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帝王学のバイブル「貞観政要」は少し歳を取ってから読まないと理解ができない理由

唐の太宗とその配下の腹心たちとの対話集を通じて、その太宗のリーダーとしての謙虚さ・高潔な精神が最初から最後まで読み取れる名著。日本においては北条政子や明治天皇、さらには徳川家康も読み、治世の術を学んだという。
「名君は部下の耳の痛い諫言(かんげん)もきちんと聞くべき」
「部下のいうことを信頼し、よく聞くのが名君」
といった、部下の言葉に理解を示し、「そうだな、もっと耳の痛い話もしてくれ。そして皆の者、これからも気兼ねなく諫言を言って欲しい」という度量のある名君、太宗の言葉が続く。そして、全頁を通じておおよそこうした、ズバズバとモノを言う部下とそれをきちんと聞く名君太宗の会話のやりとりが続いていく。大雑把にまとめると上記のような内容である。

全頁を通じて、清廉潔白で非の打ちどころのない完璧なリーダー像が浮かんでくる。片や一方で、完璧すぎて「自分は後世に素晴らしき名君であったと語り継がれたい」という意図が感じられてしまう箇所があるのもまた趣深い。そう考えてみると、同じく歴史上の名君として名高いローマの皇帝、マルクス・アウレリウスが書いた「自省録」では自分の周囲に苛立ちを隠せない感情を自分の日記にぶつけていたり、または(君主ではないが)天才レオナルド・ダ・ヴィンチにおいては、その手記「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」の中で、自分の才能を理解しない周囲に対して怒りを綴っている。一方で貞観政要にはこうした皇帝や天才で有る前に一人の人間であることから来る苦悩や苛立ち、焦燥感といった人間らしさを、太宗から全く感じない。これは理由はシンプルで、自省録とダ・ヴィンチの手記は自分が勝手気ままに綴っていた記録を後で人々に見つかってしまい、意図せず公開された作品であるのに対し、貞観政要は後世に高祖太宗の名君ぶりを伝えるために意図的に構成・内容を練った作品だからであろう。どの為政者も後世には立派な人物として刻まれたいんだろうなと感じさせられる。

文書の構成も技巧に満ちている。まず太宗は、優れた君主であることを自ら直接示すのではなく、部下との問答を進める中で、間接的に自分が優れた君主であることを部下に言わしめるように示す部分が多い。

もし、この書を10代か20代の頃に読んでいたら「太宗は歴史上稀に見る名君だ。リーダーとはかくあるべしだ。自分も将来見習いたい」といった非常に短絡的な感想しか思い浮かばなかっただろう。一方で30代もしくは40代以降になれば、「言っていることは素晴らしい。けどこんなリーダー本当にいたのか」とか、自分の元上司が役員になったことを思い浮かべながら「そう言えば、太宗は皇帝になってからの行いや言動しか書いてないけれど、この地位につくまでにどんな権力争い等をしてきたのだろうか。その過程においても、太宗は名君だったのだろうか」と、自分の身近なリーダーを思い浮かべながら、読むことができるだろう。その意味では、貞観政要は少し歳を取ってからの方が味わい深い著書なのだろう、というのが読んだ後の感想で有る。

少しひねくれた感想になってしまった点は自分自身でも反省だが、「どんな人がどのような意図を持って言ったかより、何を言ったかが重要」という前提に立つのであれば、本書で記載される言葉一つ一つは、非常に素晴らしい名言ばかりであり、学ぶところの多い作品である。

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