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何も知らずに飛び込まなくなってからどれくらい経つのだろう

ラーメンを食べたい。そんな気持ちになっても、結局のところラーメンそのものを食べたいのか、あるいは「どこそこのラーメン」が食べたいのか、それとも「〜系でこんな麺のラーメン」が食べたいのか。色々変わってくることがある。

ただラーメンが食べたいと思ってとにかく適当にお店に入って食べるラーメンをここのところ食べていない。

誰かが評価し、味の傾向だったりを書いているラーメン屋さんにそれなりに時間をかけて向かうことの方が多い。

そうなると「美味しい」と主観的に感じてラーメンを食べているのか、それとも「美味しい」という情報を前提にした状態でラーメンを食べているのかよく分からなくなってくる。

ウイスキーが好きだ。

あの黄金色のアルコールが喉に刺さり、それからフワッと香りが立つウイスキーの味わいが好きだ。ピーティーだとかモルトのなんだとかを言語化することだってできるけれど、元を辿れば好きだから飲んでいる。

ブラインドテストの目的はそんな事前情報やバイアスを避けて味わうためのものだし、それで「うまっ!!」となったらきっとそのお酒は美味いに違いない。

一方、日本酒通の人がみりんをブラインドで飲むと芳醇だと表現することだってあるだろう。それもそれで本質的には美味しいのだから間違ったことではない。

それはその日本酒通の人が馬鹿にされることではないし、むしろそれだけの美味しさを秘めているみりんが評価されるべきものだろう。

父の誕生日に、ワインを送ることにした。

稼いでいて、そして学生にとっての高級なものだって普通に買えるような人に対して贈って喜ばれるものが思いつかない。

大人や家族に向けたプレゼントを送るのが苦手だ。

そうなると、最終的には「子供から贈られたもの」として受け止められることに頼るほかない。

マイケルポザーンというところのワインを買った。

言っちゃなんだが、学生でも普通に買えるくらいのレベルのワイン。それも決して高級なものでもない。

話は変わって、有名で高級なワインにオーパスワンというものがある。

カリフォルニアワインで、それはそれは豊潤。ボトルで数万円はするし、レストランでグラスで飲むとグラスでも単位は万になるようなワイン。

飲んだことはないけど、美味しいらしい。

下手すると父は飲んだことがあるかもしれない。

言ってみれば、それクラスのワインを知っている人に対してワインを贈るなんてことは暴挙にも程がある。

なのにワインを贈ることにした。

なぜなら、自分が買ったワインは「オーパスワンのブドウの隣の畑で作られているブドウで作られているワイン」だから。

あらゆるものにはストーリーがある。そんなことを本で読んだ。

ワインだとブドウの品種から歴史的な改良の変遷、さらに圧搾技術に設備の過程、輸出の流れにそれに関わるスタッフの歴史。

ワイナリーそのものにも歴史があるだろう。昔火事で全焼したかもしれないし、なんならそこの代表たちは過去に大喧嘩をしたことだってあるかもしれない。

これで「実質オーパスワン」のワインだと言うつもりはない。

それでも、もしかすると父は「オーパスワンに匹敵する旨さだ」というかもしれない。

「美味しい日本酒が美味しいみりんと同じような味がする」みたいなことと同じで、結局のところ情報がなければよりプリミティブな知覚をするのかもしれない。

「何も知らない」ということは悪く言えば「比較対象や情報がない」状態であって、逆にいえば「全てが初体験となる」状態とすると、色々と面白くなってくる。

自分たちは思っている以上に情報に溢れて溺れて生きているし、それ以上に情報がなければ何かをすることができない毎日を送っている。

どこかに行くのさえ、まずは何時の電車に乗るかを最寄駅に向かいながら調べている。

何かを食べることさえ「地名 ごはん」とかを検索している。

小さな頃の読書感想文宿題を思い出した。

自由図書と課題図書に分けられていて、あの頃は誰かに読めと指定されたものを読みたくなかった。今でもそうだ。そうか?

本屋や図書室に行き、これを読もうかと思って本を選ぶとき、Amazonでレビューや評価を見ることはなかった。

ただただ「面白そう」と思って選んだ本は、面白かったり、コレジャナイと思ったりしても、読み終えた満足感があった。

今も昔も、本の帯には誰かが面白いと評価したものが書かれていたりする。それを目当てに買う人もいるだろうけど、本を買う前から誰かに誰かの評価がされている本を読むのもなぁと思ってしまう自分がいた。

少なくとも中田あっちゃんが絶賛している本は大抵うすっぺらい。

ラーメン屋に行く話に戻しても、入る前から既に「〜ラーメングランプリ2008優勝!」とかが書かれていると、(どうせ美味しいことに間違いはないんだよなぁ)と思ってしまう自分がいる。

ほぼ全てのものがラベリングや数値化をされている社会で、果たして何が「得体の知れないモノ」として残っているのだろうか。

きっと自分が書く記事、今書いている記事だって、誰かのスキの数だったりシェアする人の属性によって読まれるかが変わってくる。

そう考えるとサムネってほぼワインのラベルとかと変わらんやん!と今感じた。

この前に読んだ論文が少しつながった。

なんでも、サムネイルの傾向によって主効果値が変化するといったもので、極端な話だけど極端なサムネだったりうらやましいと感じられるサムネだったり、顔をアップにして紹介をするものなどが直接的な訴求効果が得られるそうな。

自分の驚き散らかしている顔を撮って、さらに衝撃的なコメントを設定すればそれなりにビュー数が稼げるのだろうか。いつかやってみたい。

同じ記事を投稿して、サムネによってどう変化するかを試すのもいい機会かもしれない。ちょっとやってみようかしら。

とりあえず父にワインを贈ったその後については、ワインが届いて父が飲んでコメントが届き次第後日譚を書きたい。

そんなわけで、今日はこの辺で。

参考:YouTuberの動画における視聴者に選択されるサムネイル画像とタイトルの研究(佐藤, 田村, 2019)

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