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総合人間力vsオンリーワン人材

先日、最後のセンター試験が終わり、次年度からは大学入試も新しいステージに突入する。

うちの子達はまだ小学生なので、少し先の話とはいえ、「そのうちね」じゃ済まされないという感覚になって、家庭内ではすでに、未来に向けたアクションを起こしている。

これからの教育の変化や、社会で活躍できる人間とは・・・何がどう変わっていくのかアンテナを張りながら考えてみると、人生には大きく分けて二つの攻略方法があるように感じてきた。

総合的な力が問われる時代

現役で子育て中の人はよくご存じだと思うが、僕らが現役で学生ったころとは、科目そのものがけっこう変わっている。たとえば、小学校低学年でも、理科や社会というのが昔はあったが、現在は「生活」に統合されている。

高校の社会の地理、歴史では、ずいぶん前から、これからは国際化の時代ということが言われて、世界史が必修。そして、日本史か地理が選択となっていた。その結果、日本史の教養は中学レベルで止まっている人が、その後本当にグローバルな職業に就けたとしても、「ニホンジン ナノニ、ニホン シラナイ,WHY?」ということが起きているということが想像できる。

そこで、日本史も必要だし、世界史もやめられないということで、「歴史総合」になるという。そして地理は「地理総合」、公民科の現代社会、倫理、政治・経済は「公共」となるそうだ。

科目の垣根の弊害ということは以前からよく言われていることで、こうやって科目が融合していくことで、さらに俯瞰した知識となっていくことは期待できる。

また、文理融合ということも注目を集めている。下手すると文系の大学で数学どころか「算数」をやるはめになったり、理系では広島への原爆投下がいつの時代の話かわからない学生もいるという。

実際に今、小さな商売を経営していて感じるのは、何かが飛び抜けていても、経営者は勤まらないとは思う。

ロジカルシンキングという言い回しが少し前からずいぶん流行ってるけど、最近はクリティカルシンキングも必要だということが言われる。それぞれの用語の解説はここでは避けるが、クリティカルシンキングなんかは、まさに広い教養と垣根を超えた知識という下地があってこそできることで、にわかで練習したらすぐに実践できるということでもない。

そういう意味では、学生時代の科目はもちろん、大人になっても幅広く教養を身につけていかないと、社会貢献できる機会が減っていくことになるだろう。

しかし、「何でもできる人」というのは、基準が曖昧で評価されずらい。機能を詰め込んだアーミーナイフなんかは、どれも使い心地がいまいちである。

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たとえば、人事採用するときにも、どの仕事もそこそこできる人というのは、会社にとってとても便利だ。にもかかわらず、これと言ったアピールポイントがないと使う方も採用しずらい。「何でもできる」が、どのジャンルでも圧倒的なら別だが、並の人間ならなかなかそうはならない。

プロ野球で「二刀流」が騒がれるというのは、よほど稀なことだからだろう。

好きなことを、突き詰めろ

Youtubeに代表されるように、個人が世界に発信することができるインフラは整ってきたし、今後ますます発展していくことは間違いない。

よく言われるのは、苦手なことを底上げするよりも、得意なこと、好きなことを伸ばした方が良いという話。それをとことん突き詰めると、どんなニッチも世界のどこかで需要があり、しかもその到達コストは驚くほど安くなった。

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昨今、最先端で活躍している人は、好きなことをとことんやれというようなメッセージを発信している。たぶん、そうやって成功してきた人にとっては、間違いないことだろうけど、実際に”成功者”をみると、何かひとつに特化してあとは全然だめな人ばかりかといえば、あらゆるジャンルでものすごい高いレベルの教養を備えた上で、さらに専門ジャンルで他を凌駕している。

「好きなことだけやれ」が、まことしやかにささやかれ、やりたくないこと、苦手なことは避けてもいいと捉えてしまう人が増えてしまうと、どうなってしまうか。成長する毎に得意ジャンルに特化した大人にはなるかもしれないけど、バイアスがかかった思考というのはどこかで頭打ちになってしまう。

かつて、いわゆる「職人」と呼ばれる人は、そういうタイプだった。昔はその技術が評価され、仕事になっていったけど、今は違う。「営業」と呼ばれる人種が「職人」を食い潰してしまい、どのジャンルでも職人の価値は風前の灯である。

ところが、個人の中だけの話だけではなく、社会全体としても、言うなれば職人育成の風潮が見られる。「職人」と言っても、もちろん僕のような衰退産業に身を置いている職人ではなく、時代にマッチした技術やのサービスのスペシャリストのことである。

マルチな社員を雇うよりも、それぞれの特性、特技を生かして人事配置してチームで闘った方がいいという経営の仕方だ。国全体でも、スペシャリストの育成を目指している雰囲気を感じる。小学校でプログラミングの必修化なんてきくと、最先端の人材を見据えているように

教育の世界でも一部ではそれに反応しているようで、「底上げ」と言われるようなやり方は、あまり喜ばれていない。それよりも、得意科目をどんどん伸ばす方が、苦手科目も含めてトータルでも良くなっていくという。

たとえば伝統産業の職人の世界は、一見すると時代に求められていないのだから衰退して消えるしかないようにも思ってしまうがそうではない。本当に価値ある技術やサービスであるならば、それを世界に向けて発信していけば、どこかで需要はあるというのがグローバルニッチという考え方だ。

どちらが良いか?

今、大人達が何を考えているのか。なるべく、高い視点でそれを子ども達に伝えることは、学校の宿題をやることより重要だ。

一方では何でも出来た方がいいと言われ、もう一方では、好きなことをとことんやれと言われる。一方を聞けば偏るし、両方聞けば混乱する。だから、どちらかを選択しなければならないという伝え方ではなく、両方の考え方があるし、その間にハイブリットな生き方は無数にあるということを伝えたい。

そして、教育の現場でどちらも伝えられないと、子ども達は抽象度の低い思考になってしまう。どんな人生を送りたくて、自分は何をしたいのかということではなく、怒られる前に課された宿題をやるべきか、このままスマホゲームに夢中になるかというレベルでしか思考しなくなっては勿体ない。もっとも、その最低次元の思考すらなくなってゲームの奴隷になっている子達のことは社会問題になっているんだけど。

「総合人間力vsオンリーワン人材」どちらを目指す人生にしたいかと、個人的には、「総合人間力型」をやや推したい。

その理由は、「オンリーワン人材」は食い物にされやすいと思っている。これは金になると目を付けた輩が急に群がり、儲からなくなると捨てられる。テレビに取り上げられて一躍有名になったような「時の人」なんて呼ばれることは正にその典型である。人生100年時代と言われる今、一生を掛けて、ずっと需要のあるオンリーワンというはとても難しい。

あの有名な歌ではないが、ナンバーワンにならずにオンリーワンで食っていくには、世界に届かせるセルフプロデュース力がなくてはいけない。なぜ、セルフかといえば、上記の理由で他人のプロデュース力に乗っかるとすぐに捨てられるからだ。他人のプロデュース力を見事に乗りこなして、次々と渡り歩ける人もいる。それは、もはや売り出したいオンリーワンよりも、その協働できる力の方が才能だと思う。

では、完全にオンリーワンを目指すことを否定したいかというと、そうは思わない。ビジネスの世界では、レッドオーシャンで潰し合いした方がいいとは誰も思っていない。あえて激戦区に殴り込むという戦略はあるが、それは、埋もれずに個性を光らせる自信があるからやることだ。

つまり、万能型と個性型は対極にあらず、あるジャンルでは強烈なアドバンテージを持ちながらも、幅広い教養のある人間が、今求められているという気がしてならない。僕個人はそうありたいと思って、たぶん死ぬまで勉強すると思う。

これを学校レベルの話に置き換えると、数学や物理が得意な子はその分野をさらに磨きながらも、社会科は一通り押さえるべきだし、逆も然り。
そして、受験科目ではない故に学校ではあまり重要視されない、芸術、哲学、宗教のリテラシーが低すぎることで起きている社会問題は多い。これらの下地が無い人が言うことは、とても薄っぺらい。

ただ、勉強=受験対策というところから抜け出さなければいけないし、受験に勝たなければ質の高い高等教育が受けられないというジレンマがあることは認識しておきたい。

学校が悪い、自治体が悪い、国が悪いと相手に対してカードを切ることはできるが、個人が巨大組織をひっくり返すことはできない。それは、僕が自分のレベルで言ってるのではなく、国内トップクラスの知識人が提唱していることも、トップが腐った組織というのは簡単にひっくり返らない。

そんな中でも出来ることは、自分が人生の舵をどう切っていくのか、と考えること。そして、もう少し余力があるとすれば、自分の子どもに航路には選択肢が無数にあると伝えることだろう。

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