビールを取りに行きサンルームでひとり乾杯した。
彼はきっと喜んでくれる。

気分が良くなって久しぶりに彼のYouTubeを開くと
サーフゲームという動画が上がっていることに気付いた。
サムネイルを見ただけで私が撮ったものだとすぐに分かった。
あの動画を使ってくれたんだ。
彼との糸がまだ繋がっているような気がして嬉しい。
でもどこか寂しい。
波の音空の色海風の匂いすべてが昨日の事の様に蘇ってくる。
この時間に戻りたい。

どういう気持ちでこの動画を公開したの?
編集しているときに私のことを思い出さなかったの?
聞きたいことは山ほどあった。
だけど「動画アップしてくれて、ありがとう」とだけラインした。
翌朝にラインを開くと返信はなかったけれど
メッセージは既読になっていた。

帰省している間ずっと彼の事が頭から離れなかった。
自宅に帰って3日後のこと。
お昼休みに机の上でスマホを開くと
彼がグループチャットにこんな投稿をしていた。

「誰か釣り道具送ってくれた?絶対自分じゃ買わないものなんだけど」

「何が送られて来たのですか?」「注文履歴を確認しましょう」
等と次々にコメントが投稿された。
しばらくみんなのコメントを眺めていた。

「もしかして、送り付け詐欺ではないですか?」
「不審な荷物なら受け取らないで、配送会社に返したほうがいい」
話が変な方向へ進んでいる。
ちょっと待ってただ釣りベストを贈っただけなのに。

私:「持っておいて」

彼に一言ラインを送るとその意味がすぐに判ったようだ。

彼:「なんていうアホな!おいらがこういうスタイルで
釣りするのが嫌いなの分からんかい?もったいな」

私:「メルカリで売っていいよ」

全く可愛げのない返信をした。

彼:「メルカリなんかやってないし、マニアック過ぎて買う人おらんわ!」

素直に受け取ってくれないからさらに可愛くない返信をした。

私:「捨てといて」

彼「んもー、1回くらいは着るよ」

彼は「とりあえず、落ち着きました」コメントを投稿した途端
みんなのコメントがピタリと止まった。
喧嘩をしていても人の気持ちを無下にしない優しいところが好きなのに。
私は可愛げのない天邪鬼の様な事をして彼の気を引こうとしている。
どうしていつも面倒臭い事しか出来ないのだろう。
購入履歴に表示されたベストをもう一度見てスマホを閉じた。

今日は3か月に一度の検診日だった。
待合室の椅子に腰かけていると
相談室のドアが開き赤ちゃんを抱っこした若いお母さんが出て来た。

「あんまり気を張りつめないでゆっくりゆっくりね」

助産師さんが母さんに優しく話しかけると
お母さんは手で涙を拭うような仕草を見せた。
赤ちゃんの甘いミルクの匂いと命そのものを抱っこしているような温かさ。彼の赤ちゃんを抱っこしたいという希望が叶うかもしれない。
生理が一週間遅れていて、妊娠の二文字が頭の中を飛び交った。

自分の番号が表示され診察室に入ると先生の真剣な顔に少し胸騒ぎがした。

「検査も兼ねて組織をちょっと取りましょうか?」

「妊娠しているかもしれないんです。妊娠検査をお願いできますか?」

先生は特に驚く素振りも無い。

「超音波で見てみましょう」

診察室のすぐ脇にカーテンで仕切られた検査室で内診を受けた。
モニターに映し出された子宮の映像。
妊娠していたら白い丸い胎嚢が見られるはずなのに何も見えない。

「えっと、妊娠はしていませんね」

頭の中が真っ白になった。呆然としている私に先生は言った。

「この前の検査で、細胞に変化が見られたので
次回組織を取って検査してみましょう」

「はい、お願いします」

内診が終わって服を直して椅子に座る。
検査日は10月5日でどうでしょう?と尋ねられたのに
その日程でお願いしますと答えた。

診察室を出ると看護師さんが相談室へ案内してくれた。
「検査を受ける患者様へ」」と書いてある用紙を広げて
検査当日の流れや注意事項を説明してくれるのをぼんやりと聞いていた。
病状が進行していたことよりも妊娠していないことがショックだった。

私と彼を繫ぎとめてくれる赤ちゃんはいない。
だから家族にはなれない。
赤ちゃんがいないのなら彼の元へは行けない。
赤ちゃんが欲しいばかりで産んだ後の人生設計も
自分の病気も何も考えていなかった。
離婚届と帰りの新幹線のチケットの両方を用意して彼に会いに行ったり
喧嘩しても妊娠していたら彼と一緒になれると思い込んだり
私の人生は行き当たりばったりだ。
赤ちゃんはこんな無計画なお母さんを選んで来てくれるはずがない。

その二日後何事も無かったのように遅れていた生理がやって来た。
でも赤ちゃんを諦められない。

9月も中旬を過ぎたある日の朝。
寒い、、つま先が冷たくて目が覚めて
薄手の掛け布団の中に足を引っ込めて頭まで布団を被った。
6時45分のアラームが鳴ると一気に現実の世界に引き戻された。
家事を済ませ「行ってらっしゃい」と旦那と娘を送り出して仕事に行く。

夕方帰宅して一番先にすることはファニコンをチェックすること。
ここ半年はそれが癖の様に体に沁み込んでいる。

タイムラインに「みんなのこと信じているから」の一言と
画像ファイルのリンクが投稿されていた。
彼がそう言うのはファニコンのみんなに全幅の信頼を置いているから。

紫と黄色のツートンカラーのスネアドラムを両手で持ち頭の上に掲げて
田んぼの真ん中に立っている写真が目に飛び込んで来た。
シグネチャーモデルのスネアドラムが発売される。
その宣伝のための写真のよう。
猫が描かれた白いTシャツに黒のスパッツといういつもの格好。
飾らないそのままの彼らしくて、とても良い写真だなと思った。
まるでオームの黄金の触手で埋め尽くされた
金色の野を歩いているナウシカのラストシーンみたい。

シグネチャーモデルとは、一般的に特定の著名人の名を冠した製品のこと。自身のシグネチャーモデルが発売されるということは
とても名誉で嬉しいことに違いない。
例えばバスケに詳しくない私でもマイケル・ジョーダンの
シグネチャーシューズであるエア・ジョーダンは知っている。
そのマイケル・ジョーダンが活躍した
世界最高峰のバスケットボールリーグNBA。
そんなトップ選手が集まるNBAでも
自身のシグネチャーモデルが発売できるのは
選ばれし真のスーパースターだけと言われている。
だから彼のシグネチャーモデルである
スネアドラムが発売されるということは彼はスーパースターである証。

紫と黄色でも原色のような鮮やか過ぎる色ではなく
ふんわりと優しいパステルカラー同士の組み合わせがとても印象的。
季節のお花を繊細な手法で表現した煉り切りの和菓子みたい。
しかも互いの色を引き立てる補色の黄色と紫の組み合わせ。
その2色を混ぜると真っ黒にはならず
濁った灰色になると中学校の美術の授業で習った。

一般的に黄色を好む人は「自分の方を向いて欲しい甘えたい」
という自己アピールの気持ちが強いよう。
紫色は繊細で感受性が強くロマンチストで
心の豊かな人が好む色と言われている。
この2色の組み合わせは彼のイメージにピッタリ。

水彩絵の具を混ぜる時のとろりとした感触が不意に懐かしくなり
引き出しの奥にしい込んだ絵の具とパレットと筆を引っ張り出した。
パレットを開くとパキッと音がして乾燥して固まっていた。
フタが固くなったチューブをこじ開けて
黄色と青と赤の3色をパレットに絞り出した。
紙コップの水で筆を解いて赤と青を混ぜて紫色を作った。
鮮やかでどこか寂し気な紫色ができた。
この2色を混ぜれば黒っぽい濁った灰色になるはず。
あれっ?おかしい?黒にも灰色にもならない。
混ぜ方を間違えたのだろうか。
赤っぽい茶色になった。

もう一度赤と青を混ぜて紫色を作り黄色を混ぜた。
今度は赤味の強い茶色になった。
でもやっぱり灰色にはならない。
「黄色 紫色 混ぜると何色?」と検索する。
出て来たのはどれも赤茶色の画像ばかり。

赤茶色、これは彼と一緒に見た風景にあった色だ。
太陽の光に輝いた石州瓦の赤色がかった茶色と思い出した瞬間に
反射的に彼の腕を小突きたくなった。
小突くだけでは足りなくてもっと思い切り背中を胸元を頬を
「バカバカバカ」と優しく叩きたくなった。
どうしてこの色を選ぶのよ?
どうして私の心を不意に掻き乱して切なくさせるのよ、と。

深夜一時半頃枕元のスマホがブーと鳴り目が覚めた。
彼がツイートをしたお知らせだった。
お父さんと一緒に居酒屋で飲んでいる画像付きのツイート。
カウンター席にスネアドラムを乗せて白いタオルで優しく撫でている写真。彼の姿が微笑ましく思えてまた目を閉じた。
するとまたブーという通知音。
「こっんな写真簡単に撮られたらなぁ
あたしゃいまさら立つ瀬がないだろよ。お互い古くなったねぇ
なぁ、おまえさんよぅ。って ”初号機”に語りかける図です」

正直意味が判らなくてスマホを閉じて眠ろうとした。
またブーという通知音。
さっきと同じ画像で新しいツイート。
いくら酔って気分が良いからと夜中に何回もツイートは正直迷惑だろう。
ツイートの度にフォロワー数が減っていく事に苦笑いしながら
彼と初めて電話で話した夜を思い出していた。

あの時の彼は酔っていてたから
「話の内容を何となくしか覚えていない」と言っていた。
でも私ははっきりと覚えている。

「ドラムなんてやめた!」

確かにそう言った。
何と言葉をかけていいのか判らず沈黙した。
彼のいじけた様な拗ねた様な葛藤みたいなものを感じたから。

その時私の頭の中に流れてきた音楽がある。
安藤裕子の「ドラマチックレコード」
「やる気をなくしたスーパースター!待ちこがれる声が聞こえないの?
胸に秘めてる期待に応えてよ。舞台も照明もあるわ。
整えて君を待っているだけで、僕にはなんにもできないから踊ってみせて」

あの時は「やめるなんて言わないでよ。
みんなはあなたを待っているのだから」
と恥ずかしくて言えなかったけれど今なら言えそうな気がする。

ファニコンを開きメッセージを送った。
「やる気をなくしたスーパースター待ち焦がれる声が聞こえないの?
胸に秘めてる期待に応えてよ?応えてよ!舞台には光もあるわ
整えてあなたを待っているだけで私には何もできないから歌って見せて」

歌詞をちょっとだけ変えた。
恥ずかしかったから送った後直ぐにスマホを閉じて眠った。

翌朝目を覚ますと彼から返信が届いていた。
どうしよう、、また怒らせてしまったのだろうかと
ベッドの中で恐る恐るメッセージ画面を開いた。

彼:「お!どうした!あした顔あっかーってならんかい?
おいらはいつもそんな感じ。どう生きるかじゃなく、どう活きたか」

私:「私は酔って書いたわけでもないから
恥ずかしくもなんともないよ本心だからいつもそう思ってます」

ずっと待っていた彼の返信なのに
棘のあるツンデレ女子臭を漂せた返信をしてしまった。
どうしてこんな時も素直になれないのだろう。
膝を抱えながら横向きの姿勢で体を縮こまらせた。いつもより遅く起きた土曜日の朝。
洗面を済ませてキッチンでコーヒーをゆっくりドリップする。
マグカップをダイニングテーブルへ置いて椅子に座りスマホを開いた。
開いたと同時に一通のラインが届いた。

「画像を送信しました」

彼からだった。
びっくりして体が固まった。
震える指でラインを開いて更に体が硬直した。
彼ではなくお父さんの写真だったから。
どういう事だろうと画像をよく見ると
お父さんは私が送った釣りベストを着て左手でグーサインを作っていた。
黒と赤の配色がとても似合っていて思わずくすっと笑ってしまった。
彼が「お父これ着てポーズ取ってよ」と言いながら
お父さんは何のことか分からずに取り敢えずグーサインをする。
そんな親子のやり取りが目に浮かんだから。

私:「そだよ、お父さんにプレゼントしたんだもん」

全く可愛げの無い返信だと自分でも思う。

彼:「あ!そーなん?まあじゃあありがとう」

彼:「これから、どう生きるかでもなくどう活ききったかでいいのでは。
おいらはまだあなたのことを赦せていないのですが、努力いたします」

今なら、ちゃんと謝れる気がした。
本当は直接会ってきちんと謝りたかった。

私:「あなたの立場より自分の気持ちを優先してしまったこと
後悔しています。申し訳ございませんでした。本当にごめんなさい。
あなたが私を赦せるように努力すると言ってくれたこと 
ありがとうございます。あなたは悪いことはしていないです。
非難されるのは私です。
自分の行いを振り返り同じ事を繰り返さないよう生きていきます」

彼は「おおかみこどもの雨と雪」の雪が
グーサインをしているスタンプを送ってくれた。

彼:「あなたのことを本当に赦せるときがきたらお話しましょう」

でもどうしても判らないことがある。
酷いことをした私が赦しを請うべきなのに
彼は私を赦せるように努力しますと言う。
赦すとは一体何なのだろう。
どうすれば赦されるのだろう。
私はそれすらもよく判らない子どもだ。

10月初旬に京都府伊根町の浦島神社でライブがあるというお知らせ。
浦島神社?そうあの昔話の浦島太郎の伝説が残る神社みたい。
神社のHPを開くとライブのお知らせと一緒に
浦島伝説を題材にした和歌や俳句や川柳を募集しているとの案内があった。私の句が選ばれて詠まれたらライブの合間に詠まれる。
そうしたら彼の耳に届くだろうと考えたらどうしても応募したくなった。
伊根町民の方への募集要項となっているのに
県外の人が応募してもいいのだろうかと問い合わせの電話をかけた。

「もしもし、浦島神社です」

声の感じから60代くらいの男性が電話に出た。

「10月のイベントの俳句の件ですが
県外の人が応募してもいいのでしょうか?」

「ちょっと待ってくださいね、担当に変わります」

「お電話かわりました、担当の宮嶋です」

今度は女性が電話に出た。

「大丈夫ですよ、ぜひ、ご参加ください
俳句を書く短冊を三枚お送りしますので住所と名前をいただけますか?」

住所と名前を伝えると
「お待ちしております」ととても親切に対応してくれた。
その約一週間後に郵便で短冊とライブの案内のチラシが届いた。

封筒を開けてみると短冊と一緒に宮嶋さんの手紙も入っていて
温かい気持ちで一杯になり
「短冊が届きました、ありがとうございます」とお礼の電話を入れた。

亀を助けた浦島太郎は竜宮城で美しい乙姫様と出会い恋に落ち
楽しい毎日を過ごしていたが、ある日、地上に残して来た
お父さんとお母さんが心配になり家に帰りたいと言う。
乙姫は太郎を自分のものにするために太郎が竜宮城に来て
三百年が経っていることお父さんもお母さんも
すでに亡くなっている事実を知らせずに竜宮城に閉じ込めた。

そして、乙姫は地上に戻った太郎が騙されていたことを知っても
自分の元に帰ってくると信じて
「寂しくなってもこの箱は開けないで」と太郎に玉手箱を手渡した。
もし、自分の事を信じていたのならその箱は空けないだろう。
そう乙姫は玉手箱で太郎の気持ちを試した。
これは戒めの物語ではなくて乙姫の恋の駆け引きの物語なのだ。
だから、自分の気持ちをそのまま川柳にした。

「乙姫の 恋の駆け引き 玉手箱」

句の隣に「月島しずく」と名前を書いた。
短冊を小倉トースト味のラングドシャと一緒に宅配便で神社へ送った。

それから彼にプレミアムモルツのラインギフトを贈った。
10月5日は彼の46歳の誕生日だから。
そして検査の日でもあった。
検査と言っても、麻酔を使う大げさなものではない。
病変組織を切り取りそこにがん細胞が混じっていないかを確認するもの。
1時間くらい程安静にして出血などの問題がなければ帰宅できる。
窓口で受付を済ませると直ぐ診察室に呼ばれた。

「おはようございます。本日の体調はどうですか?」

「いつもと変わりありません」

「さっそくですが、検査しましょう」

少し緊張しながら内診台に上がった。

「痛いとういか、チクっと気持ち悪いかもしれません。ごめんなさい」

先生の言葉通り飛び上がるほど痛くもないけれど
下腹部にちくっとした違和感が走った。
検査に使う薬品なのだろうか酢酸のつんとした匂いが検査室に広がった。

「もう一個取りますね」

先生がそう言うと
また下腹部を金属で押されるような衝撃に不快感から顔が歪んだ。

「月島さん、最初は二か所の予定だったのですがもう一か所取りますね」

思ったより病状が進んでいたのだろうかと胸騒ぎを感じながら
下腹部の気持ち悪い痛みを我慢した。
検査が終わると看護師さんが向かい側の休憩室に連れて行ってくれた。
ベッドに横になると左手の人差し指に洗濯ばさみのような心拍計を付けた。

「このまましばらく休んでください何かあったらこれを押してくださいね」

看護師さんはナースコールのボタンを枕の右側に置いて
毛布を掛けてくれた。
部屋には私ひとりだけだった。
寒くて毛布を首まで上げた。
スカートの足元が寒くて膝を立てて縮こまり白い天井を見上げた。
もしここでがん細胞が見つかったら子宮全摘出だってあり得る。
彼の子どもを諦められるはずなどない。

仕事で落ち込んだ時や旦那と喧嘩した時、倫相手と別れた時
そんなときはいつも死んでしまった方が楽なのにと何度も思った。

生きていて、楽しいことが無い訳でもない。
辛いことや寂しいことの方が圧倒的に多くて
この先何十年もこんな気持ちで生きて行くなら早く死んでしまいたい。

残された人が可哀想だと言われても早く死にたい。
その呪いのような思考に一度捉えられると
もう何日も死ぬことしか考えられなくなっていた。
子宮頸がんの疑いと診断された時も
これで早く死ねると少し嬉しいくらいだった。
それなのに彼の子どもを産んで
三人で一緒に生きて行きたいと心から願っている。
因果応報とでも言うのだろうか?
口癖のように簡単に死にたいと呟いていたそのツケを今払っている。

2週間後の検査結果では症状はもう一段階進んだ状態。
「引き続き経過観察」だった。


今日は10月8日、京都の伊根神社でライブの日。
朝から雲一つない秋晴れが広がっていた。
歩いて近くのクリーニング店まで行こうと思った。
外に出たい気分だった。
ワンピースの裾をそよそよと揺らす風が心地良いい。
人ふたり並んで歩けるくらいの小さな橋が架かっている。
見下ろすと鮒だろうか泳いでいる魚の姿が見えた。
橋の真ん中で立ち止まりバッグから
ごそごそとスマホを取り出しツイッターを開き
彼の名前にハッシュタグをつけて検索した。
出て来た画像は黒っぽい長袖のTシャツを着て
ドラムセットの前に座った姿。
心臓の鼓動がドクンと不規則に脈打って
胸が締め付けらるように苦しくなったのは彼の姿を見て動揺しているから。
息を大きく吸い込み止めてゆっくり吐く。
震える指でその画像をツイートしていた女性にDMを送った。

私:「写真見せてくれてありがとうございます
今日はライブに行く事ができなくてツイッターを検索していたら
偶然にこのツイートを見かけて嬉しくなりメールしました
見せてくれてありがとう」

その女性は急にDMを送って来た不躾な私にとても親切に対応してくれた。
そして「何か伝えたいことありますか?DMに書いて送ってくれたら
スマホの画面見せるね」とまで言ってくれて
『頑張ってね、しずく』と書いたのDMの画面を彼に見せてくれた。

彼の反応が気になりその人に「何か言ってた?」と聞くと
「ファニコンの人?って聞かれたから
ツイッターで知り合ったって答えたよ」と教えてくれた。
良かった、気持ちを伝えられて。
そんなやり取りがあった。

とても嬉しくて晴れやかな気分になり
持っていたエコバッグを歩く歩幅に合わせて大きく振りながら歩いた。
立ち止まって空を見上げて目を瞑り
「大丈夫。きっと伝わったから大丈夫」と心の中で何度も繰り返した。

帰宅してリビングに掃除機をかけているとDMが届いた。
「もしかしてこれってしずくさん?さっき俳句が詠まれたよ」
社殿内に張り出された短冊の写真を送ってくれた。

私の川柳が選ばれて名前と句がライブ会場で詠まれた。
そして私の本名がライブ会場にいたファニコン会員に知られてしまった。
もうひとつ予想外だったことは
メッセージを頼んだ女性は私と彼の関係を知っていたこと。
想像以上に私と彼との噂がファニコン会員に広まっていた。
しまった「しずく」なんて書かなきゃ良かった。
彼からは何の連絡も無かった。

ライブが終わって2日後の夜9時過ぎ、突然彼からラインが届いた。

彼:「ホントに、もう二度と許さんからね。会ったことある人だろうけど
伝言つたえていいですか?と、ファニコンの人に言われました。
本番前に。何回怒らせるの?頭の癌?本当に悲しいです。悲しいです。」

彼の鋭利な言葉が私の胸をぐさりと刺した。
メッセージを頼んだことを怒るの?俳句を送ったことを怒るの?
どれも応援の気持ちを伝えようとしただけで
怒らせようとしてやったことではない。
どうして分かってくれないのかと苛立ちを隠せない。

私:「許さなくても私はこの世界とはもうすぐお別れだから」

彼:「じゃあ世界を汚すな!綺麗に去れ!」

私:「そのつもり、降りるには良い場所教えてくれたでしょう?」

彼:「何開き直ってんだ!おいらはもちろん
ファニコンの人も傷つけて、混乱させて、恥ずかしいと思わんのか!」

私のどの行動が彼を傷つけて混乱させたの?
その人は私と彼の関係を知らないと思っていたからメッセージを託したのにまさか知っているなんて、、私も予想外の事に驚いて混乱したのに。
でもあなたはそれ以上に私を傷付けたでしょう?
私の気持ちを受け入れないとか忘れろと言ったり
関係がバレそうになったら私の言い分も聞かずに
一方的に関係を終わらせようした。
それを棚に上げて私の行動すべてを批判する。

私:「私のことは傷つけてないの?」

彼:「ない!」

私:「ないって思うんだ。」

彼:「約束したただろうが!」

私:「私のこと抱いてるとき
なんであなたの好きな人の話されなきゃいけないの?
その人じゃないとダメだなんてなんで言うの?」

彼:「そんなの知ったことじゃ無い、不倫しに来たのに、関係あるか!
そもそも言っていただろう!あほか?」

私:「私は軽い気持ちで行ってない」

彼:「だからそんなこと俺はしらん!!
これ以上くだらんこというな!恥ずかしがれ!」

何故そんな酷いことを言えるの?
どうして、いつも、いつも、私の気持ちを切り捨てるの?
自分の心が本当に求めている彼に会いに行った。
彼に会えばこの世界が覆るような奇跡が起こると期待した。
だから不倫の一言で私の気持ちを汚いゴミの様に扱わないで欲しい。

私:「私には全く感情もなかったの?」

彼はライン電話をかけてきたけれどキャンセルをタップした。

彼:「逃げるな!卑怯者!」

私:「少しの感情もなかったの?」

彼:「ないわ!」

会いに行きたいと言った私に来るなって言ってよ。
抱いた後で好きではないなんて。
だったら最初から優しくなんてしないでよ、抱かないで触んないで。

私:「嘘つき あんまり怒らせると良いことないよ」

彼:「こっちのセリフだ!出るとこ出て戦うか?」

戦うって何よ。
あなたと争いたい訳じゃない。

「君の気持ちは判っていたよ、でも、受け入れられないんだ、ごめん」
そんな優しい言葉を一度だけでも言って欲しかったのに。

私:「それじゃあなたが不利でしょ、慰謝料請求されても困るでしょ」

どうして、こんな応戦みたいな言葉しか出て来ないのだろう。

私:「今までそんなんだからだよ バカみたい もっと上手い嘘ついてよ」

そうだよ、、優しい嘘をついて欲しいんだ。

嘘が嫌いと言う彼の真っ直ぐなところが羨ましかったのに
今はその真っ直ぐさが私を傷つける。

彼:「もう好きにして。くだらなすぎて、楽しいわ。勝手にやってろ。」

こんなことになるとは思ってもいなかった。
私の気持ちは完全に空回り。
こんなはずじゃなかった。
俳句を送ったこともメッセージを人に託したことも後悔した。
誰かに頼らずきちんと自分の口で言えばよかった。
自分が情けなくて涙が滲んで来た。

彼は私を傷付けるのにファニコンの人は傷付けるなと言う。

「ファニコンやめようかと思ってたけど、みんながここにいてくれる。
それにファニコン無くなると、収入がなくなるから」
これはいつの日かの配信で彼が言っていたこと。

彼はアイドルのように色物で売っている訳ではない。
でもファニコンの中には彼に本気で恋している人もいるかもしれない。
私もそうだから。
もし逆の立場で彼に会った!と自慢している人がいたら気分が悪い。
なぜその人だけを特別扱いするの?と激怒する。
ファン何て辞めてやるとファニコンを退会するだろう。
ファニコンの人を傷つけることは、つまり彼の収入源を断つこと。

大切なファニコンをブチ壊しに行った私を彼が許すはずがない。

私は彼が大切にしているものを大切に出来なかった。
私は人の気持ちに残念なくらい鈍感で共感が全く無い。
同情はできるのに。
彼に贈ったプレミアムモルツは受け取りされることなく
一週間後に返金の手続き案内が届いた。
それが彼の答えだ。

11月に入って最初の土曜日。
旦那に「朝ごはん食べた?」と聞かれて「うん」と嘘をついた。
起きてすぐミルクを入れたコーヒーを飲んだけれどご飯は食べていない。
コーヒーだけの朝がここ半年間ずっと続いている。

ダイニングテーブルにパソコンを広げて
彼とのことを吐き出すように書いていく。
そして、投稿するボタンをクリックすると文章が公開される。
すぐにいいねのハートが10個ついた。
誰かが「そんな辛い思いしたのだね」「悲しかったね」
「しずくさんは悪くないよ」「応援するよ」などと
優しい言葉をかけてくれるのを期待して。
いっそのこと、この文章が彼に知られてしまえばいいのに。
どんな覚悟を持って会いに行って
みいちゃんの話にどれだけ傷ついたか判るだろうから。
それに、彼は「書いてみろ、どこでも」と言ったのだ。
だから友だちにリンク先を教えて読んで貰う。

友だち:「私は話を聞いているからあのことだって判るけど
途中で何のことだろうって疑問に思うのはあったよ。
説明が足りないっていうか?これ、意味が判らない人多いと思うよ」

意味が分からない、に愕然とした。
文章を書くというのは自分の考えを文字にすること。
声にこそ出さないが、話し言葉がそのまま文章になっている。
ということは私の話し方は相手に伝わらないということ。
私の文章の何処が良くてハートを付けてくれたのだろう。

誰かに自分の考えを伝えるということが
こんなにも難しいことだとは思わなかった。
普段から自分の考えを口にしない私が
上手く自分の考えを伝えるなど出来るはずがない。

彼への想いを書き綴っていると
会いたくて恋しくてどうしようもない気持ちが止めどなく溢れ出し
ラインを開き独り言の様なメッセージを送る。
気持ちを整理するために書く。
この選択は正しかったのだろうか、、。

誰が読んでいるか分からない文章投稿サイトに自分の気持ちをぶちまける。
その行為に快感を覚えると、書くことが止められなくなっていた。
その日も、洗顔と歯磨きを済ませて
コーヒーを淹れたマグカップをダイニングテーブルにきパソコンを開いた。外はまだ暗い早朝5時半。
今朝は少し冷えるようだ。
ブランケットを肩から羽織ってガスファンヒーターのスイッチを入れた。
メールボックスをクリックすると受信トレイにメールが一通届いていた。

『ユーザーからお問い合わせが来ています』

それを見た瞬間彼に書いているのがバレた、やってしまったと思った。
同時にやった!という気持ちも湧いて来た。
「オレの事がそんなに好きだったんだ」
そんな優しくて甘い言葉をかけてくれるはず、無い。

「お前は何を書いているんだ!これ以上、オレの仕事の邪魔をするな!」
そう激怒するに決まっている。
連絡が来るのなら叱られても何でもよかった。
どうか彼からでありますようにと祈るような気持ちでメールを開いた。

「しずくさんのことを応援してます!私も◆◆◆◆さんのドラムが好きです更新を楽しみにしています。頑張ってください!青田」
彼ではないと判るとがっくりと肩を落とした。
青田さんは彼が◆◆◆◆だということを分かっている。

ファンなら彼との恋愛事情を詳細に書いている私を応援するだろうか?
青田さんのメールは素直に喜んでいいものなのだろうか。
応援していますと言いながら、本当は私のことを憎んでいるのだろうか。
もしかしたら青田さんはファニコンの人で
私のことをスパイのように調べているのだろうか。
このメールだけでは何も判らないから
青田さんに返信をしないでおこうと決めた。

コーヒーを飲みながら文章を書き投稿した。
気づくともう六時半を過ぎていて慌てて洗濯機を回した。
娘のお弁当の鳥そぼろに使う生姜をすりおろしていた時
カウンターに置いてあったスマホがブーと鳴った。
生姜だらけの手を水でざっと流してホームボタンを押した。
「青田さんがスキしました」の通知。
青田さんは一番乗りでハートマークを付けてくれた。
取り敢えず敵ではないみたい。
もう少し青田さんの様子を見ようと考えた。

ある日の夜、彼がコンカフェのメイドさんと一緒の写真をツイートした。
腸が煮えくり返るような思いがした。
娘ほど年が離れた女の子と戯れているなんて。
メイドさんと遊んでいる時間はあるのに返信する時間はないのか!
悔しくなり「次に彼がツイートしたら
ライン返してくださいとリプしてください」と投稿した。

苛々しながらリプをスクロールして見ていると
「ライン返してください」の文字が目に飛び込んで来た。
指先が止まった。
なんと青田さんは投稿を読んでリプをしてくれた。

彼は私の投稿など知らないから
「ライン返してください」の意味が分かるはずもない。
腹の底からマグマの様に沸々と湧き上がるどす黒いしてやったりの感情。
顔の左半分が不敵な笑みとともに歪んだ。
ありがとうの気持ちを込めて、青田さんのリプに「いいね」を押した。
押してからしまったと思った。
青田さんにツイッターのアカウントがバレてしまった。

数分後、青田さんからDMが届いた。
「ライン返してくだいって言ってきました!」
少し戸惑いながらダブルタップしてハートを送った。
この日を境に青田さんから頻繁にDMが届くようになった。

「僕はしずくさんの文章好きだよ」
「毎日をしずくさんの記事を楽しみに生きて来られた」
「僕はしずくさんの記事を読んで彼のツイッターをフォローしました」
「僕はしずくさんに相手して欲しくて、文章を書いている」
「ちゃんと44歳の女性なんですね」

こんな胸を小突くようなメッセージが朝昼晩問わず届くのだ。
これが彼だったらいいのにと思いながら
いつの間にか青田さんのメッセージを待っている私がいた。

ある日の夕方仕事を終えて帰宅してパソコンを立ち上げた。
「◆◆◆◆というドラマーについて」
というタイトルの記事が目に飛び込んで来た。

青田さんも彼について記事を書き始めた。
そんなタイトルの記事を見てしまったら読まずにいられなくなる。
だが、彼について記述は一切無く
青田さんの中学時代の恋愛話が赤裸々に書かれていた。
とてもがっかりしたが取り敢えずハートマークを付けた。
その後も青田さんは「◆◆◆◆というドラマーについて②」
という記事を投稿した。
でも彼について何も触れていない。
それでもいつかは彼のことを書くのではないかと
青田さんの記事が気になって仕方なくなった。
それに誰かと彼の話しをしたかった。

友だちにはもう思い出にすると言ったから
「いい加減に忘れなさい」と呆れられてしまう。
娘と恋バナが出来るといっても彼のことを話題にする訳にもいかない。
誰が誰と繋がっているか判らないからツイッターはもう懲り懲り。
だから、私の周りには彼のことを話せる相手がいない。
青田さんなら彼の話が出来るかもしれない。
「はじめまして。いつも記事を楽しく読」と入力したところで
はっとしてバックスペースキーで全消しした。
青田さんは敵なのか味方なのかまだ分からない。
話してみたいその気持ちをぐっと抑えた。

仕事が終わって車に乗り込もうとした。
ポツンと旋毛を叩かれた気がした。
朝から雲ひとつない秋晴れだったのに、雨?天気雨?
空を見上げたけれど消え入りそうな細い三日月が
群青色の空に浮かんでいた。
秋の夕暮れはどうしてこんなに涙を誘うのだろう。
私はずっとあの夏の日に閉じ込められたままで
今もそこから動き出せずにいるけれど季節は確実に移り変わっている。

先日彼の新しいバンドプロジェクトが始動すると告知があった。
彼は私を置き去りにしてひとりでどんどん前へ進んでいる。
あの日の彼がますます遠くへ行ってしまうようで捕まえたくなる。
どこにも行かないでと。

いつにも増して彼が恋しくて堪らなくなった。
助手席に置いたトートバッグからスマホを取り出して
発信履歴の一番上にある「〇〇さん」をタップし電話をかけた。
「おかけになった電話をお呼びしましたが、お出になりません」
というアナウンスが流れただけだった。
毎日、ただ、ただ、彼からの連絡を待ち続けている。
手の中のスマホからブーという通知音。
もしかして彼?違った、青田さんからだった。

青田さん:「しずくさんと、いっぱい話がしたいな」

こんな時優しい言葉をかけてくれる人がいたら
その人なら心の隙間を埋めてくれるだろうと縋ってしまう。
だってあの日の彼がそうだったから。
ただでさえ引っ越しの前夜は感傷的になる。
荷物を片付けてガランとした部屋の床の上に
彼はひとり寂しく置き去りにされた荷物のように寝袋に包まって寝ている。「フローリングが冷たすぎる」と呟いたのに優しく包みこんであげたくて「うちに、来ますか」と手を差し伸べた。
彼はその手を「もう、どこでもいくよ」と掴んでくれたのだから。

私:「話したい」

青田さんはラインのIDを送ってくれた。

私:「追加したよ」

青田さん:「今、家だから明日の昼休みに電話していい?」

家だからの言葉に違和感とういうか引っ掛かりを感じた。

「家だから電話出来ない」は不倫相手がよく使っていた言葉。
もしかして青田さんは既婚者かもしれない。
でも彼の話をするだけだから何の問題はない。
「分った、明日ね」と返信した。

次の日、午前中の仕事が終わり会社近くの喫茶店へ行った。
お店のテラス席に二人掛けのテーブル席がありそこに座った。
寒かったけれどここなら話していても周りに迷惑にならないだろう。
青田さんに電話をかけた。

「もしもし?ほんとにかけてきたね」

初めて聞く青田さんの声は透明だけれど冷たい氷のよう。
優しさは感じられずどことなく挑発的に聞こえて
すでに電話をしたことを少し後悔した。

「どうして、私と話そうと思ったの?」

「どうしてだと思う?」

「分からない」

青田さんの誘導尋問のような話し方に怖くなりいったん口をつぐんだ。

「◆◆◆◆とやった女に興味があったから」

「それだけ?」

「そう」

青田さんならぽっかり空いた心の隙間を埋めてくれる。
そう思った私を殴ってやりたくなった。
電話なんてかけなきゃ良かった、ラインなんて交換しなきゃ良かった。
でもたかがライン。
いざとなったらブロックすればいい。

「あんたムカつくし嫌いだ。
ほんとムカつく女だあんたのどこがムカつくか判る?言ってみて」

「・・・軽いところ?」

「まあ、そんなところ。あんたの言葉は軽すぎるんだよ。
ずっと昔からファンだった人にとって
あんたの言葉は軽すぎてむかつくんだよ」

「何それ?嫉妬なの?」

「嫉妬?そうかもしれないな。
あんた、一番ヤバい部類の人間と繋がったと思ってた方が良い。
でもまた話そう」

「うん」

自分を一番ヤバい部類と言い放った青田さんが怖かった。
青田さんは私を優しく包み込むどころか恐怖しか感じさせなかった。
どうしようラインも知られてしまった。
誰か、助けて。
寒いのと怖いのとで、体がガタガタと震えた。
恐怖でいっぱいになり思わず彼に電話をかけてしまった。

「もしもし」

懐かしい彼の声が聞こえた。
出てくれると思っていなかったから
何を話すかも全く考えていなくて驚いて息が止まりそうになった。
黙り込んでいると彼がこう言った。

「まったく官能小説みたいなこと書きやがって」

怒ると言うより少しだけ笑っている気がした。

「読んだの?全部?」

「いや、全部は読んでないけど
ファニコンの人があれはやめさせた方が良いよって教えてくれた。」

「でも、書いて良いって言ってたし。でも消すね。」

怒られるだろうと思ったのに笑ってくれたのが意外で
消す気もないのに思わず消すと言ってしまった。

「自分のために消しなさい。あと家族を大事にして」

私の好きな優しい彼だった。

「うん、忙しいのにありがとう」

「じゃあ、ワシ忙しいから切るな」

私が求めているのは青田さんではない彼だ。
彼がいない寂しさを埋めるのは彼しかいないのに。
青田さんと話したことを改めて後悔した。

そしてその次の日のこと。

帰宅途中にバッグの中のスマホがブーと鳴った。
ラインの新着メッセージのお知らせ。

青田さん:「今なら話せるよ。かけて」

かけてってどうしてそんな高圧的なものの言い方をするのだろう。
しかも、私のことをムカつく嫌いだと言ったのにまた話そうだなんて。
一体青田さんは何を考えているのだろう。
でも青田さんと話せるのがどこか嬉しい。

私:「うん、仕事終わったから話せるよ」

すぐに電話がかかって来た。

「しずくちゃん、僕のこと怖いって思ってる?」

「怖いよ。だって昨日あんなこと言われたし」

「怖くない怖いの封印する。優しくするから。
僕、自分の気持ちに嘘をつくの得意なの。
好きだって思ってると好きになる」

何を言っているの?
青田さんの考えていることが分からない。
黙っているとこう続けた。

「今ね川の近くのベンチに座っているの。川の名前が天の川と言うんだ
向こう側がちょうどしずくちゃんの住んでいる方向。
この川を渡ればしずくちゃんに会える」

天の川に胸がキュンとした。
でもそんな名前の川があるとは限らない。
彼と天の川を見た話を読んだから言っているだけだ。
青田さんの言葉にときめく気持ちを必死に否定した。

「しずくちゃんに会いたい。しずくちゃんとセックスしたい」

その言葉にまた胸がぎゅっと締め付けられた。
そんなこと言われるのは久しぶりだった。

「待って、あなたのこともよく知らない。
結婚しているとか何歳なのとか
そんなことも知らないのに会うなんてできない」

青田さんは33歳で既婚者で大阪に住んでいること
会ったらたくさん彼の話を聞きたいと言った。

「セックスはしないよ。でも彼のこと話したい」

「うん、会おう。いつなら大丈夫?」

たった二回しか電話で話していない青田さんと
三日後に会う約束をしてしまった。

約束の当日の午前十時少し前。
青田さんは新幹線口を出てすぐのところに白いカッターシャツに
紺色のネクタイを締めその上に会社のジャンパーを着て
ベージュのパンツ黒のスニーカーという
会社をそのまま抜けてきたかの様な恰好でスマホを見ながら立っていた。

私より頭一個分ほど高いから170cmくらい。
眼鏡をかけていて少し伸びかけた顎の髭。
お世辞にもカッコいいとは言えない外見だった。

「しずくちゃん?」

顔を合わせることが出来ずに下を向いて俯いた。
青田さんは「行こう」と言うと私の右手を捕まえて
「こっち」と言って歩き出した。
驚いて手を振り払おうとしたけれど全身の力が抜けていくのを感じて
一瞬立ち止まった。
胸がどきどきして息が苦しくなった。
この感覚はあのときと同じだ。
彼と手を繫いだときのあの感覚。

「どうしたの?」

「何でもない。手、離して」

手を掴んでいるのは彼ではない青田さんだ。
ドキドキするのは突然手を繫がれて驚いているだけ。

「ホテル行こう」

その言葉に子宮に疼くような甘い感覚が走った。
そんなことしに来たんじゃない。
彼の話をするために会ったんだ。

「しずくちゃんのことが好き。しずくちゃんとセックスしたい」

体が固まってその場に立ちすくんだ。
そう私もずっと彼とセックスがしたかった。
あの日私は彼と7年ぶりのセックスをした。
彼の性器が子宮の入り口を突き上げる痛みに似た快感と
お互いの性器を擦りつけ膣の中の痙攣を感じながら何度も何度もイク。
あの感覚がもう一度欲しい。
私の体は今、男性を欲しがっている。
膣の奥が収縮して温かい愛液が下着に沁み込んでいくのが分かる。
体の反応を悟られないように両手で頬を隠した。

「しずくちゃん、大丈夫?」

もうダメだ我慢できない。青
田さんの手を取り握り返すと「行こう」と微笑んでまた歩きだした。
表の通りから道を一本中に入ったところにあったホテルに入った。
「ここでいい?」にうんと頷いた。
部屋のボタンを押しエレベーターで6階へ上がった。
椅子に座りながら青田さんはラインを開き誰かにメッセージを送っている。私も向かい合わせに座った。

「いつもと同じようにラインしないと怪しまれるから。
あの子、本当に勘が鋭いの」

「あの子って、奥さん?」

「うん、可愛いでしょ?」

ラインのアイコンを見せてくれた。
色白で目が大きく石原さとみみたい
にぽてっとした唇が印象的な可愛らしい奥さん。
奥さんは青田さんの首に抱き付いて頬をくっ付けている。
「この人は私のものなの誰も手を出さないで」そんな無言の圧力を感じた。

青田さんが既婚者だと知っても何とも思わなかった。
誰と不倫してもバレなきゃ大丈夫。
結婚しても誰かを好きになってしまうのは仕方ないし
相手から好きだと言われるのはまだ女として終わってない証拠。

それに旦那にだって原因がある。
旦那がしてくれないから他の男性に目が行くのは仕方ない。
だから私がしたいときにしてくれる
セックスのタイミングが合う人を外に見つけに行くしかない。
7年間もセックスをしてくれなくて
自分だけ風俗に行くのだから
私が不倫をしても咎められることではない、それでお相子。
でも不倫がバレて離婚になるのは絶対に避けたかった。
もし離婚を切り出されたらどうやって生きて行けばいいのか。
人並みに稼げる能力も体力もない。
それに旦那は私が働くのは一応認めているが
「そんなに働いて欲しくない」と言っているから
本音は専業主婦でいて欲しいのだろう。
結婚は永久就職なんて言っていた時代があったけれど
その時代の義母に育てられた旦那も似た考えなのは仕方ない
私も平日昼間のパートだけでいいやと甘えていることころがある。
結婚生活を続けるのは自分の生活を守るためのある意味仕事でもあるのだ。仕事だから旦那に本音が言えない。
だって仕事関係の人には気を使って本音を言わない。
言ったら仕事がしにくくなるだろう、それと同じ。

「私したいの」

ベッドの端に座りニットとスカートを脱いで下着だけになった。
青田さんもシャツとズボンそしてTシャツとパンツも脱ぎ捨て
私の背中に腕を回しキスをして押し倒した。
シーツに頭を押し付けられる瞬間これが欲しかったと思った。
青田さんはシーツと私の背中の間に手を回して
慣れた手付きでブラのホックを外した。
乳首を吸い上げられると膣の奥が熱く濡れそぼってくる。
青田さんは私のパンツを脱がしていく。
右足首に引っ掛かったパンツを振り落とした。
右手の中指を膣の中に入れてとかき回され
人差し指と親指でクリトリスを摘まみ上げらると
「ダメ、ダメ」と膝を閉じて抵抗ようと力を入れた。
青田さんは執拗にクリトリスを責め続ける。
どうしようこのままだと本当に青田さんを受け入れてしまう。
彼がいい、、思い出し涙が出てきそうになる。
膝をガクガクと震えさせて膣の痙攣を感じながらイッた。
はぁはぁと乱れた呼吸で
「〇〇さんがいい、〇〇さんがいい」と涙を流した。

「そうだよな、〇〇さんがいいよな」

青田さんは悲しそうな顔をした。
泣きながら服を着た。
ベッドに座り自分のしたことを後悔して呆然としていた。
自分はイっておきながら青田さんを寸止めにした。
こんな最低な女って他にいるだろうか。

「しなくていいから、こっちに来て横になろう」

隣に横になり「ごめん」と呟いた。

「本当に最低な女だ、そういうところが嫌いなんだよ!」

スカートを捲り上げパンツを剥ぎ取り無理矢理に挿入してきた。
痛い! それでも、青田さんは奥まで入れようと腰を強く押し付けた。
もういいや。
抵抗するのを諦めて背中に腕を回した瞬間性器がするっと中に入った。
目を閉じて彼の顔を思い浮かべて突き上げられる膣に全神経を集中させると彼としているような気になってきた。
上に跨り腰を深く落として前後に動かすと
奥が痙攣し直ぐにイってしまった。
青田さんは上半身を起こし私を後ろに倒すと正常位の体勢で奥を突き上げてニットとキャミソールを胸まで引き上げると「うっ」と唸り声を上げ
お腹の上に射精した。
少しひんやりとして肌の上でツルっと滑るような精液の感触を感じると
避妊も病気も何も考えていなかったことに気づいて
さっと血の気が引く思いがした。
何をしているのだろう。
彼の話もせずにセックスだけしているなんて。
彼としている気分にはなれる、でも青田さんは彼じゃない。

「どうして私と会ったの?私と会ってなにがしたかったの?」

「◆◆◆◆とやった女がどんな女なのか見てみたかったから。
あわよくばやっちゃいたかったから」

「それだけ?好きだからではなくて?」

「勘違いするな、あんたを嫌いなのは変わらない」

自分の愚かさ加減に青ざめてお腹の辺りが冷たくなってくる。

「もう一回しよ」

正常位で中を思い切り突き上げられているうちに
もうどうでもいい気分になって来た。
したくて堪らなくなった時にたまたま青田さんが声をかけてきた。
お互いのタイミングが合っただけ。
だから仕方ない、、何度もイキながらそう自分を納得させた。

新幹線とJRの改札が交わるところでお互いに「じゃあ」と言って別れた。ちょっと立ち止まって振り返って見た。
青田さんは振り返らずに真っ直ぐ前を向いて歩いて行った。
もしまた会いたいと思ったら
「またね」とかそんな言葉が出て来るだろう。
無いということはもうお互いに会う気は無いということ。
帰りの電車に揺られながら
「バスに乗ったら、ここでのことは全部忘れろ」と言った彼を思い出す。

私は不倫に何の罪悪感も持たないし
人のものを盗ってはいけないという最低限のルールも守れない。
言葉に何の重みも感じられない口先だけの人間。
あの日彼がリツイートしてくれた
『うちに、来ますか?』のリプだって最初から嘘だったのだから。
彼はそれ見抜いていたから私の告白に耳を貸さなかった。
青田さんに言われた
「あんたの言葉は軽すぎるんだよ」が今になって胸に突き刺さる。

彼はそんな私を好きになるはずがない。
だから「バスに乗ったらここでのことは全部忘れろ」だったんだ。
頭からサッと血の気が引いた気がした。
呼吸が難しい。
思わず座席の端の仕切り板とドアに囲まれた空間にしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですか?」50代くらいの
サラリーマン風のおじさんが心配して声を掛けた。
「大丈夫です」ゆっくり立ち上がった。
お願いだからこんな最低な人間に優しい言葉なんて掛けないで。


「ママ!韓国コスメですっごい、いいのがあるのお願い、買って!」

娘は美容系YouTuberが
CICAという韓国コスメを紹介している動画を見せた。

「うーん、いいよ」

旦那はそんな私を「甘い」と言って怒る。
そうなるのもちゃんと理由がある。
喧嘩して娘の機嫌が悪くなり勢いで旦那に
彼のことを暴露してしまうのではないかといつも心配をしている。
だから口止め料のように
欲しがるものを何でも買ってあげるご機嫌取りをしている。
要するに娘に弱みを握られている。

娘に押し切られる様にして出かけたショッピングモール。
二階に入って直ぐCDショップがある。

「ちょっと見てきていい?」

「と」の棚を探して彼のバンドのベストアルバムを見つけて
彼の顔が載っていないことを確認して安心した。
このアルバムにはメンバーの姿は載っていない。
でも写っていないことを確認したがるのは何故だろう?

「ママ、何見ているの?」

いつの間にか隣に娘がいてCDを手にしているところを見られていた。

「ちょっとね」

笑って誤魔化したが娘に釘を刺された。

「いい加減忘れなさい」

足早にCDショップを出ると
「ママ、先にトイレ行ってくるね」とトイレへ行った。
隣にある本屋で雑誌を見て待っていようとした時
エスカレーターの前の「占い」の看板が目に飛び込んできた。
そう言えばここに占いのコーナーがあったなと思った次の瞬間
そこにいた男性の占い師に恐る恐る声をかけていた。

「あの、ちょっといいですか?」

その人は髪を青く染めて黒い忍者のようなコスチュームを着ている。
占い師は黒い服を着た年配の女性が
水晶玉に手をかざして占うというイメージとかけ離れていた。

「どうぞ」

背もたれが無い木製の茶色い椅子に座った。

「見て欲しい人がいるのですけど」

「いいですよ、じゃあこれに書いてください」

名前や生年月日を記入する用紙とボールペンを手渡された。
自分の名前と生年月日を記入して相手のところで手が止まった。
芸名と本名どちらで書こうかと迷ったが本名を書いた。

「この人を知っていますか?」

「知らない」

彼のツイッターを見せた。

「知らない」

「何を見て欲しいのですか?」

「ちょっと、その人と色々トラブルがあって
連絡取れなくなってしまってどうしたらいいか判らないんです」

涙が出てきそうになった。
この人なら彼との関係を
修復できるようなアドバイスが貰えるかもしれないと
藁にもすがるような目で見ていたと思う。

「ごめん状況がよく判らない。詳しく教えて」

彼の職業や会うことになった経緯
約束を破って喧嘩して激怒され連絡が取れない状況だという事を説明した。「ちょっと待って、それはどういうこと?」と聞かれる度に
話を戻して説明する。
「つまり、こういうこと?」それに同意したり
「そうじゃなくて、こう言うことで」と訂正しながら話をしていった。

初めて会って話す人に
状況の説明を上手く伝えることが出来ずに時間ばかりが過ぎて行く。
やっと全てを伝え終えることが出来たのに占い師はこう言った。

「結論から言うとこの恋愛は上手く行かないよ。
ファンから入っているでしょ?上手く行かない」

どうして?そんなはずはない!と反論したかった。
彼と一緒に過ごしたあの時間を全否定された気がした。

「どうしてですか?相性は悪くはないですよね?」

占い師はパソコンの画面を見ながらこう言った。

「彼との相性は60%ですね」

何とも微妙な数字を言われ更に納得が出来なくなった。

「60%って上手く行かないってことですか?」

「相性って上手く行く確率ではなくて距離感の問題
60は友だちみたいな距離感だから」

距離感?友だちみたい?どういうこと?

旦那に「お前は娘との距離感が判っていない。友だち感覚で接してはダメだちゃんと親として接しなくては娘に舐められるぞ」とよく言われる。
その距離感のことだろうか。
でも、距離感とは一体何なのだろう?
彼の隣にいると今までの人生で一番と思える位に心地良くて。
でも、あれで相性60%なのだから
もっと相性の良い人とはどんな感じなのだろう?

「じゃあ、旦那との相性は何%なんですか?」。

「0%だね」

衝撃的なことを言った

「0%?それって一緒にいてもいい相性なんですか?」

「お互いにタイミングが合わないってことない?旦那が調子の良い時は
あなたが調子が悪かったり、例えば、旦那がどっか行こうってときに
あなたは体調が悪くて行きたくないとか言うことない?
あと、相性0%ってことはどちらかがすごく我慢しないと
関係が成り立たたないってことでもあるね。
そうそうタイミングが合わないっていうのは、ックスも一緒。
向こうがしたい時に私はしたくないっていう。
だからセックスレスになりやすいよ」

セックスレスの言葉にドキッとする。

「じゃあ、娘と旦那はどうですか?」

娘の名前と生年月日を書いて見せた。

「娘と旦那は80%だね、でもあなたは旦那と娘とは0%だよ」

驚くことをさらりと言われてどう答えていいのか判らない。
家の中にも居場所がない世界で独りぼっちような感覚に陥った。
周りの人の声が遠くに聞こえる。

最後に占い師はこう忠告した。

「傷の浅い今なら引き返せる。
思い出はラップをかけて大切にしまっときなさい」

判ったような顔をして「はい」と答えたけれど
思い出にするつもりなど更々無かった。

「もう!何してんの?急にどっか行くんだから。
ちゃんと言ってからにしてよ!」

娘が私の後ろで声を上げた。

スマホで時間を確かめると占いを始めてすでに一時間が経っていた。

「ごめんごめんどうしても聞きたいことあって」

「どうせあの人のことでしょ?」

娘はひとりで何処かへ行こうとする。
占い師に「ありがとうございました」と頭を下げて娘の後を追いかけた。
その後化粧品売り場で韓国コスメのパックと
化粧水とクレンジングなどを買ってあげてようやく娘の機嫌が直った。

「ママ、いきなりいなくなったと思ったら
占い一時間以上やってるのすごい待ったんだよ」

家に着いて娘は旦那に告げ口をした。

「お前何を悩んでるんだ?オレに言えないのか?」

旦那は問い詰めた。

「まあ、色々あって」

言葉を濁す。
そういうところが嫌いだ。
夫婦なんだから家族なんだから隠し事は無し全部話せと言う。
誰にだって話したくないことのひとつやふたつある。
それに夫婦だから家族だからと人の心の中まで
土足で踏み込んで来る考えがどうしても許せない。
ここまでは話しても大丈夫、でもここから先は死んでも話したくない。
そんな線引きをしている。
旦那の「隠し事してないか?」の問いかけに
「ないよ」と最初からもうすでに嘘をついている。

喋らず人の影に隠れて目立たないように大人しく過ごす。
ずっとそんな子ども時代を過ごして来た。
高校生のとき母に言われたことがある。

「あなたはね、人と喋ったりすることがあまりなかったから
この先それで苦労することがあると思う。
それをお母さん一番心配してるんだよ」

振り返ると母の心配通りのことが立て続けに起こった20、30代だった。

子どもを産んでから最初に勤めた会社は
住宅の給湯器などの工事やリフォームなどを行う会社。
私は修理の受付や見積書や請求書の作成などの事務をしていた。
ある日給湯器の取り換え工事を依頼されたお客様から
「工事日の変更したい」と電話があった。
「変更いたします」と返事をしてホワイトボードの予定を書き直した。
そして工事日当日。
お客様から「工事の人が誰も来ない!」と電話が入った。
変更の件が誰にも伝わっていなかったのだ。
当然会社中が大慌てになり混乱した。
その事で上司にきつく叱られた。
私が担当者に変更になったと伝えれば問題なく済む話だった。
喋るのが苦手だなどとの言い訳は仕事をする上では通用しない。
完全に信用を失ってしまった。
しばらくは、記帳や在庫管理などの雑用しか任されなかったし
その雑用も「ちゃんと出来た?」と確認される始末。
信用を取り戻すことは簡単ではなかった。

それから31歳で新しい会社で働き始めた時の事。
そこでも喋らないことが原因で失敗をしてしまった。
女性が多い職場は正直苦手だ。
例えばお昼の休憩時間。
みんなでお弁当を食べながらお喋りをしたりするのが本当に嫌。
ちゃんと自分の仕事をしていれば
お喋りしたりなどしなくても良いと思っていた。

ところがある日仕事がどうしても終わらなくて独り残業をしていた。

すでに五時を回っていて娘の学童保育迎えの時間をとっくに過ぎていた。
早く迎えに行かなきゃと気持ばかりが焦る。
悲しいような情けないような気持ちになり涙が頬を伝った。

ぐすぐすと鼻をすすり仕事をしていた時社長が入って来た。

「月島さん、大丈夫?僕も手伝うよこれ、ここでいい?」

発送する荷物に送り状を貼るのを手伝ってくれた。

「ありがとうございます」

頭を下げる私に社長はこう言った。

「月島さん、ひとりで頑張ってるのは判るけど
みんなに助けて欲しいって言えない?
助けてって言ったらいいよって言う人たちばかりだよ、うちの会社はね」

そして、こう続けた。

「もっと他の人とお喋りしなさい。孤立しているよ。
お喋りはコミュニケーションのひとつ、職場の潤滑油みたいなものだよ」

口元に人差し指を添えて「度を過ぎないお喋りはね」と付け加えた。

社長の言う通りだ。
きちんと業務をこなしていればお喋りなんて仕事に関係ないと思っていた。喋らないことは、私はあなたに興味がありませんと言っているようなもの。そんな人が自分の困ったときにだけ私の仕事をが忙しいの分かるでしょう?と言っても誰も助けてなどくれない。
自分の仕事しか見ていなくて他の人の仕事にあまり興味が無く
周りが見えずに自分勝手になってしまう。

それから少しずつ周りの人と話すようになり
「大丈夫?手伝いますよ」の言葉が自然に出る様になった。
みんなと話すことは出来る様になった。
でも仕事の悩みを相談したり少し深い話をできる人はいるかと聞かれたら
誰もいなかった。
職場で感じる孤立感は結局何が原因なのかが判らなくて
退職するまでずっと続いていた。

そして40歳を過ぎた今はどうだろう。
今の仕事はデータ入力や資料作成や伝票や受注処理な
ミスのない正確さが求められる。
集中力が求められるし仕事中の私的な会話ができる雰囲気ではない。
お昼休みもスマホで音楽を聴いたりして
あまりお喋りをしている人はいない。

それに最近はコロナウィルスの感染拡大防止のために
あまり人に会うこともできず家に閉じこもることが多くなった。
この2年間で家族以外の人誰とも話さない生活に
戻ってしまったのかもしれない。

それから義両親とは「おはようございます」の挨拶だけが多い。
お互いに干渉しないのが上手くやって行けるコツだと
どこかの雑誌で読んだ気もするがやはり全く喋らないのも問題。
未だに親戚が集まる場でもひとり孤立している状態が
ずっと続いていてもどうしたら良いか判らず仕方ないと諦めている。
もうこのままでも良い。
お母さんが一番心配していたことが会社でも家でも起こっていたのに
「ちゃんと上手くやれているよ」と嘘をつき通していた。
その嘘が自分自身を苦しめていることを理解しながら
大丈夫と二重にも三重にも嘘をついていた。
嘘で塗り固められた毎日が苦しい。
時々全てを投げ出してどこかへ行ってしまいたくなる。
子どもの時から44歳になった今もずっとずっと苦しいままだ。

11月の半ば頃家族全員がコロナに感染したことがあった。
39度の熱と全身の痛みや咳など症状が出て回復まで約1週間かかった。
隔離のために旦那が寝室、私は和室と部屋を分けた。
それが治った後も続いている。
つまり旦那に寝室を追い出されたということ。
寝室別はセックスレスの始まりだと言われているが
その前からすでにセックスレス、これではもう家庭内別居状態。

北側の和室は日当たりが悪くとても寒くて
娘に「一緒に寝ていい?」と聞くと「いいよ」と快諾してくれたので
娘の部屋に布団を敷き一緒に寝ていた。
一週間が経った頃娘と些細なことで喧嘩をしてしまい部屋を追い出された。布団が廊下に放り出されていた。
仕方なくリビング隣の小上がりに布団を敷き寝ることにした。
リビング、キッチン、お風呂、トイレと揃っているので
せっかく家を建てたのに
これではちょっと広めの一人暮らしの部屋と変わらない。
でもそれはそれで快適だったりする。

「ママはいつまでリビングで寝ているの?」

あなたが追い出したのによく言うなと思いながら

「うーん、ずっとこのままでも良いかな、何かさ、快適なんだよね」

そう言ってはっとする。

「ママ、快適って言葉が出て来るのが、もう、答えなんじゃない?」

娘の言葉に更にはっとした。
それが答えだとしたら離婚ということ。

コロナで高熱で頭が割れそうに痛かった時、彼にこんなラインを送った。

私:「体力がないのにコロナ感染とかいちばんアウトなパターン。
先に死んじゃったらごめんなさい」

「大丈夫か?」と心配する一言を期待しながら
解熱剤を飲んで眠ってしまった。
夜中の1時くらいに目を覚ますと既読になっていたが返信は無い。
つまり既読無視ということ。

お前なんて死んでも構わないと見捨てられた気分になる様で
病気のときに無視をされるのはとても辛い。
枕元に置いてあった薬の白い袋からカロナールを二錠を押し出し
ペットボトルの水で流し込んだ。
薬と水が喉を通り過ぎる時に頭に抜けるような激痛が走り
うっと息を止めて痛みを堪えた。
そしてまた布団に横になった。

こんな夢を見ていた。
亡くなったお父さんとおばあちゃんが出て来た。
姿は見えなくて声だけが聞こえてそこにいる事だけが判った。

「私、どうしても結婚したい人がいるの。
その人じゃなきゃ嫌なの、その人と結婚したいの」

夢の中でお父さんとおばあちゃんに必死に訴えていた。
その人とは、彼のことだった。
子どもの様に駄々を捏ねているとお父さんが呆れ果てたように言った。

「そうか、結婚したいのか。仕方ないな、そうか」

それは旦那と結婚したいと言ったときのお父さんの言葉だった。
目から涙がつぅっと流れる感覚ではっと目が覚めた。

社会人になって一年も経たない内に結婚した。
大抵の親は
「結婚よりもまずは自分の生活をきちんと整えることの方が先でしょう?」と反対するだろう。

お父さんは本当は心配で堪らなかったはずなのに
「若くて未熟で心配だらけだけど
お互いに好きならやって行けるはずだから」と結婚を許してくれた。

お父さんは大学進学で家を出る時も大学を卒業して地元には帰らず
関東地方で就職すると伝えたときも
私の決めたことに反対をしたことは無かった。

お父さんは「仕方ないな」と独り言の様に呟いて
自分を納得させて何も言わずに見守ってくれていた。
彼を好きだという事は
若すぎる結婚を許してくれたお父さんを裏切ることになる。
それでもお父さんの「仕方ないな」を聞きたかった。
お父さんに会いたくてまた涙が溢れた。
そして彼に会いたいと思った。

コロナで2週間も仕事を休んでしまった。
会社に行こうと白いブラウスに
グレーのジャンパースカートを着てストッキングを履いて化粧をした。

彼からの返信は無かった。
電話はしない方が良いと分かっているのに
一度声が聞きたいと思うと気持が止められなくなる。
思い切って電話をかけた。

「もしもし、〇〇ですけど」

不機嫌な寝ぼけ声が聞こえて喉の奥から声を絞り出した。

「もしもし」

「君か、ったく、朝からブーブーブーうるせえんだよ!」

「だってラインだって見てくれないし電話だって出てくれないし!」

電話の向こうからパソコンのキーボードを打つカチカチという音がする。

「何が下手だ!!!」

突然、彼が叫んだ。
腹の底から怒りの感情をぶちまけるような大声に驚いて
肩がビクッと上がりガタガタと震えた。
こんなに怒った彼の声を初めて聞いたから。

「何があったの?」

彼は何も答えない。
たぶん、誹謗中傷とか悪口とかそんな心無いメールが届いていたのだろう。ふたりとも無言だった。
その沈黙を破るように口火を切ったのは私。

「私はずっとあなたの事が好きだったの
○○さんは私の気持ちに気づいていなかったの?
どうして好きでもないのに私のこと抱いたの?」

「気づいてたよだから言った。バスに乗ったら全部忘れろって」

もっと前にあなたの口からちゃんと言ってくれたら
こんなに苦しむことなかったのに。

「私のことは一度も好きって思ったことないの?」

「ない、オレは一度も、お前のこと好きだって言ってない。
オレだって男だから女の人とそういうことしたくなる時あるの。
お前が自分から抱いてくれって来たんだ」

「どうして私のこと抱いてる時に
あなたの好きな人のされなきゃいけないの?
あなたが好きな人そこに連れてくればいいでしょ?
お互いに好きなんでしょ?
その人学校の先生ならどこでだって仕事できるでしょ?」

「好きな人ってみいちゃんのことか?出来る訳ない。
だってみいちゃんは彼氏持ちだから。
それにオレはみいちゃんのこと愛してる。でも見守ってるだけでいいんだ」

愕然とした。
彼とみいちゃんはお互いに好き同士だと思っていたから。
どこか遠くを見るような目で穏やかで優しい顔で言った
「みいちゃんじゃないとイケないんだ」は一体何だったのだろう。
私はみいちゃんに負けた。
体を使っても手に入れることが出来なかった
彼の心をみいちゃんは手に入れている。

「だって、ラインで好きとかそれっぽいこと言ってくれるんでしょ?
好きなら彼氏から奪おうとか思わないの?」

「もう、ラインも送ってねえよ、奪うとかそんな人でなしのこと出来ねえ
好きでもない奴からこんなにラインが届いたら
気持ち悪いって思うだろうし、お前ストーカーみたいだなっていうか
ストーカーだ警察に通報するレベルだお前のやってること」

ストーカー?そんなはずはない。
彼ときちんと話がしたいだけなのに。
いつなら話せるのかそれが判らないから
いつかは出てくれるだろうと思ってラインを送ったり
電話をしているだけだ。
それをストーカーと呼ぶ?

「これ以上付き纏うなって言いたいでしょ?
私があなたから身を引く方法教えてあげる」

「何だよ?言えよ」

「赤ちゃんが欲しい」

「お前バカか?君とはそういうことできない」

「そんなことしなくたって子ども産めるでしょ?」

「精子提供とかか?そんなの人間のすることじゃない。
録音するから自分の言っている事後でちゃんと聞け。
冷静になって頭冷やせ。
それに君のことだから父親はオレだって誰かに言うんだろ?」

返す言葉が無かった。
誰にも言わないという約束を破ってしまった前科があるから。

「私の一番欲しいものが手に入らないの、どうして?」

「今まで何でも手に入った人生だったからそう思うんだ。
オレは手に入らない人生だったのだと諦めろ」

何でも手に入った人生なんかじゃない。
そう見えるとしたらそれは色んなことを諦めてきた結果。

「これからレッスンもあるんだ。忙しいんだ切るぞ」

「今どこにいるの?」

「ばあちゃんち」

「私もそこに居たい!」

「うるせえ!切るぞ」

どうしていつもこうなのだろう。
もっと冷静に言葉を選んで話せば
やっと繋がった電話で喧嘩をせずに済むのに。
子どもが欲しいと言って「そうか、じゃあ、あげる」など
簡単にいう人間がこの世のどこにいるのだろう。
もしかしたら彼なら「分かった」と言ってくれるかもしれない。
どうして彼なら彼ならと期待してしまうのだろう。

ラインのトーク画面の右側だけにずらっとメッセージが表示されている。
これをストーカーと言うのなら私はやはりストーカーなのだろう。
好きな人にストーカー扱いされる程悲しいことはない。
騒げば騒ぐほど綺麗な思い出じゃなくなる。

手の中のスマホがブーと音がした。
YouTubeの通知。
「エリックさんの新しい動画が投稿されました」
エリックさん?そんな人知らない。
もしかしてYouTubeアカウントの乗っ取り?
直ぐにセキュリティページに入って使用しているデバイスを確認した。
ログインした端末の一覧にandroidを見つけた。
私はiPhoneだから
androidでログインすることなど絶対にない。
じゃぁ、一体誰が?やっぱり、、
こんなことをするのはやっぱり猫くんしかいない。
怖くなり彼にもう一度電話した。

「一体何なんだよ!!忙しいって言ってんだろ?」

彼は怒鳴りながらも電話に出てくれた。

「私のYouTubeのアカウント乗っ取られたかもしれないの
こんなことするの猫くんしか考えられない。どうしたらいいの?」

「知るか!そんなこと自分で蒔いた種だろ!」

「あの人他の人のコメントに噛みついて批判していたの知ってるの?」

「知ってるよ。一度ファニコンの配信で僕の周りで
ごちゃごちゃするのは止めてくださいって言った。忙しいから切るぞ」

そんなこと初めて聞いた。
ファニコンで注意するなんて余程のことがあったのだろう。
やはり私の知らないところで何かが起きていたのだ。
自宅や勤務先に「月島しずくさんは不倫しています」
と書かれたFAXが届くかもしれない。
ツイッターで悪口を書かれるかもしれない。
そんな想像していたが実害らしい実害など何もなかった。
何も無かったのは私に被害が及ばないように
彼が矢面に立って批判や嫌がらせにひとりで
対応していたからかもしれない。
そんなことまで想像すら出来ていなかった。

彼は前の事務所を辞めてからどこにも所属せずに一人で活動していた。
批判も罵倒や誹謗中傷も全て一人で受け止めて。
それに負けたくないから必死に努力して練習して来たに違いない。
そんな彼の努力も知ろうとしなかった。
嫌がらせをされる原因は自分で作っておきながら
「こんなことをされた!」「あんなことをされた!」などと騒いでいるのは彼から見ればひとりで茶番劇を繰り広げるようなもの。
とても恥ずかしくて彼に合わせる顔が無い。

「ごめんなさい」と「守ってくれてありがとう」を伝えたくて
電話をかけた。
彼は電話に出なかった。
テーブルの上のスマホからブーという通知音がした。

彼:「マジか!お前マジか!忙しいっつてんだろ!録音してるんだ!」

仕事だと言っていたことを思い出してしまったと思った。
もしかしたら録音中にさっきの着信音が入ってしまったのかもしれない。
それだけじゃない。
もしかしたら配信をしている時に着信やラインの通知の音が入ったり
回線がおかしくなって映像が途切れたことがあったかもしれない。
私の行動は迷惑そのもの営業妨害に他ならない。

じゃあ、あの時もそうだったのだろうか。
7月の暑い夜のこと。
彼に電話をかけたときあの時も彼は仕事をしていた。
「仕事中だねまた今度にする」と電話を切ろうとしたけれど
彼は「もう今日は仕事しない。君と話すって決めた。」
と言ってくれたことがあった。
あの時は仕事よりも私のことを優先してくれた!と喜んだけれど
今考えるとそれは全くの見当違い。
集中して仕事をしなくてはいけないライブ前の忙しい時に
その集中力を途切れさせて何だかんだと話が長引いて
彼の仕事の時間を奪ってしまったのだから。
私と話している時間があればどれだけ仕事が出来たのだろう。
彼なら一時間あったとしたら一生分稼げるだけの曲を作ったりできるはず。

彼からその時間を奪うことは一生分の稼ぎを奪ってしまったことになる。
私は自分の大切な時間を奪い
生活のゆとりをなくさせていく「時間泥棒」だ。
彼の状況など全く考えないで
「私を見て、私を構って」と自分の気持ちばかりを優先した。
構って貰えると誰かに自慢したくなる程嬉しかった。
それは彼は承認欲求を満たしてくれる人と考えていたから。
だから、新幹線の車内中の人に「今から、彼に会いにいくの!」
と聞かれてもいないのに自慢したい気持ちが湧いてきたのだ。

お母さんが、小さい子どもに
「人の嫌がることはしていけませんよ、相手の立場になって考えましょう」と教えることですら出来ていない。
彼はそんな子どもの様な私を好きになるはずがない。

彼はみいちゃんのことを愛しているから見守るだけでいいと言った。
それだけで満足なの?愛するってどういうことなの?
そもそも「愛」とは何と聞かれても明確な説明が出来ない。
Googleに「愛ってなに?」と入力する。
「あなたはすべて経験した?八種類の愛の形と意味を解説」
という文字が目に留まった。
愛には種類がある?そんなこと初めて知った。

エロス 肉体に直結するとも言える愛のかたち
フィリア 困難な時期を共有した人々の間にも芽生える愛
ルダス 遊びやゲーム感覚の愛や、好意に近いタイプの愛
アガペー 他者を受け入れ許容し、信頼する愛の形
プラグマ 困難を耐え抜き、時間をかけて成熟した愛
フィラウティア 自分自身への愛や思いやり
自分を愛せるということは、他人を愛する能力も持ち合わせている
ストルゲー 親子や兄弟姉妹など、家族間に見られる愛のこと
マニア 共依存の関係から生じる愛

古代ギリシャの時代から愛には八つの種類があるとされている。
彼に対する愛はこの八つの内のどれだった?と聞かれると
どれもピンとこない当てはまらない。
更にスクロールしていくと
「恋とは自分本位のもの。愛とは相手本位のもの恋は奪うもの
愛は与えるもの」という美輪明宏の言葉。
愛は与えるもの。
彼に何も与えることができず奪うことしかしていない。
確かに彼に恋をしていた。
でも彼を愛してはいなかった。
あの時、私は「白くてフワフワした雲になって
彼がそのままの姿で生きて行けるように沢山の愛情で包み込んであげたい」
そう思ったのにその肝心の愛がさっぱり分かっていなかった。
「仕方ないな」と呟き私のことを信じてくれたお父さんと
愛しているから見守るだけでいいと言った彼。
私には愛を教えてくれた人がいたのにその事にも気付けなかった。

彼が密かにみいちゃんを想うのは自由。
もし彼氏から奪おうと手を下したらもうそれは罪になる。
汚れてしまう、綺麗じゃなくなる。
相手の事も自分自身も愛することが出来るのなら
そんなこと出来ない。
やっぱり私は彼を愛してはいなかった。
初めて突きつけられた事実に打ちのめされた。

あんな電話の終わり方をしたのがずっと心残りだった。
12月2日の夜、彼にラインを送った。

私:「〇〇さんとお話しがしたいです。
私も冷静になって話したいです。忙しいこところすみません。
いつなら大丈夫ですか?お時間があるときを教えてください」

直ぐにブーと通知音がした。
開くと衝撃的なメッセージが飛び込んできた。

彼:「ないです。一秒も。貴方を相手、というか、今日の発言!
とんでもなく凄い損害です。リアルに信用を失うことになりました。
貴方は、ついこの前まで死ぬ死ぬ脅しながら、元気そうですね。
本当に死ぬ気ですか?死んでくれとは言いません。消えてください。」

消えてくださいって、、どうしたらそんな酷い事を言えるの?
それよりも今日の発言とは何のこと?
凄い損害とか信用を失うとか一体何のこと?
何が起きているのか全く判らない。

私:「発言とは何のことですか?今日は何も発言なんてしてないです。」

彼:「ツイッターに書いたでしょう。もう消えてください。」

私:「ツイッター?」

彼:「うるさい!」

私:「それ見せてください。」

彼:「なにを?」

私:「発言を。誰のツイッターなのですか?」

彼は答えてくれなかった。

「私は今日何もつぶやいていないのに。ひどい。ただでさえ寂しいのを我慢していたのに訳分からないネタでっちあげて無駄に傷つけないで。
あと、お仕事頑張って」

送ったラインはずっと未読のまま。
彼は私をブロックしたということ?咄嗟にスタンプショップで
スヌーピーのスタンプを彼にプレゼントしようとすると
「〇〇〇はこのスタンプを持っているためプレゼントできません」の表示。

ブロックされているかを確認する方法のひとつ。
やっぱりブロックだ。
カラカラに乾いた心に涙がしみ込んで悲しみも湧いて来ない。
こんなことを裏で確認しながら
人と付き合って行くなんてどんなに窮屈で居心地が悪い世の中なのだろう。

電話をかけてみたが呼び出し音が鳴って一分後に
「おかけになった電話をお呼びしましたがお出になりません」
のアナウンスが流れた。
これは着信拒否にはなっていないということ。
ほんの少しの安心感を覚えた。
今までブロックされないのが不思議なくらいだった。
彼の名前をスライドさせて「非表示」にした。
心に薄ら寒い隙間風が吹いている。
悲しくも悔しくもない無の感情に支配されていく。
これでいいのかもしれない。

その後の彼は
「テレビの配線を繫がないとサッカーの試合が終わってしまう!」
とツイートしていた。
そんな時私のラインが余程鬱陶しかったのだろう。

私はサッカーに全く興味がなく
ワールドカップが開催されていたことも日本がスペインに勝ったという
歴史的ニュースが流れたことも知らなかった。
「日本が勝った!おめでとう!感動した!」
そんなツイートを冷めた目で見ていた。

『あなたに損害を与えるようなつぶやきが
何だったのか未だに分かりません。
私はしずくという名前のアカウントで、リプをしたことがあります。
あなたは私だと気づかずにリツイートしてくれました。
私のなりすましでもいるのでしょうか?
もう今となっては真相は分かりません。
あなたにブロックされたのも悲しかったけど
あなたと最後まできちんとした話しも出来なかったことが
いちばん悲しかったです。』

Gmailを送った。返信はなかった。




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