【短編小説】俺流チャーハンの作り方 [昭和野蛮篇]
俺流チャーハンの作り方。用意するものは、非常にシンプルだ。
玉子、ニンニク、シーチキンの缶、レタス、長ネギ、そして冷や飯、塩コショウ。
フライパンに胡麻油とサラダ油を適当に入れて温めたら、刻んだニンニクをガッ、と入れてフライパンをゆすり、油に香りを移す。
立ち上がる香ばしい匂い。そして焦げる前に、溶いた玉子を投入。
ジャッ、という音とともに玉子が固まりはじめ、気泡が、ふつふつと踊る。
その上に冷や飯をドッと落とし、フライ返しで、グッ、グッ、と底からひっくり返して混ぜる。
半熟の玉子焼きを米の一粒一粒にコーティングする感じで、混ぜる。
湯気がぶわっと立って、玉子が米にある程度行き渡ったら、その上に用意したシーチキンを油ごと、バッ、と入れる。味のベースにもなる。
なおもかき混ぜる。ツナの焼ける匂いが漂ってくる。
ひと通りフライパンを振り、なじませたら適当にちぎったレタスを入れる。
多少、大きくてもかまわない、熱を加えるうちに小さくなるからだ。
水分を飛ばすためにフライパンを振る。振りつづける。
振るといっても、実は前後に動かすのが正解だ。
前へ押し出せば米や具材はフライパンのカーブに合わせ、自然と宙に舞う。
それらは後ろに引いたフライパンの上に、ドッと落ちてくる。
フライパンの前後の動きを心がければ、落ちてくる米も具材も自然と受け止められるものなのだ。
考えるな、感じろ。
頬に汗を浮かべてフライパンを振る。腕の筋肉が固くなる。
チャーハンが湯気を上げて宙に舞い、ザッ、と自由落下する。
食欲を刺激する香りをまといながら、米や具が宙に舞うその姿に、ジャクスン・ポロックのような、自由に絵の具が宙を跳ね、キャンバスを叩く抽象芸術を思い出す。
おお、美しい。
ところで自由落下といえば、俺の通っていた小学校のグラウンドには、
巨大な丸太を組み合わせた運動具があった。
トラックの端にあった広い砂場に、電信柱がマッチ棒に見えるほど巨大な丸太が、H字に組まれ、屹立していた。
Hの中心の横棒の両端には、後ろの地面から支えるための丸太が斜めに取り付けられていた。
子どもたちは斜めの丸太をよじ登って横棒の上に行き、そこを渡ったり、下の砂場めがけて飛び降りて遊んでいた。
もしかすると飛び降り台という名前だったかもしれない。
ゆうに校舎の二階ほどの高さがあったと思う。
たしか4年生にならないと使えなかったのではないか。
その横にはダンプの巨大なタイヤを重ねて作った「タイヤ山」があった。
これもその高さは校舎の二階ほどあり、そのてっぺんはひろびろとして、駆けっこもできたほどだ。
そして子どもたちは、休み時間になると、もちろん、その上からも飛び降りていた。
男子も女子も、パラパラ、パラパラ、と。
現代の、ソフティスケートされ、責任や、管理体制の厳しくなった学校関係者が見たら、卒倒まちがいなしの光景だ。
まさに昭和の野蛮。
これらの設備でだれも怪我をしなかったことは、よく考えると不思議である。
実際、こういう危険な遊具よりも多くの生徒が転んだり、落ちたりして怪我をしたのは、たぶん、グラウンドの脇にあり、長大な幅を持つ、階段状の巨大なスタンド(観覧席)だろう。
小学校は桜並木のある堤防沿いにあり、だからグラウンドの脇にはゆるやかな堤防の勾配があった。
その勾配をコンクリートで固めて長大なスタンドにしてしまおう、と思いついた設計者がいたのだ。
実際、運動会ではそのスタンドが生徒の保護者が陣取る貴賓席みたいなものになったし、球技大会などの学校行事で生徒が応援席として使うことも多かったのだ。
けれども、しじゅう誰かが転んだり、落っこちたりしていた気がする。
身近な出来事として、その事故に立ち会ったこともある。
小学3年生のある日の昼休み、グラウンドでゴムボールを使って野球をしていたら、同級生の三本木くんがフライを追いかけた末に転び、このコンクリートのスタンドの角に口をぶつけたのだ。
あっというまに彼の口は血で真っ赤に染まり、歯が欠けた。
その様子に、まわりの子どもたちは恐怖を感じ、泣きじゃくる彼のもとに誰も近づかなかった。
ただ、俺だけが彼に肩を貸し、体操着を彼の口から吹き出る血に染めながら保健室へと連れて行った。
三本木くんは俺に何度も、ありがとうと言いながら
「まるちゃんだけがほんとのともだちだね」と宣言してくれた。
その言葉はちいさな勲章のように俺の胸に輝いた。
その日から三本木くんとよく遊ぶようになった。
小柄な彼はよく俺の後をついてきて
「まるちゃん、まるちゃん、今日は何して遊ぶ?」とよく聞いてきたものだった。
小学校に通う間、クラス替えで別れ別れになることがあっても三本木くんの家にはよく遊びに行った。
ただ、二人とも中学に進んでからは、子ども時代のような行き来がなくなってしまった。
まあ、よくある話。なんとなく、疎遠になってしまったのだ。
それでも、彼と遊んだ日々は、ちいさな勲章とともに俺の胸のなかで、いい思い出となっていた。
高校3年の冬だった。
冷たい風の吹く日だった。
バスを降りて家へと歩いていると、後ろから駆け足で誰かが近づいてきて
「おい、マル!」と俺を呼んだ。
そんな馴れ馴れしい呼び方は誰にもされたことはなかったので、
すこしカチン、として振り向くと三本木くんだった。
「昔はよく遊んだなあ、マル。ひさしぶりだなあ」
三本木くんは成長し、身体が大きくなっていた。
学生服は短ランにボンタンのセットで、髪型はビシッときまったリーゼント、マフラーは紫色だった。
これも昭和の野蛮である。
俺の肩に、ポン、と手を置き、「かわんねえなあ」と言った。
俺はとまどいを隠しながら「あ……ああ」と答えた。
おたがいにどの高校に通っているかを聞き、卒業後の話にもおよんだ。
「さすがガリ勉のマルだなあ、進学校じゃん。マルは大学行くんか」と言われた。
うん、とうなずくと「俺は親父の土建屋を継ぐわ。まあ、いまは景気もいいしなあ」。
そう言う彼の笑顔は誇らしげだった。
それくらいのやりとりで、ふたりとも「じゃあな」と手を振って別れた。
俺は、あの、当時はちいさくて、毎日後ろをついてきていた三本木くんに「マル」と呼ばれたり、「ガリ勉」なんて思われていたことや、彼の大きな体格や不良のスタイリングを見て腰が引けたことも、とにかくその場のすべてが不快で、もやもやしていた。
そして、そんなことを不快に思う自分も、なんだか、どこか、不快だった。
自分のことが、なぜか、あまり上等でない、どちらかと言えばチンケで、嫌な人間に思えたのだ。
そして不快と言えば……なんだか不快な……匂いがしてないか……。
ああっ!!
手元を見ると、いまやチャーハンは、マル焦げである。
真っ黒な煙を放出する物体を、フライ返しでガリガリこすれば炭化した粉が宙に舞う感じ。
フライパンに穴が開いていないだろうか。
それくらいひどい。
アンビリーバブルかつ、火事一歩手前の緊急事態。
全身から怒涛の汗が噴き出す。
そんな事態を招いた自分が、心から不快だ。泣きたい。
フライパンを壁にぶん投げたい。
でも、そんなことをしたら、さらに悲惨で取り返しがつかなくなる。
人生、つらいことばっかりだ。
でも、生きていかねばならない。
人間だもの。
すべてをあきらめたくなるほどの絶望を背負いながら、一歩でも前へ。
それが、俺流のジャスティスなのだから。