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福翁自伝(福沢諭吉著、現代語訳)を読んだ

日本国紙幣のうち最も高額である一万円札の顔である福沢諭吉。この度一万円札の顔が渋沢栄一に変わることに伴い、福沢諭吉の著作である「福翁自伝(現代語訳)」を読んでみて、改めてどんな人物であったのかを自伝を通して探ってみた。

佐賀県唐津市というやや閉鎖的で封建的な社会の中で生まれ育った諭吉は、神社の御神体の石を他の路傍の石と交換し、神の罰当たりは存在しないと確証した少年時代を送った。その後は酒に浸りまくった青年時代、そして好機を逃さず咸臨丸に乗船し米国に渡った立身出世幸いする時代の言動を見ると、ついついその先天的な資質や破天荒で自由奔放な性格に目がいき、「面白い人だったんだな。読み物としてにも楽しめた自伝だった」という感想で終わってしまいがちの書籍である。

が、よくよく読んでいると相当な努力家であったことがわかる。

「枕をして寝たことがない」と後から気づいた大阪の緒方塾時代は、蘭学の教科書を隅から隅から覚えるほど読み込んでいた。自伝の中では勉学の時間がさらっと流されているが、緒方塾のみならず渡米前後でも相当の語学の勉強を積んでいたことがわかる。こうした努力を努力とも思っていないところが凄い点であると思う。

また、福沢諭吉の母・お順からの後押しもあってこそ、福沢諭吉は故郷唐津を離れ、大阪そして東京で伸び伸びと西洋学問を習得できたという点も忘れてはならない点だと思われる。福沢諭吉の成功は単にその自由奔放では点んこうな性格のみを以て成し遂げられたわけではないことが自伝から分かる。父を早くに亡くし、また兄も亡くした福沢諭吉は長男として故郷佐賀県唐津市の家を継がなければならない中、故郷を離れ大阪にわたり勉学の道にでるわけであるが、その決断を後押ししてくれたのは母であった。もし母が、「そもそも長男とは地元に残り家そして親族を養うべき」といった旧来の発想にとらわれていたならばもう少し福沢諭吉の人生も違ったものになっていたかもしれない(尤も自伝を読む限り、相当に自由奔放な性格だったようなので、仮に母に反対されたとしても故郷を去っていた可能性は高いが)。

母・お順然り緒方塾然り、人の才能を開花させるためにはある程度自由にやらせつつも、修行期間とも言えるような自己鍛錬の場を与えることが重要なのだとよくわかる自伝であった。

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