大阪万博2025に思うこと
大阪万博2025に想うこと
1970年に日本万国博覧会が開催されたときは、私たちは未来に希望を持っていた。
訪れた万博会場は未来を華やかで明るいものに見せるには十分だったし、まだ、世界はそういう希望を持つことができた。
そのなかで、岡本太郎の太陽の塔を中心とする展示物は、科学や文明がもたらした弊害、人間性を奪う負の歴史を堂々と示されていた。
原爆、戦争、公害……
ヴェトナム戦争は肌で感じる歴史にはなっていない現実の戦争だった。
そして、岡本太郎は未来へでなく太陽の塔の内部展示、生命の木で「原始への回帰」へ誘う。
ここは人類の栄光も文明もない。ただ命が繋いできたプリミティブな歴史があるだけだ。
他の人が生命の木を作ったとしたら、ホモサピエンスがもたらした化学文明の謳歌まで木の頂上に描いただろう。
ところが岡本太郎はそれを割愛している。
日本万国博覧会は、人間にとって原始に帰ることが未来に向かうことであるという逆説を問いた。
まだ小学校低学年であった私は理屈がわからなくても、万博でそれを感じた。
最新の科学文明や科学技術を謳歌する各パビリオンの展示に驚嘆しながらもどこかで恐怖を感じていた。
私の万博体験は「夢」と「恐怖」が隣り合わせに今もある。
そして、命だけが全ての歴史を紡ぐものであり、太古から続いてきた幾多の生命が自分と一体であるということを感じさせてくれた。
故に、人間は戦争をして、環境破壊をしている。
なんと人間は愚かしいのか。
それを教えてくれたのが1970年の万博だった。
岡本太郎という人の参画が万博に一つの太い思想とメッセージを確実に持たせていたとおもう。
2025年の大阪万博はどうなるのだろう。
1970年の万博のテーマが「人類の進歩と調和」だった。
この時点でさえ、そのテーマは絶望的に実現不可能なものであったし、その理想も未だに実現できるどころかさらに悪くなっている。
ウクライナの戦争が続いていて、世界中が次の大きな戦争を探している。
人類は地球温暖化で全ての生命を脅かしている。
いま、大阪万博をするのはなぜか?
そこに何かしらの哲学がなければ、もう、壮大な打ち上げ花火になってしまう。
ただ虚しい未来への希望を見せたり、万物の霊鳥たる人類の科学文明の謳歌であっては困るわけだ。
どうせ開催するならば、かつての私がそうであったように、今の子供たちに何かを感じさせてほしい。
夢と恐怖を与えてほしい。
何かを考えさせてほしい。
そうでなければ、大阪万博をする意味はないとおもう。
万博公園へいって、太陽の塔のなかを見る方が、思想のない巨大な万博を見ることより、ずっと価値があるのではないかなともおもう。
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