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鰯の大群

 私は、小学生の頃どころか、保育園にいた頃の、親ですら忘れてしまったような話をたくさん覚えている。親戚と思い出話をするとき、自分1人だけ詳細に覚えていることがよくあり、それについて気味悪がられたこともある。しかし、そのおかげで、1つ1つの思い出を振り返り、慈しむ機会に恵まれた。

 このnoteを書き始めたきっかけは、友人との交換日記である。彼女は高校生の頃に出会った変わり者の友人で、私に交換日記をしようと持ち掛けてきた。ただの交換日記ではなく、これまでの思い出を綴ってほしいと言う。

 ということで、これから先2週間に1度ほどのペースでこれまでの思い出を(若干の虚構を交えつつ)書いていく。時には面白い話があるかもしれないので、少し耳を傾けてみてほしい。自分が死んでしまったとき、自分の大切な思い出も一緒に消えてしまうことに一抹の寂しさを感じており、ここに少しでも痕跡を残そうとしていることも、書き記しておく。


 最初は、私が持つ1番古い記憶と、2番目に古い記憶について書こう。あの頃は考える力を一切持っておらず、複雑な感情も全く理解していなかったから、そこにはただ事実が横たわっているだけだ。だから、今回記述するのは、記憶というよりはむしろ記録であると言えるかもしれない。


 私が持つ最も古い記憶は、祖母の家の洗面台で身体を洗われているというものだ。それが何歳の頃のことかは覚えていないが、少なくとも風呂に入ることができるようになる前のことだということは、状況から判断できる。母は、子どもを実家の近くで産み、そのまま祖母の力を借りつつ育児を行っていたのだろう。洗面所のお湯につけられていることに関しては、特に無感情だが、微妙な温度のお湯をかけられても、とりあえず不快ではなかった。


 2番目に古い記憶は、2才と数か月の時まで飛ぶ。ちょうど妹が生まれた頃のことだ。妹は私と同じ病院で生まれた。妹が生まれた時、私は病院の別室で祖母とアンパンマンを観ていたのだと、祖母は私によく話すが、正直そのことは全く覚えていない。

 妹は今でこそとても丈夫で、私と弟がインフルエンザに1年で合計5度かかった時も、一度も病床に臥せることなくピンピンしていたが、生まれたての頃は非常に病弱だった。母に言わせると、小さい頃に一生分の薬を体の中に入れたからこの先病気にはかからない、らしい。

 ともかく、2才の私は、母と妹が病院に入院し、父が仕事で家にいないという状況に直面した。さすがに1人で留守番ができる歳ではなかったので、母方の祖父母の家に預けられることになった。(まだ父親の育児休暇など一般的ではない時代だったうえ、父は公立高校の教師で、仕事を休むことは非常に難しかったと思われる。)母と妹が病院に入院している間、祖父母は様々な場所に私を連れて行ってくれた。祖父はキャンピングカーを乗り回すアクティブな人物だった。山口県防府市の海の近くの家から、ある日は美祢市にあったニュージーランド村というテーマパークに、またある日は昔祖父が仕事をしていたという島根県の江津市に連れて行ってくれた。

 その頃、私にはようやく自我が芽生えていた。自我が芽生えていちばん最初に見た景色を、原風景と表すのならば、私にとってそれは島根の水族館だ。祖父母の行動拠点が江津であったことから、おそらく浜田のアクアスだと思われる。とにかく私は、祖母の引くベビーカーに乗せられて水族館に入り、巨大な水槽を泳ぐ鰯の大群に圧倒された。そのころは語彙力がなかったから、ただその映像だけを鮮明に思い出すことができるが、たぶん、とても綺麗だと感じたのだろう。そのあとに見たシロイルカや、シロイルカが吐き出す息がハート形に見えると言った祖母の言葉も覚えているが、なんとなく鰯の大群のインパクトには負けていた。その風景を、私は今この瞬間に至るまでずっと心にとどめており、時折思い出しては泣きたいような気分になる。

 私が、心に一切の雑念がなかったあの頃、世界で一番最初に認識した美しいものだ。どこで見たのかも完全に覚えているのだから、あの風景を求めているのならばさっさとアクアスに行けばいいのだが、なんとなく行ってしまえばこの感情が上書きされてしまう気がして、まだ行けないままでいる。もしも願いが叶うならば、祖母が元気なうちに、また2人でアクアスを訪れてみたい気もするが、祖父が重い病気を患ってしまった今となっては、それも難しい話だ。

 また、この頃の私のわがままは、両親に会えない私に同情したのか、はたまたただ初孫が可愛かっただけなのか(こちらの可能性が非常に高い)、祖父母は大抵叶えてくれた。今でも、黒いタクシーに乗りたかったのに迎えに来たのが白いタクシーだったからと言って駄々をこねただとか、うどんが食べたいと言うので粉から作ってやっただとか、色々な話を聞く。


 ちなみに、父と母は高校教師である。母はこの先も、妹と弟が産まれるたびに産休をとりつつ、私が22歳になった今現在に至るまで、時々愚痴をこぼしながらもしっかりと仕事を続けている。子どもの頃は全く理解していなかったけれど、それがいかに大変なことなのか、今ではよくわかる。母とは全く意見が合わず、これまでの人生の大半を対立して過ごしている(現在進行形だ)が、ただその事実だけで、立派な人間だと認めざるを得ない。一方、父は仕事人間で、私が子どものころはほとんど家に帰ってこなかった。話しかけたら時々返事が返ってくるレベルの徹底した無口だが、最近は余裕が出てきて雰囲気が明るくなってきたのを感じる。


 私は共働きの家に産まれたわけだが、子どもの頃、そのために孤独を感じたことはついに一度もなかった。小学校に上がるタイミングで、母方の祖父母の家の近くに引っ越して来たからだ。私は半分は両親に育ててもらったが、もう半分は母方の祖父母が育ててくれたと思っている。祖父母は本当に素晴らしい人物で、私が最も尊敬する人たちだ。私が人生を頑張っていこうと思えることの大半は、祖父母のためにある。これについては、また追々書いていこうと思う。

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