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マイルドヤンキー、ペシミスト陰キャ

好きな声優が結婚した。

デビューあたりからずっと活躍を見続けていた彼がついに結婚した。

17歳で出演していた頃の作品が今でも好きだし、彼が歌っている曲も好きだ。

そんな彼が結婚した。24歳らしい。

結婚をしたいかと聞かれると、そりゃまぁ、したい。

子供は育てられる気がしないので保留。そもそも自分が産むわけではないので気軽に子供が欲しいだとかを言えるような身分ではない。

進化心理学の本を今少し読んでいる。

よく考えて、考え続ける人間ほど本来の生き物らしい生活や価値観から離れていくらしい。

鍛えて、メスを求め、射精し、子を持ち遺伝子を残す。

単純でありながらもある意味崇高な目的に、意味を見出すことは果たして必要なのか。

そんな意味を求める時点で、本来のヒトらしい枠組みから外れてしまうような気がする。

それがこれまでの当たり前だったのかもしれないし、今の当たり前に疑問を持つことがポリコレ的であるかと考えると、そうとは限らないだろう。

先輩と飲みながら話していたなかで、こんな言葉が出てきた。

マイルドヤンキーとペシミスト陰キャ。

マイルドヤンキーとは、やんちゃではある(あった)けれど、すぐに結婚して働いて子供がいる人を指し、ペシミスト陰キャは考え続け、考えすぎるが故に、生に対して悲観的な人を指す。そう定義づけした。

きっと自分たちはペシミスト陰キャに違いない。そんなことを話していた。

そもそもセックスを楽しむ人間の頭に反出生思想がよぎるわけがない。

解放的な性の営み、生殖本能に身を任せる誕生の歓びに、どこで「生まれることを望んでいるかを確認できないヒトに対して自分は責任を持てるのだろうか?」と自問自答しながら腰を振るヒトがいるのか。

難しいことなんか、考えないに越したことがない。世界がどうして生まれたのかを神による祝福と割り切った古代の人たちはある意味では賢かった。

地動説を頑なに信じなかった過去のヒトたちはある意味では間違っていなかった。疑うことが神への冒涜になると理由を定めたことも教義を以て考えることを放棄することが認められたのもある意味では美しい。

それがどうしたことか、哲人によって考えることの崇高さが認められるようになり、知らないことを知らないままにしておくことが許されなくなってしまった。

きっとソクラテスはペシミスト陰キャだ。間違いない。

そして、ソクラテスを囲み異端であると糾弾した人たちもまた、マイルドヤンキーだったに違いない。

いつの時代もヒトは二分できる。

マイルドヤンキーと、ペシミスト陰キャ。

マイルドヤンキーが無知で無能と言いたいわけではない。

思考の方向性がきっと違うのだろう。

進化心理学的に言えば、モテること、すなわち子を遺すことに割けるリソースが多い存在こそがマイルドヤンキーであり、行為そのものに疑問を持ち、納得をしたいのがペシミスト陰キャなのではないだろうか。

なら、この両者の中間地点に立ち続ける人間こそが、ある意味では最強の人種なのかもしれない。

モテることに全振りしつつ、さらに考え続けることを忘れない。

そんなヒトはきっと意味の伴う行動をし続けているに違いない。

よく考えたら自分の知っているすごい人たちはバイタリティがとんでもないのに、話すことに重みがある。

最悪を頭の片隅に残しながら、全速力で目標に駆け抜ける。

悲観的な楽観主義者ほど怖いものはないだろう。

そんな人種は体を鍛えることによる苦しみも楽しみだすし、逆境をチャンスと捉える現代のスパルタみたいなものだ。

そうか。そうなればいいのか。よしそうなろう。急に変わることはできないけれども、近づくことはできるだろう。

それでも、自分は自分の子供を持ちたいとは到底思えない。


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