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高齢者の入院

せん妄

実家に帰ると「Nさん、入院したんよ・・・施設に入ったばっかりなのに・・・アンタ、悪いけど行ってくれん?」
え?私??
「ほらNさんとこは義嫁さんと不仲でしょう・・・私も体がしんどくていけないからって言ったらアンタに来て欲しいって」
確かに母がお世話にはなっているけど、入院に、しかもコロナで制限かかっているのに・・・?
病室は?
「わからん」
施設に聞いた?
「聞いてない」
ああ・・・認知が進んでいる母に聞いた私が馬鹿でした・・・

ただ、Nさんが入院したのは確かな模様。

携帯に連絡したけど繋がらない。

施設に連絡したら「病室はお伝え出来ないが、入院はされました。病状もすみません、お知らせできません」
はいはい・・・

身内と不仲・・・
私が行くこともないかもだけど、Nさんは初めてバイト代をくれた方です。

小学校の時に、Nさんは乾物屋さんをされていました。

ご主人を早くに亡くされ、うちは向かいで魚屋。

Nさんとことはお向かいで、母と年齢も近いということもあり、二人で、実際は野菜屋をしていたNさんのお姉さんも一緒に三人で時々関西へ旅行したり、なんやかんや仲良くしていました。

Nさんのお姉さんはご主人はいましたが、息子の道楽を苦に自宅で自死されました・・・
自宅でぶらさがっていたらしく、母は呼ばれて行って・・・子供ながらに、え?野菜屋のおいちゃんが??と・・・
野菜屋さんもほどなく閉め、おばちゃんも病気(脳梗塞?)になり、祖父母と同じ病院に入院していました。

祖父母の病院にお見舞いに毎週のように行っていましたが、そこではおばちゃんは20年ほど若かったけど・・・
「きてくれてありがとぅ~」と言ってくれていたけど、だんだんつらくなって行かなくなってしまいました。
祖父母のところには行けども、申し訳ないけど、違う階には・・・
ごめん、行けない。
プリンももう持って行くのは・・・つらい・・・

母からおばちゃんが亡くなったこと聞くことはなかったけど、いつの間にか亡くなりました。

そうそう、Nさんの話。

Nさんも施設に先月入ったのに・・・パーキンソン病が悪化したのか、市営病院に入院。
とりあえず行って何とか面会させてもらいました。

せん妄で居ない人が見えて、しきりに大村さん(病院)で働きだしたけど、そんなことばっかりして、とか、さえちゃん?さえちゃん?とか
くそが!と罵ったり(笑)
義嫁さんを呼んだりしてました。
息子さんが建てた家が自慢なのでしょう。
「家いつか見ていって!来てね」
看護師さんも「せん妄が・・・お薬考えましょうね」と。

母と電話を繋ぎ、話をさせましたが、母もいつもと違う、話がかみ合わないことにいら立ち「もう娘に帰るように言って、仕事があるから、ごめんね!」と強い口調にだんだんなって・・・
Nさん、また来るね、と挨拶して帰りました。
2-3週間は入院らしいので、また行こう。

母に録画したNさんの状態見せたらとても悲しんでいました。
ヘルパーさんからは「引っ張られるから見なさんな」と止められました。

元気で家に電動カーで来ては「ごめんねぇ、上がって色々食べさせてもらいよるよ」と言っていた時と全然違い、枯れ枝のようになっていました。
施設のご飯はおいしいおいしいと言っていましたが、だんだん栄養が取り込めなくなっていたのでしょうか。

母が機嫌よくしてくれた良いので、Nさんが来るタイミングに合わせてスシローでお寿司買って来たり、お菓子屋や珍しい食べ物をNさんと一緒に食べり~と買ってきてたら友達から「そんなことしたらあなたの家が老人ホームみたいになるよ?それでいいの?」
別に母が機嫌よくしてくれたら構わないけど・・・
「なぜNさんにごちそうしてあげないといけないの?」
母がそれで機嫌よくなるならそれでいいのでは?
「相手はお返ししてくれるの?」
うちに来て母の相手してくれるだけで感謝
お返しって物で必要?
「なんか、損してない?」
話止めましたw

初めてのバイト代50円

それはNさんの乾物屋さんに置いてあった豆腐の容器を洗う事でした。
シルバーで水をため、その中に豆腐をいくつも入れて、注文があるとそこから豆腐を1丁ずつ優しくすくっては入れ物に入れて販売。
帰りにその入れ物を洗うのですが、私が両親のお店が終わるのを待っていても手持無沙汰だから「洗ってくれたら50円あげるよ~」と。
時々仕事をくれましたw
多分Nさんが洗うと数分で終わる仕事です。
それをえっちらおっちらやっては「ありがと~助かった~」と褒めてくれ50円を貰い、駄菓子屋さんで駄菓子を買うルーティーンでした。

毎日ではなかったかな?
でもよく働かせてくれましたw

冬はと~っても水が冷たくて・・・
Nさんすごいな、って思ってました・・・

そして、時々学生服を着た素敵なお兄さんが来ていました。
Nさんの息子さんです。

小学生からしたら憧れのお兄さんでしたが、私のバイトも年齢が上がるにつれ無くなり、お兄さんも見なくなりました。

お兄さんも大きくなって、どこかの誰かと結婚してしまいました。

お子さんも二人生まれ、Nさんも息子家族と住んでいましたが、息子さんは若くして亡くなってしまいました・・・

それでも息子さんが建てた家に義嫁さん、子供と住んでいましたが、針の筵だったみたいで・・・
でもそうされるには訳が無いわけでも無く・・・

うちに来ては母と昔話に花を咲かせて帰る、パチンコに行く、と楽しくしているようでしたが、パーキンソン病が発症。
それでも電動カーで颯爽と体を動かしていましたが、確実に段差は上がりにくくなり、震えは目に見えてわかるようになり・・・
本人もいたたまれないように見えました。
でも「ちょっとこっちに引っ張ってくれる、ありがとね、おばちゃんパーキンソンやけね~でもこうしたらできるんよ」と・・・

50年以上も母と付き合ってくれた方です。

できるだけのことはしてあげたいなぁ
と思っています。

豆腐の入れ物洗って50円
仕事の原体験
お店で働く母も、Nさんもきらきらしていた時代でした。

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