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【短編小説】冷たく、固く、甘いカレー

10分で読める短編小説シリーズ『MOMENTS』
10週連続公開(毎週日曜日更新)・その7


窓がすこし開いていたらしい。
丈の長い、リネンのカーテンがそよ風をはらんで、音もなく、やわらかに揺れていた。
ベッドからはみだした彼女の手のひらのあたりで、ぬるい室温の空気と、外からやってきた涼やかな空気が、混じりあっていた。


夏の初め、薄墨色の午前5時。
モノトーンの寝室で、カレンは目覚めた。胸の上には彼氏の腕が乗っている。
どけようとして、意外なほどの重さに、すこし驚いた。
それが初めてというわけでもないのに。
肌にふれて、肉の重さを感じ、あたたかな体温を確かめる。
そのたびに、カレンは新鮮に思う。

ここに彼がいて、わたしがいる。その瞬間が、いま、この世界にたしかに存在するということ。

それはつねに、あたたかく、やわらかな、みずみずしい感情をカレンの胸の内側に起こさせる。
カレンは彼氏の腕をどけ、足もとに絡みつくシーツを払いのけ、ベッドを下りた。

下着をつけてから、裸足のまま歩き、キッチンへ向かう。
冷たいステンレススチールの蛇口はレバー式で、それを使うたびにカレンはすこし固いと感じる。
持ち上げると、かすかに、シュッという音を立てて水が流れ出す。

カレンは、その瞬間が好きだ。

シンク脇の水切りラックのなかに、おおぶりのビールグラスが食器と一緒に置かれていたので、それをすすいで水を飲んだ。

グラスに半分ほど残った水を持ち、そのまま近くの椅子に座った。
目の前のテーブルには、つまみを乗せていた空っぽの皿と、ワイングラスがふたつ、残っていた。
昨夜は二人で何を飲んで、何を食べたんだっけ……。
記憶はとても遠い場所でおぼろに霞んでいる。
たしかローストビーフがメインだった。
そのほかは……まあ、どうでもいいか。それより、おなかがすいたな……。

単身赴任中の彼氏は料理が趣味で、カレンを部屋に呼ぶときはいつも手料理をふるまった。
ときどき、これは……と顔をしかめてしまう塩加減のものもあったが、カレンはそれを、本当にわたしのために、自分で作っているのだと思い、好ましく感じた。
幸せな食卓。
重ねた逢瀬の記憶。
カレンはしばらくうっとりとして、その部屋に残した自身の記憶を反芻していた。
お腹がついに、くうう、と鳴った。そこでカレンは気がついた。

わたしは、そういえば、まだ、彼の冷蔵庫の中身を見たことがない……。

それは、鋼の色をした分厚い扉を持つ、大きく、立派な冷蔵庫だった。
カレンはそれを、開けてみることにした。

カレンがすこし力をいれて重厚な取っ手を引くと、ぱっ、と重みがなくなる瞬間を挟んで、冷蔵庫の扉は開いた。

食品の棚にはタッパーウェアとチャック付きのビニール袋がずらりと並んでいる。
フランスパンを押し込めたビニールなどはひとめでわかった。
けれども、あとは、どれに何が入っているのか、並べた本人でないとわからないだろう。

カレンが連想するのは、オフィスの棚に並ぶファイルの列だ。
なんとなく、思っていたけれど、彼はやっぱり几帳面な性格らしい。
そこでカレンは、彼が同期のなかでも出世頭といわれていることを思い出した。

冷蔵庫は、雄弁だ。
とても誠実に真実を物語る。
カレンが軽くひとりでうなずいた、そのとき。
ちょうど目線の高さに置かれた、ひときわ大きなタッパーに目がとまった。

まっ茶色で、まるでレンガがそこにぴたりと収まっているように思える。
カレンは思った。これは……カレーだな。
カレンは彼が作ったカレーを食べたことがなかった。
だから、それを冷蔵庫から引っ張り出した。
袋に入ったフランスパンもひっぱり出し、テーブルの上の、空いていた皿の上に置き、大きめのスプーンを用意した。

タッパーの蓋を開ける。スパイシーな香りが広がる。
カレンは、まるでアイスクリームをディッシャーでえぐるように、冷えたカレーをスプーンですくった。
パンに固くなったカレーの塊を載せ、ひとくち食べた。

……めっちゃ、甘い。

カレンは、眉をひそめた。
彼の部屋で味わった料理は、いかにも凝ったものが多かった。
蟹のソースのパスタ、タンシチュー、ラムのステーキ……。
みんな「男の厨房」という感じがしたし、ちゃんと、そんな味もした。

けれど、これはちがう。

ふとタッパーに目をやった。
カレーをえぐったくぼみに、にんじんが見えた。
なんとなく予感がして、カレンはそれをスプーンで、掘りだした。
そのにんじんは、ぶかっこうで、いびつなかたちの、ハート型をしていた。
いかにも包丁を使い慣れていない感じ。
でも、いっしょうけんめいな感じ。

「ああ……」
そう声がして、カレンが目をやると、キッチンの入り口に下着姿の彼が立っていた。
彼は早足でテーブルに近づくと、すばやくタッパーに蓋をした。
そして「これは駄目なんだ」と、つぶやき、冷蔵庫を開け、棚に戻した。
パタンと扉を閉めてつぶやいた。
「ごめん」

カレンはその言葉を聞きながら、甘いカレーを乗せたパンを、もうひとくち、かじった。
遠い場所にいる、彼の子どものことを考えた。
たしか女の子で、まだ小学生だと聞いていた。

「いいよ」とカレンは言った。
「悪かったのはこっちだから」

「ほんと、ごめんな」と言いながら彼はカレンの隣の椅子に座り、飲みかけのコップに手を伸ばした。
半分ほど残っていた水を、ごくごくと一気に飲んだ。

カレンは、その喉元の動きを見ていた。
上下に動くのどぼとけは、まるで意志のない、本能のまま動く、カレンの知らない生き物のように見えた。

「ああ、水、うまいな」
トン、とカラになったコップを置いた彼氏は、まるで仲直りをうながそうとするように、カレンに顔を寄せてきた。
唇が重なりそうになったその瞬間、カレンは背をそらして、その顔を避けていた。

カレンは手のひらを広げて前に出し、「ごめん」と言った。
「ごめん、ちょっと、ごめん」

彼の動きはぴたりと止まった。
突然、夢から覚めたような顔をしていた。

寝室で、風をはらんだカーテンが、床のカーペットをこする音が聞こえてきた。


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