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晴れの日も雨の日も#221 こわいひと

こわい人はキライだ。近寄りたくない。
たとえば、すぐ怒る人。
DVだとか虐待なんてのはもちろん論外だが、◯◯ハラもお断りだ。
大きな声で怒声を浴びせる人。
一方的に自分の言い分をマシンガンのようにまくしたてる人。
最近は暴走老人と呼ばれる人種も存在するらしい。そんなふうに暴れまくってはいないが、なんか始終機嫌が悪そうで、むっつり黙ってる人。これも、どうみても怒ってるようにしか見えない。

こんな人が好きだという人はどこにもいないだろう。誰からも好かれないのに、どうしてこの人たちはこんなふうなんだろう。回りがイヤがっていて明らかに避けられているのに気づかないのだろうか。世界の7不思議みたいな話だ。


ほかにもいろんなこわい人がいる。


笑ってるようでも、目は冷ややかな人。
威厳があって、その人の前ではうっかりしたことは言ったりしたりできない感じの人。
普段は無口で自分をあまり表現せずに、ある時いきなりバサーっとやる人。

私はヘラヘラしたおちゃらけマンで、ほとんど声も荒らげないし、堪忍袋は大きくて丈夫だし、「ほとけのながい」を自称してきた。が、その自信が揺らぐ衝撃の摘発発言を、この数ヶ月の短い間に数度受けた。

自分に厳しく人には優しく、でありたいと思ってきた。カッコええやんと思ってきた。しかし、最近、それはありえないのでは、と考え始めている。
自分に厳しいというのは、なんらかの基準とか尺度を自分の中に持っているわけだ。自分のことはそれに沿って厳しく律するが、人にはそんなことは求めない。そんな境地を理想としていたのだと思う。
が、人には求めないといっても、自分の中の基準尺度価値観が無くなった訳では無い。人を見る際にそのモノサシで見ている。である以上、そのモノサシにあっているのかいないのかは見ているわけで、あっていなくても許容すると言っているに過ぎない。あっていないという評価を下している状態は人に優しいとは言えないのではないかということにようやく気づいた。

特に若い頃の自分。もともと持っている器が大したことないのはわかっているので、せめてそれを一生懸命磨こうとしていた。余計なものをこそぎ落として磨き上げる努力をしていた。あるいは枝葉をどんどん切り落として、本質にズバッと迫る力・強さを求めていた。日々真剣勝負、というとカッコよすぎてケツの座りが悪いが、そういう研ぎ澄まそうとしている感じが、周りの人に「こわいひと」という印象をあたえていたらしい。

今は、加齢効果、コーチング等の学び効果、脱サラ効果、などにより、丸くなったという評価も頂いた。あるいは、そういう過去のマイナスフィードバックを面と向かってして頂けるのは、それほどこわくなくなったから言えるようになったということでもあるだろう。それでも、なにかの拍子に、顔つきや声音に滲み出ることが0では無いかもしれない。

ともすればグイグイ攻めたくなる。特に、「ここ勝負」とか「この局面、なんとか!」とかという思いが強くなると、昔の集中力の出がらしが蘇る。それはしかし、あまりうまくいかないことが多い。#151「岡本太郎と後味」で後味とか余韻とかということを記事にしたが、仮に何かのはずみでその局面だけは打開できたとしても、結局長続きしないということに陥りがちだ。

コーチングは相手に安心安全を感じていただくことが一丁目一番地だ。「こわいひと」と思われているようでは全くお話にならない。ちょっと引いてホワンと構える。グイグイ攻めない。そんな感じでいきたいなあ。

松尾神社門前。ようやく紅葉してきた。今年の秋はやや深まりが遅い・浅い・薄い?

今日も最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました♬ 長井 克之

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<予定(但し、臨時差し替え頻発😂)>
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#224 助けを求める

(続く)

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