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初笑いは初落語

タイトルに「初笑いは初落語」と書いたが、正しくは初・桂文枝である。

落語はこれまでにもテレビで観たことはあるし、ナマで聴いたことも数回はあると思う。だが、面白いと感じたことは一度もなかった。

だから、落語好きの夫に何度誘われても「わたしは行かない。興味ないし」と断り続けてきたのだが、今年は「行ってみる」と返事をした。結婚十何年目かにして初めて行くと言ったのだから、「ホントに?チケット買うよ?いいんだね?」と何度も念押しされたほどだ。

単なる思いつきではない。
母が大ファンだった、桂文枝(三枝のほうが馴染み深い)の新春落語会だったし、何より去年この会を聞きに行った夫が「文枝さん本当に良かった~行ってよかったぁ」と呟いたその顔が、あまりに清々しかったからだ。

ホールを出た途端、めげずに誘ってくれた夫に感謝した。とても清々しい気分だった。ああ去年の彼の清々しさはこういうことかと納得した。単に声を出して大笑いしたというだけではない、スッキリ感がそうさせるのだ。

そう。桂文枝の創作落語は「スッキリ」した笑いに満ちている。間の取り方なのか話術なのか、はたまたネタの落ちが小気味いいからなのかわからないけれど、とにかく爽快だった。

「笑い」とは本来、こうした爽快さを伴うものだったはず。落語だけでなく、漫才も吉本新喜劇もお笑いも。大笑いして、ああ笑った笑った、面白かった楽しかったね、と。

いったいいつから「清々しい」笑いが、「嘲笑う」お笑いになったのだろう。

奇しくもここ数日、物議を醸しているブラックフェイス問題もベッキーへのタイキックも、昔の熱湯風呂や、突っ込みで頭を叩く行為も、それで笑いが起こるなら「嘲笑」だ。いじめてあざ笑うことと同じだ。

有楽町マリオンを出て、数寄屋橋交差点で立ち止まると、冬晴れの青い空がすーっと、わたしに沁み込んだ。
正月だからか、日の丸がはためいている。

2018年の初笑い。
桂文枝さんの落語で迎えられて良かった。
日本の落語の魅力に気づけて良かった。

清々しい笑いをありがとうございました。





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