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【短編小説】海と人魚とストロングゼロ     

10分で読める短編小説シリーズ『MOMENTS』
10週連続公開(毎週日曜日更新)・その1


俺は会社をやめた。

毎日いったん退勤のタイムカードを押してから、夜の11時過ぎまで残業していた。
土日も出勤することがあった。手取りは17万円から上がらなかった。
たまの休日は、独りのアパートで泥のように眠った。
布団と布団のあいだで生を受け、死んでゆく正体不明の物体のようだった。
とにかく、彼女に会うよりすこしでも眠っていたかった。
当然、ふられた。
体も心も限界だった。
辞めるなら後任を連れて来いと言われた。
じゃあ今月分の給料とかいりませんから、と言って話はついた。

会社をやめて、することがなくなった。
失業保険が出るまで、粘ることにした。しばらく働きたくなかった。
使う暇もなくたまった貯金があった。
切り崩せばなんとかなるだろうと思った。

毎日、アパートの六畳間に座り、ワイドショーを見ながら缶チューハイのストロングゼロを飲んだ。
ダブルレモン、ダブルシークヮーサー、ダブルメロン、ダブル完熟梅……。
……ダブルって、なんだ……?

だいたい、気づくと、よだれをたらして寝ていた。
日が落ちて真っ暗ななか起き上がり、冷蔵庫のドアを開ける。
そこにはストロングゼロが並んでいる。
それを取り出し、今度は夜のドラマを見ながら飲んだ。
また、いつのまにか、眠ってしまうまで。
ちいさなローテーブルの上にはストロングゼロの空き缶が山のようにたまっていった。

ある日、テレビのお昼のワイドショーを見ていたときのことだ。
事故も事件も政治もぜんぶ、自分とは遠い世界の出来事だった。
司会の人はきっと、そんな遠い世界にいる俺や、俺のような人々のために、険しい顔つきの専門家にむかって何度も何度も同じ質問をしているのだろう……なんて思っていると、どこからともなく女の声がした。
「あのさあ」

首を左右に振った。ついに幻聴かと思ったのだ。
「ちがうて、こっち」
気さくに俺を呼ぶのは誰だ。「こっち、こっち」という声にうながされ、ローテーブルの上を見ると、積みあがった空き缶の山の一角、ぐにゃり、と「くの字」に曲がったストロングゼロ・ダブルレモンの飲み口から、女がひょっこり顔を出し、こちらを見ていた。

十数年前に死んだ、従姉妹のK子だった。
飲み口からTシャツ姿の肩を出し「これ切り口鋭い。やばい」と言いながら、もそもそと動いて缶のふちに手をかけ、ジーンズの尻を、ぐいっと引き抜いた。
勢いがついてそのまま、積みあがった缶でできた坂を、ガラガラと音を立てて転げ落ちてくる。

「いててて……」その姿は生前のとき、二十歳の頃そのままだった。
サイズが極端にちいさくなっただけだ。
「ひ……ひさしぶり……」と俺。
K子はゴミだらけの室内を、ぐるりと見渡した。
「ひさしぶり、じゃねえて……。なーんかすさんだ暮らししてんね……」
「あー……会社辞めちゃってさ……」
「もう三十路らろ? 大学まで行ったのに……こんなの、おばちゃん見たら泣いちゃうて。まだ生きてんじゃん?」
「あ……うん、うん、まだ生きてる」
「で、どう。みんな元気?」
という話の流れから、彼女の両親が健在なこと、そして彼女の姉が医者と結婚して子供を二人もうけたこと、弟は土建屋に就職したこと、うちの父親が釣り仲間の大会で賞を獲ったこと、母が最近家庭菜園にはまり、収穫した野菜をどっさりと送りつけてくること、さらに他の従弟妹たちの就職や進学の話もした。

「みんな元気なんらね……」とK子。
目の前には俺が小皿に注いだストロングゼロが置いてある。
持ち上げるには重いらしく、ときおり、洗面器に顔をつけるようにして味わっている。
「ところでさ」と俺。「俺のとこに、なにしにきたの?」
彼女はひょこん、と跳ねるように皿から顔をあげて、正座した。
「それがさ、こんどあたし、生まれ変わるんさ」
「えっ」

輪廻ってやつか。何になるのか聞いてみた。
「人魚」
人魚だあ……? 斜め上からボールが来た感じ。
「存在すんの、そんなもん」
「そうなんさあ」と言って彼女はにこにこと微笑む。
「あたしも意外だったんだけど、それもなんか、よくねえ?」
「いいのかよ」
「いいんじゃねえかなあ」
「ふーむ」
「そんで、あんたんとこ来たんよ」
「俺、人魚なんか知らんよ」
「あたしを海に連れてってもらおうかと思って」
「なんでまた」
「身内でさ、こんなあたしが目の前に出てきて話ができそうなの、あんたくらいらろう」
……なるほど。
俺はうなずきながらストロングゼロをひとくち飲んだ。
「じゃ、行こか」と即決した。

空は抜けるように真っ青で、太陽は世界を明るく照らし、あらゆる物体の影をまっすぐ真下に落としていた。
俺はK子を青いシャツの胸ポケットにいれて電車に揺られていた。
カーブにさしかかりガタンと、横に大きく揺れるたびに体育座りをする彼女のちいさな手がポケットの内側をぎゅっと握りしめるのがわかった。

              *

K子は仕事の帰り、送ってゆくよと声をかけてきた同僚のクルマに乗り、事故にあって死んだ。
スピードを出して交差点を曲がったクルマの鼻先にトラックが停車していたのだ。
荷台の下に潜り込むかたちになってクルマは壊れ、K子は死んだ。
俺はK子が生まれ育った家の、十数年前の光景を思い出していた。
伯父さんと伯母さんは嫁にいかずに亡くなった娘のためにと、死体にウェディングドレスを着せ、布団をかけて安置していた。
その顔は綺麗に修復されていた。
言い古された言葉のとおり、まるで眠っているように見えた。
伯母さんはなにかと理屈をつけ、火葬にする日を伸ばし伸ばしにした。
死体のある八畳間からは異臭が漂うようになった。
線香の香りが持つ機能というものを実感した。
肌がくすんだ黄色になるころ、死体は燃やされることになった。
棺桶は色とりどりの花々で埋まった。
俺は白いマーガレットかなにかを入れたと思う。

              * 

駅を出て、巨大な砂丘の上にできた住宅街を歩いてのぼり、そしてゆっくりとくだってゆく。
途中のコンビニエンスストアでストロングゼロを買った。
飲みながら、砂丘のふもとの松林をぬけ、最近整備されたサイクリングロードを横切って、砂浜へ出た。

あまりにも広い空と海の間を俺は歩いた。
ちっぽけな虫になった気分だった。
重く大きな波の音と冷たい風を全身で受け止め、それを押しのけるように、一歩ずつ、脚に力を入れて、歩いた。

打ち寄せる波のしぶきがきらきらと輝いていた。

よいしょと、俺は砂の上に腰を下ろし、ポケットの下に右手をそえた。
K子は「よっこらしょ」と言いながらポケットをよじのぼり、てのひらの上に乗った。
ゆっくりと砂浜に下ろした。

「さすが、大学出は頼りになるわ。あんがとねー」
K子はそう言って手を振った。
「学校は関係ないだろ」と俺。すこし茶化された気もしたのだ。
「人魚になっても、元気にやんなよ」
「そっちこそ、まともに生きなー。すさんでねえで。おばちゃん泣かすな」
「ああ……」やっぱり茶化していたのか。「わかったよ」
「真面目に生きれ」
「はいはい」

K子は「じゃあ元気でなー」と大声で言いながら海を目指して駆けはじめた。
波打ち際で立ち止まると、Tシャツもジーンズも脱ぎ、寄せる波に向かって思いきり放り投げた。
そしてそのまま飛び込み、波間に消えた。

俺はストロングゼロを飲みながら、ずっと波を見ていた。
人魚の尻尾が、いまにも跳ねはしないか、と思ったのだ。
そのまま動かず、ずっと、見ていた。

どれくらい時間が経ったのかわからない。
後ろから声がした。
振り向くと、サイクリングロードで自転車を止め、こちらを見ている若い男がいた。

「ほんとに大丈夫ですかー」と言っている。
海に身を投げそうに見えたのだろうか。
どうも、何度も俺に声をかけていたようだ。

俺は片手にストロングゼロの空き缶を持ったまま立ち上がり、手を振った。
「だーいーじょーぶ、ですよー」と、大きな声で言った。


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